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「ゴジラ」は我々に何を伝えようとしてきたのか(映画『ゴジラ-1.0 』から日本社会を考える)

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「ゴジラ」と遭遇した特攻隊の生き残り


 11月3日公開の新作映画『ゴジラ−1.0(マイナス ワン)』は、太平洋戦争末期から終戦直後を舞台に描く作品です。特攻隊員である主人公・敷島浩一が乗った零戦(ゼロせん)は、大戸島の基地に緊急着陸します。その基地を「ゴジラ」が襲撃し、敷島以外の日本兵は皆殺しにされてしまいました。(ネタバレになるので、ストーリー紹介は最小限にとどめます)


「日本兵が島で『ゴジラ』と遭遇する」という筋書きは、今回が初めてではありません。91年公開の『ゴジラVSキングギドラ』でも類似した場面があります。アメリカ軍の攻撃を受け、新堂靖明が率いる日本軍は玉砕寸前。そこに「ゴジラザウルス」という恐竜が出現し、米軍を攻撃してくれたおかげで日本兵は助かります。


 太平洋戦争を生き延びた新堂靖明は「帝洋グループ」という財閥を急成長させ、戦後の日本経済復活の立役者になりました。「キングギドラ」に襲撃された日本を救うため、新堂は「ゴジラザウルス」を復活させて対抗しようとします。最終的に新堂は帝洋グループの本社ビルの高層階で「ゴジラ」と対面し、本社ビルごと破壊され、死んでしまいました。


 この映画が公開されたのが91年であることが重要です。当時の映画制作者はバブル経済に酔い痴れる日本を批判し、「今の日本の繁栄は虚妄ではないか」「アジア太平洋戦争の段階で、すでに日本は終わっていたのではないか」と問いかけたのではないでしょうか。


 80年代、90年代、2000年代に作られた「ゴジラ」シリーズは、同時代の受け手の動きにも似て、しばしば「ゴジラ」を何かの象徴として描き、「ゴジラ」とは何か、という読み解きが可能です。しかし、最新作『ゴジラ−1・0』では、何かの象徴としての「ゴジラ」という側面は薄まっているように思えます。


 核や戦争といった政治性や社会性を旧作ほどはっきりと出さないところは、2024年の今の時代ならではの特徴かもしれません。かつての「ゴジラ」と今の「ゴジラ」の違いを細かく読み解けるところも、映画を観る楽しみです。


西部劇の演出と現代映画の演出


 70年代後半以降、「ゴジラ」ファンは「『ゴジラ』とは何か」というテーマで延々と議論を続けてきました。「ゴジラ」に限らず、映画の演出手法は時代によって大きく変わるものです。時代とともに「ゴジラ」がどう変遷してきたか、新作が出るたびにファンは激論してきました。


 昔盛んだった西部劇は、銃を一発撃つだけで勝負に決着がついたものです。何が善で何が悪か。なぜ相手を倒さなければいけないのかを説明するために大半の時間をかけ、振る舞われる暴力は銃弾一発だけでかまいませんでした。


 シルベスター・スタローンやシュワルツェネッガーが活躍した80年代のアクション映画は、銃弾をすべて撃ち尽くすまでに20〜30分もかかりました。西部劇の時代に比べて、観衆をスカッとさせるスペクタクル(壮観なシーン)の部分がグンと肥大化したのです。日本映画の歴代興行収入最高記録を更新した劇場版『鬼滅の刃』無限列車編に至っては、後半のほとんどすべてが戦闘シーンの連続でした。


 VFX(Visual Effects=視覚効果)やコンピュータ・グラフィックスの技術がめざましく進歩したことによって、「ゴジラ」をはじめとする映画は昔とは演出手法がずいぶん変化しています。


 映像技術が発達した結果、ストーリー展開が単純で物語の内容がさほど深くなくても、観衆は退屈しなくなったとも言えます。「物語文化は必要なくなりつつある」と言っても過言ではありません。これから映画を観る読者のために詳細は控えますが、こうした時代の変化は『ゴジラ−1・0』の演出の各所にもあらわれていると思います。

「一億総白痴化」か「一億総博知化」か


 映画批評のプラットフォーム(共通の空間)が変化したことも現代的な特徴です。70〜90年代までの「ゴジラ」ファンは、雑誌の投稿欄に「『ゴジラ』が通ったあとは誰一人生き残らず焼け野原になるべきだ」「今回の『ゴジラ』からは核の恐怖が感じられない」などとさんざん批判を書き、ファン同士で論戦を繰り広げたものです。


 近年の映画ファンは、自分とは意見が異なる観衆と共通のプラットフォームで議論しようとはしません。似通った意見の人たちとネットやSNSでクラスタ(集団)を作り、タコツボ化しがちです。社会学で言うところの「つながりの共同体」に心地良さを覚え、さまざまな意見をもつ人々と幅広く交流することを好みません。


 メディア学者の佐藤卓己さん(京都大学大学院教授)が『テレビ的教養 一億総博知化への系譜』(岩波現代文庫)という本を出版しています。1950年代末、大宅壮一は「一億総白痴化※」と言ってテレビを痛烈に批判しました。(編集注※社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語。「テレビばかり見ていると思考力などを低下させる」という警句)


 この言い方を逆手に取り、佐藤さんはメディアが「博知化」をもたらしたと肯定的に評価しています。誰もが幅広い情報を受け取れるメディアは、大衆にとってのセーフティネットだというわけです。


 謙虚で敬虔な気持ちで物語やキャラクターと向き合ったとき、「すぐには理解できないな」と思っていた部分から何かを引き出し、映画の制作者が言わんとしたことを理解できるようになるかもしれません。サプリメントを飲むように作品をどんどん消費するのではなく、作品をじっくり味わってみる。


 何が善で何が悪なのか。人間は善であり、「ゴジラ」は悪と言えるのか。自分と似通った考え方の人とばかり接してタコツボ化することなく、自分とは異なる考え方の人にも思いをめぐらせてみる。「ゴジラ」が多様性を認め合う議論のきっかけになれば何よりです。

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