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【新連載小説】ひょこ、ひょこ、ひょこ助 雨蛙見聞録 第2回

宮本紀子さんによる新連載小説「ひょこ、ひょこ、ひょこ助 雨蛙見聞録」の第2回を『パンプキン』11月号で掲載。
第1回に続き、潮プラスでも特別公開いたします。
(『パンプキン』2023年11月号より転載。)

 

前回までのあらすじ
医者の屋敷に住みついた雨蛙。 ある日、庭の池で鳴いていると、突然降ってきた白い粉をかぶってしまい、人間の言葉を理解し、話せるようになってしまった。 体を洗っても水を飲んでも、元には戻らない。 そこで、薬を投げ入れた直弥を問い詰めると――。

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 父親は直弥(なおや)と兄をよく比べる。 兄は弟を不憫がり、そのときも、無理して蘭方医にならなくても、これから経験を積んで、父上のように医術を極めればよいではありませんかと庇(かば)ってくれた。

 しかし父親は憤懣(ふんまん)やるかたないようで、 極めるどころか、医者になる以前の問題だと直弥を叱責した。 気骨を見せろ。 このままでは医者になどなれぬと。

 父親は貧しい武家の三男に生まれた。厳しい師の許(もと)で苦労して医術を学び、医者になった男だ。それだから、いつまでたっても不甲斐ない息子に苛立つのだろう。

 兄の目が気にするなと言っていたが、 直弥はいたたまれず、父親に背を向け、その場から離れた。

 奥の自分の部屋へ戻り、独りうつうつとしていた直弥は、庭に目をやった。

 眩しい陽射しのなかで躑躅(つつじ)や芍薬が咲き誇り、楓が若葉を茂らせ、池に木漏れ日を落としていた。

 庭は父親の唯一の道楽だった。とくに池は遠くから職人を呼んでつくらせていた。 水が濁らぬよう、下働きの者にこまめに世話をさせている。

 その池で蛙がなんとも楽しげにケロケロ鳴いていた。その声を聞いているうち、無性に腹が立ってきた。いや、悲しみか。 覚えるために部屋に置いていたさまざまな生薬を、薬研(やげん)でひいたものから干していたものまで盆に掻きあつめ、直弥は庭におりた。

「医者になれなくったってかまうもんか。そう心のなかで父上に叫んで、わたしは薬を池に投げ入れたんだよ」

 話し終えた直弥は、暗い天井から枕元のひょこ助に顔を向けた。

「おいら気楽に鳴いていたわけじゃねえぞ」

 かわい娘ちゃんを呼び寄せるのに必死さ。

「そうだね、 やつあたりだね。ごめんよ、ひょこ助」

 そう言って直弥は寝返りをうって、夜着を頭からかぶった。


 これがひょこ助の身におきた出来事と、 ひょこ助という名がついたあらましであった。

 物思いから覚めて、 ひょこ助は、はあぁ……、と重いため息を吐いた。

 おいらどうなっちまうんだろ。

 ぐるるるるっ、と腹が盛大に鳴った。 昨日は食欲なぞまったくなかったのに、ひと晩経つと腹の虫は元気になったようだ。

 廊下に足音がした。

「ひょこ助、お待たせえ」

 直弥がやってくる。

 ひょこ助は自棄(やけ)になって叫んでやった。

「遅いぞ直弥、おいら腹ぺこだあ」


 文机の上でひょこ助は前足を人間の手のように使って、うまいうまいと食べた。 握り飯も、とくに玉子焼きというものが最高にうまかった。

 そんなひょこ助を直弥は頬杖ついて眺めていたが、ひとつため息を吐くと腰を上げた。

「どっか行くのか」

「診療部屋だよ」

 袴をはき、筒袖を羽織る直弥は、なんとも嫌そうだ。

「じゃあ行ってくる」

「おう、気張ってこい」

 飯を終えると腹の虫もおとなしくなった。ひょこ助も腹がいっぱいになると単純なもので、気持ちが上向いてきた。拳ほど開いた障子戸から、朝の陽が畳に射し込むのを、いつまでも眺めていたってしょうがない。

