発声障害の苦しさと孤独――その〝声〞に耳を澄ます。
2023/10/13この疾患は症状がわかりにくく、患者は孤立しがちだった。
しかし、SNSから患者の輪が広がり、社会を動かしていった。
(『潮』2023年11月号より転載。文=黒島暁生。サムネイル画像=KamranAydinov/出典:Freepik)
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SDCP発声障害患者会の総会の様子。当事者、家族、関係者などが集まった。
発声障害という疾患の患者会
ホテルの豪勢な会場で、大勢の男女が入り混じってにこやかに微笑む写真がある。事情を知らなければ、大学のサークルのOB/OG会か何かだと思うだろう。この写真は、一般社団法人SDCP発声障害患者会が開催した総会の記念撮影での1枚である。
SDCPとは、Spasmodic Dysphonia Cheering Partyの頭文字を表す。発声障害(Spasmodic Dysphonia)を抱える人たちの応援団(Cheering Party)、という意味だ。応援団と名付けられているが、参加者の大多数は当事者でもある。
代表を務める田中美穂氏は、同団体の特徴について次のように話す。
「当団体は、明るく楽しく、会員同士が気持ちよく過ごせる空間を目指していますし、実際にそれを体現できていると思います。外部の方がお越しになると、皆さん『こんな明るい患者会があるとは驚きだ』とおっしゃいますね」
だが、その明るさには当然、理由がある。
「発声障害という疾患があること自体、一般にはあまり知られていません。簡潔に述べれば、声を出しにくくなる病気なのですが、具体的にどんな症状なのか、想像できる人はほとんどいないと思います。また当団体においても、変声障害、心因性発声障害、機能性発声障害、痙攣性発声障害、過緊張性発声障害など、個々人によって病質が異なり、患者はもともと孤独感を抱えています。
そもそも医療機関などで症状を訴えても、この病気であると診断されないこともあり、当団体に入会するまでに『誰にもわかってもらえない苦しみ』を経験している会員は多数います。
総会をはじめとする私たちの集まりが外部から見て『明るく』見えているとすれば、それは個々の会員が日常生活においていかに傷ついているかの裏返しであり、こうしてある程度苦しみを共有できる仲間を得たことへの喜びが表出しているのだと思います」
原因不明の声の違和感
田中氏が同団体を立ち上げるまでの道程には紆余曲折があった。
初めて「声を出しにくい」と感じたのは、2005年のこと。通信系の企業に勤める社員として、充実した日々を送っていたときだった。
「ちょうどその頃、インフルエンザに感染してしまいました。症状は1、2週間程度続いたと思います。症状が治まったあたりから、声が出しにくいと感じる場面が増え始めました。
たとえば出社して挨拶をするときなどに、『おっ、おっ、おっ、おはようございます……』というような具合に、声が詰まってしまって出づらいんです。常に声が出ないとか何もしゃべれないというわけではなく、ふとしたときに喉の違和感が強くなるので、はじめは『どうしたのかな?』と思っていました」
年に数回だったその現象は頻度を増していった。不安に駆られた田中氏は、ある著名な耳鼻科医の診察を受けることにした。
「その病院での診断は『喉のポリープ』でした。直感的に違うのではないかと思いましたが、不思議なもので、診断されると気が楽になります。自分が悩んでいたことの理由を示してもらえたことで、靄(もや)が少し晴れたような感覚になったのかもしれません」
田中氏の直感通り、「ポリープ」は誤診だった。数週間後に別の医師から告げられた病名は「痙攣性発声障害」。病気の原因は不明で、対症療法しかないという厳しい現実も同時に知ることになった。
「最初はボイストレーニングに通っていましたが効果が感じられず、自然界で最も毒性が強いといわれるボツリヌス毒素を体内に入れるボトックス注射を行いました。これは一般的に3カ月くらい効果が持続するといわれていますが、私の場合は3週間程度しか効きき目がありませんでした。当時、健康保険適用ではなかったボトックス注射は1回3万円ほどかかり、経済的にも負担でした。
最終的に、私は甲状披裂筋切除術に辿り着きました。この手術は、全身麻酔下で甲状披裂筋(声帯)を切除するものです。『声を出しにくいな』と最初に感じてから、10年近くが経過していました」
SDCP代表の田中美穂氏。持っているのは、発声障害の症状や患者の悩みをわかりやすくまとめたリーフレット。
理解されにくい苦しみ
田中氏は発声障害という病気の〝わかりにくさ〟を次のように話す。
「この病気は死に至る病ではありません。
さまざまな大手メディアの現場記者さんが私の話を取り上げようと努力してくれましたが、残念ながらそのなかのいくつかは、『病気を抱えた人のストーリーとして、華がない』という理由でお蔵入りになりました。
死という深刻な結果をもたらさない病気だとしても、患者が深刻な悩みを抱えていないわけではありません。そのことが認識されるまでには、時間がかかったように思います」
発声障害を抱えた人の苦しみを理解できないのは、世間ばかりではない。むしろ身近な人間関係にこそ悩むケースがある。
「家族や知人がすぐに苦しみを理解してくれることは稀だと思います。
実際、当団体においても、メンバーが親御さんから『ちょっと声が変なだけで、注射や手術が必要なの?』と疑問視されるケースなどは何度も経験があります。私が代表として説得にあたり、理解していただけることが多いですが、医療費などあらゆる面を考えれば『死ぬわけでもないのに』と思う人がいても不思議はないと思います」