 そうさ、くよくよしたってはじまらない。今日がだめでも明日にはきっと元に戻るさ。さて、おいらはなにをするかな。 久しぶりに屋敷でも見てまわるか。

「よっと」

 ひょこ助は、ぴょんと机からおりると廊下へ出た。

「まずはお勝手からだ」

 台所にいき、立ち働く女中や、やってくる棒手振りを眺めた。

「ありゃあ、魚の棒手振りだな。おっ、青物の棒手振りは息子に代替わりしたのか」

「お次はと」

 たくさんの部屋を覗いてまわった。

 しかし、明日にはきっと――という、ひょこ助の期待は無惨にも裏切られ、体は元に戻らぬまま、日はさらに一日、二日と過ぎていった。

 そしてまた新しい日がやってきた。

 女中や棒手振りを見るのも、客間の、鯉が滝をのぼる掛け軸を眺めるのにも飽きた。ついでに、朝起きて直弥に「戻らねえじゃねえか」と怒鳴り、悲しそうな顔を見るのにも。

 直弥だって毎夜遅くまで難しい本と睨めっこして、ひょこ助を治す手立てはないか調べている。責めたって、嘆いたってどうしようもない。

 けどよう、日がな一日、ぼうっとしていてもよう。ひょこ助は今朝も最高にうまい玉子焼きを食べながら、こっちは今日も嫌そうに筒袖に腕を通している直弥を見上げた。

 そうだ。こうなりゃあ――。

「なあ、直弥。おいらもその診療部屋ってとこへ、一緒に連れてってくれよ」

 前を重ね合わせ、腰の紐を結んでいた直弥が、驚いてこっちを見下ろした。

「体も元に戻んねえし、こうなりゃ、直弥たちの世界をとくと見てやろうと思ってな」

「ひょこ助……」

 直弥は申し訳なさそうに「ごめんよ」と詫びる。

「もう謝んなって。じゃあ、いいんだな」

 直弥はうなずいたが、「でも見つからないかなあ」とちょっと不安そうだ。

「そんなへまはしねえから安心しろって」

「わかったよ」

「よし。じゃあ、さっさと着ろ」

 ひょこ助は玉子焼きの最後の一切れを頬張り、ぴょんと跳ねて直弥の懐に飛び込んだ。

 重ねた襟元から顔だけ出す。

「さあ、いざ行かん!」


 ひょこ助は直弥の懐から周りの様子をうかがう。 直弥ら、見習いの者が掃除を終えるやいなや、患者があつまりだしてきた。 玄関の板敷きで直弥が迎え入れ、来た者の名を帳面に記していく。 患者はすぐ脇の、仕切りのない板敷きつづきの待合に座を占めていく。

 次にやってきたのは、しわくちゃの婆さんだ。

「お梅さん、おはようございます」

 直弥が愛想よく挨拶する。 名を知っているということは、常連か、近所の者か。

「おはようさん。 今日は薬をもらいにきたよ」

「頭痛のお薬でしたね。よく効いていますか」

「ああ、おかげさんでね」

 それよりあんたの方はどうだい、と婆さんが尋ねた。

「ほれ、この前、目を回して頭にたんこぶをつくっていたろ」

「ああ、はい。おかげさまで」

 直弥は真っ赤になって、こぶも引っ込みましたと礼を言った。
 やりとりを聞いていた者たちから、 くすくす笑いがおこる。

「おい、なんで目を回したんだ」

 婆さんが待合に知り合いを見つけ、 そっちへ行ってしまうと、ひょこ助は訊いた。だが直弥は「うん、まあ」と言葉を濁すだけで答えなかった。

 いくらもしないうちに待合は結構な混みようになった。 患者同士のおしゃべりや、咳やくしゃみ、子どもの泣き声で大賑わいだ。

 廊下の奥からふたりの男が出てきた。どちらも直弥と同じ医者の格好だ。

「大先生、若先生、おはようございます」

 見習いたちが頭を下げる。 ひょこ助も奥にいるとき、ちらりと目にしていたから知っている。 年配の大先生と呼ばれたのが直弥の父親だ。顎鬚(あごひげ)を生やし、眉間に深い皺を刻んだ、いかにも怖そうな面がまえだ。 若先生と呼ばれた、浅く陽に焼けた大柄な若者が兄だ。

 若先生は「おはよう」と皆に挨拶を返し、待合を見て、「やあ、今日も忙しくなりそうだ」と苦笑する。父親は黙って患者たちに目をやるだけだ。

 ふたりは、待合と廊下を挟んだ向かいの部屋へ入っていった。

「あそこが診療部屋だよ」

 直弥が襟元のひょこ助にひそっと教える。

「では診療をはじめます」

 見習いのひとりが患者の名を呼んでいった。泣く子をあやしていたおかみさんが診療部屋へ入っていく。もうひとり男が立ち上がった。こちらは腰が曲がった爺さんだ。足許がおぼつかない。 直弥が支えて案内した。

 ここが診療部屋かあ。 ひょこ助は突き出た目玉をきょろきょろ動かした。 ひろい板の間だった。ふたりの医者は互いの場所に陣取っている。それぞれが患者を診るようだ。

 若先生の方では子どもの診療がもうはじまっていた。薄い敷物の上に寝かせ、腹を触り、「それで熱はいつからだ。食べられなくなったのは。吐いたのは。下痢をしたのは」と母親に矢継ぎ早に問うている。母親はいつだいつだと急き立てられ、しどろもどろになりながらも必死に答えていた。

 爺さんがお願いしますと大先生の前へ腰をおろした。膝が悪いのか、座るのも大儀そうだ。どうしたと訊く医者に、爺さんはやはり膝がと言った。

「痛みまして」

 大先生は爺さんも敷物に寝かせた。膝を触り、曲げたり伸ばしたりする。そのたびに爺さんは顔を顰(しか)め、とくに歩いているときが強く痛むと訴えた。

 直弥の手をかりて起き上がった爺さんに、医者は言った。

「年だから仕方がない」

「はあ、それはようわかっとりますが、 鍼灸に通っても痛みが消えんもんで」
 これでは気楽に外出もできんと嘆く爺さんの口を、医者はまたしても 「湿布を出しておく」の一言で封じてしまった。くるりと患者に背を向け、なにやら書いている。

「あのう」とまだなにか言いたそうな老人に、もう振り返らなかった。

 爺さんは少し白く濁った目で医者の背をじっと見ていたが、ひとつ瞬きをして、視線を己の痛い膝へ落とした。

「先生はまだお若いからのう」

 頭を下げ、よろりと立ち上がる。 手を添えようとした直弥に、ひとりで平気だと告げ、悲しげに待合へ戻っていった。

「お前の親父はなんだよ。おいらだって年寄りの蛙には、もちっと優しくしたぞ」

 ひょこ助は直弥に言って、むっとした。

 暗い顔で老人を見送っていた直弥も、「もっと話を聞いてあげればいいのに」と呟く。

「だったら親父にそう言ってやれよ」

「わたしがかい」

「ほかに誰がいるんだよ」

 患者の代弁ができるのは、そばで見ていた見習いぐらいだ。

「う、うん。 そうだね」

 直弥は父親へ振り返った。

「大先生、お話が」

 そうだそうだ、言ってやれ。

 しかしこっちを向いた父親に、「薬だ」と書付を渡され、「話とはなんだ」と睨まれたとたん、 直弥は身をすくめ、

「いえ、なんでもありません」
 と、うつむいてしまった。

 父親は舌打ちし、「次っ」と声を張る。

「はい……」

 直弥は次の患者を呼ぶため、廊下へ出た。

「なんだよもう。 そういうのを、蛇に睨まれた蛙っていうんだぞ」

 あまりの情けなさに、 ひょこ助は両手を上げ、懐の内をずりずりと滑り落ちていった。

 そこへ「先生頼むよ!」と悲痛な声が響いた。

 なにごとだ! ひょこ助は急いで懐をよじ登り、ふたたび襟元から顔を出した。

 印半纏(しるしばんてん)着の男がひとり、血に染まった手拭いで腕を押さえ、玄関の三和土(たたき)に立っていた。

「ちょいとドジ踏んじまって」

 近所で家の普請をしている大工だと名乗り、手に鑿(のみ)を持ったまま転んで、その拍子に腕を突いてしまったと事情を話した。

「診てもらいてえんだが」

 大工は上がってきて、近くにいた直弥に手拭いをとって傷を見せた。 傷口から新たな血がたらたら流れ出る。

 直弥は「ひっ」と叫んで後退った。

「おい、診てくれるのか、どうなんでい」

 大工は痛みに顔を歪め、 いらつく。

「す、すみません」

 さっきの親子がちょうど診療を終え、部屋から出てきた。それを見て、ほかの見習いが待合の患者たちに、急患なので順番が変わりますと断りを告げる。

「こ、こちらへどうぞ」

 直弥は震える声で、 大工を若先生の許へ案内した。

 

 

(つづく)

 

ひょこ、ひょこ、ひょこ助第1回はコチラから

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作家
宮本 紀子(みやもと・のりこ)
京都府生まれ。兵庫県在住。2012年『雨宿り』で第6回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。『始末屋』『狐の飴売り 栄之助と大道芸人長屋の人々』『小間もの丸藤看板姉妹』シリーズ、『おんなの花見 煮売屋お雅 味ばなし』など著書多数。