田中氏自身もまた、術前には声のことが火種となり、家族との軋轢を経験した。
「仕事で疲れて帰ってくると、まだ3、4歳だった娘が寝ずに起きていて『読んで』と絵本を持ってくるんです。読み聞かせをしてあげたいのですが、声が出ない。娘から『ねぇ読んでよ』とねだられて、いろいろなものに追い込まれていた当時の私は絵本を放って『ママは声が出ないの!』と声にならない声で泣きじゃくりました。隣で一緒に泣く娘を見たときに、『何とかしなければ』と我に返りました」
会員・患者同士でお互いの話に耳を傾け合う少人数のティーサロンも開催している
SNSから輪が広がった
今、田中氏のもとに集う、同じ苦しみを共有する仲間たち。その原型を作ったのが、SNSだ。発声障害について認知度の低かった当時、田中氏は自身の症状や手術前の心境、術後の経過などを克明に記していた。
「当時はmixiが全盛で、私は自分の状況を日記に書いて発信していました。すると、『自分も声のことで苦しんでいる』という人たちと繋がることができました。
『この病気になったのは宇宙に自分しかいないのではないか』と本気で思っていた私にとって、それは驚きでした。周囲に同じ病気で苦しむ人がいないから、みんな一人で戦っていたんですね。早速、コミュニティを作成し、情報交換が始まりました。
最初はネット上だけのやり取りでしたが、徐々に会って飲み会をやったり、手術を控えた人がいれば出向いて励ますこともしました。患者会は、傍から見ればただ集まって話しているだけに思えるでしょう。参加したから病気が完治するわけでも、快復が早くなるわけでもありません。けれども、誰にもわかってもらえない辛さを経験した人間同士だからこそ、打ち解け合い、お互いをリスペクトして『また病気と戦っていこう』と励まし合えるのだと思います。病気がなければ出会わなかった不思議な関係ですが、困っている戦友を放っておけない、そんな気持ちで活動をしてきました」
尽力した公明党議員たち
当初はmixiで繋がったメンバーを中心として任意団体を立ち上げたが、2014年に一般社団法人として設立した。
時系列が前後するが、2010年から始めた署名活動によって、発声障害の治療に必要なボトックス注射の健康保険適用にこぎつけた。
「健康保険適用が実現するまでには、本当にさまざまな方のご理解とご尽力がありました。きっかけとなったのは、娘の保護者仲間からの『最近、声の調子が悪いようだけど』という一言です。もしかしたら理解してもらえないかもしれないけれど、心配してくれている相手に噓の説明をするわけにもいかず、私は本当のことを打ち明けました。
すると、その方が公明党の宮本ひとしさん(現市川市議会議員)を紹介してくれました。初当選したばかりの1期目だった宮本さんは、私の話を熱心に聞いてくれて、本当に多くの段取りをしていただきました。公明党の他の議員さんとも連携していただき、国レベルの政策議題になると、署名活動も本格化しました。結局、署名は開始から数カ月で3万筆以上が集まり、私たちが目指した通り、日本全国で健康保険適用のボトックス注射が打てるようになりました」
田中氏の地道な活動が、周囲の理解と信頼を勝ち得た。順風満帆にみえるSDCPの活動だが、幾度となく挫けそうになる場面にも遭遇しているという。
「いわれのない誹謗中傷を受けることはありました。たとえば、『健康保険適用なんて絶対に無理』というメールは何件も来ましたし、ある医師に署名のお願いをしに行ったときは『患者の分際で国に物を申すな』とはっきり言われました。
また、同じ病気を抱える仲間のごく一部にはメディア露出を快く思わない人がいて、『つい最近患者になった人間がでしゃばるな』という内容のお叱りを受けたこともあります。あるいは、署名活動の過程で特定の政党との結びつきができることを嫌い、署名拒否されるケースもありました。本来は同じ苦しみを共有できる仲間なのに、悲しいことです」
ボトックス注射への保険適用等を求める要望書を当時の厚生労働大臣に提出する田中氏
患者の声に耳を傾ける社会へ
原因不明の病気にかかり、誰とも思いを共有できず、声を上げればやっと得たはずの仲間からも背を向けられる。そんな経験をしてきた田中氏が、いかなる局面でも諦めずに笑顔を絶やさない理由は何か。
「病気になってしまったことも含めて、すべてをプラスの方向に持っていきたいという思いが強いからでしょうか。私は病気になったことで、世の中には、死なないまま生かされることの辛さがあることを知りました。
ありがたいことに、さまざまなシンポジウムなどに呼ばれたりもしますが、反面、癌などの病気に比べて、扱いが軽いなと感じる場面は多々あります。病気の軽重はもちろん大切な観点ですが、それが患者本人の孤独感や疎外感に結びつくことは避けたいと思っています。
当団体では、大勢の会員同士が笑顔で集まる総会のほかにも、少人数のティーサロンを開催して個々の会員の話に耳を傾ける機会を作っています。会員はそれぞれ年齢も職業も異なるメンバーですし、ひとりひとりの声に耳を傾ける時間が必要だからです。
私がそうであったように、出口の見えないトンネルのなかでもがいてきた、あるいは今もさなかにいる会員がたくさんいます。発声障害を抱える人たちには、病気になっても新しい人間関係ができて、手を差し伸べてくれる社会があることを知ってほしい。だから、矢面に立つことで浴びせられる罵声に臆している時間はありません」
現代社会は一部の著名人の声があまねく届く一方、市井(しせい)の人々は絞り出す声さえ持たずに立ち尽くす。ぐっと堪らえ、飲み込む術(すべ)だけが上達し、いつしか「大人になった」と世間に懐柔されていく。本来の声を失ったことで田中氏が世間に発する〝声〟を得たことは皮肉にも思えるが、その〝声〟をキャッチする耳が社会にあることを確認できたのは、途方もない幸運に思える。