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潮文庫『疵痕とラベンダー』 ためし読み

ただ「好き」なだけなのに――

作家デビュー10周年を迎えた太田紫織が描く、恋愛強めの青春ミステリ!


子供の頃の『事故』が原因で、大好きだった双子の幼なじみと疎遠になっていた主人公『昴』
父の転勤で札幌に戻ってきたものの、双子の片割れ『茜音』は、既に亡くなっていて……
不思議な少女『宵深』と、『好き』を巡る札幌舞台の青春ミステリです!
(著者 「X(旧Twitter)」より)

(潮文庫『疵痕とラベンダー』より抜粋)

 

 

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第1話 宵深



 生まれて初めて学校をさぼった。
 逃亡先は駅前のしゃぶしゃぶの食べ放題。一番安い豚バラプラン。
 入店を断られるかもしれないとドキドキした平日ランチは、午後四時まで居放題。
 ストレス解消に暴飲暴食をすると、認知能力が低下する……なんてニュースをスマホでチラ見しながらの暴食だ。
 だってそれなら、いっそ何もかもわからなくなってしまえばいいんだ。
 やり場のない感情を持て余しながら、俺は肉の皿を一枚一枚重ねた。
 何度あくを掬(すく)っても、俺の心は透明にはならない。

 円満だと思っていた両親の離婚を聞かされたのは夕べのことだ。
 役所帰りの二人は既に離婚が済んでいて、俺には事前になんの相談もなかった。
 見ていた動画サイトから聞こえた無神経な笑い声が、今もまだ耳に残っている。
 いいや、もしかしたら笑っていたのは俺だったのかもしれない。
 自分でも何を言ったかは、よく覚えていなかった。そのくらい動揺していたから。
 円満離婚だそうだ。だけど離婚しないという選択肢も0(ゼロ)らしい。
 そして俺と父さんは、父さんの故郷である札幌に引っ越しをするそうだ。
 ずっと希望を出していた札幌への栄転が決まったって。とはいえ父さんが実際札幌で働くのは来春で、俺は進路のことを考慮して、それまでのあいだ札幌に住む叔母の家で暮らさせて貰う。
 札幌が嫌いでも、叔母のことが嫌なわけでもない。むしろどちらも好きだ。子供の頃連休の度に遊びに行った、祖父母の家もみんな好きだ。
 だけどそれを言うなら、俺は母さんのことも、妹のことも、この家のことも大好きだ。
 でも母さんには、今は別に『好き』な人がいるらしい。
 妻を病気で喪った二十八歳の夫と子、そして新生児をかかえて夫を失った十八歳の妻。
 二つの家族は、足りない部分を補うように一つの家族になったけれど、父さんと母さんは結局最後まで『夫婦』ではなかったのだろう。
 俺ももう自分のことは一通りできる。だから父さんは、まだ若い母さんが、もう一度幸せを選べるようにした。彼女を大切に想うから。
 好きだから。好きでも。好きだからって――ああ、好きという気持ちだけでは、どうにもできないことがある。
 生まれ育った町や親友、幼い頃から可愛がって世話をしてきた年の離れた妹、亡くなった実母に代わり、血の繋がらない自分を大事に育ててくれた母――すべてから離れて、遠い場所で生活することになる寂しさ、悲しさは、この『好き』という気持ちだけでなかったことにはできなかった。
 だからといって、従わないという選択肢があるわけじゃない。
 俺はまだ親の庇護なしには生きられない。
 やけ食いのしゃぶしゃぶ。焼きたてのワッフルとソフトクリーム。
 炭酸と一緒に言いたい言葉を無理矢理全部飲み込んで、結局家に帰った。
 妹や友人と過ごす時間は、もう残り少ないって気が付いたからだ。
 あと三日で夏休みに入る。
 休みの間に引っ越しやら何やらを済ませて、俺は新学期を札幌で迎えなきゃならない。

 そうして嬉しくも楽しくもないのに、時間は気が付けばあっという間に過ぎた。
 やがてからっぽになった部屋を見て、俺の気持ちに諦めも付いた。ただ考えないようにしているだけかもしれないけれど。
 それでも札幌まで付き添ってくれるという父さんに、一人で大丈夫だと強がれる程度には冷静だった。
 それ以上に二人きりで札幌まで行くなんて、気まずくて嫌だっただけかもしれないが。
 セントレア空港から新千歳空港、そして札幌の懐かしい家まで約四時間。
 空港を出るたび、いつも爽やかな北海道の空に圧倒される。
 胚細胞に染みこむ、空気の純度が違う気がする。
 そして札幌市は、『北海道』という単語から想像される牧歌的なイメージに反して栄えた街だ。
 大阪みたいに背の高いビルはないけれど、『都会』の範囲はシンプルに広い。
 これから俺が春まで住む新琴似(しんことに)は、そんな札幌市でも比較的新しい街だ。祖父母が家を建てた頃は、まだ道の先もできてなかったって聞いた。
 その分新しい街並みは綺麗に整備されているし、交通の便も良く、同時に自然も多く残されている。
 これから住むのが嬉しくないと言えば噓になる、大好きな街だ。

「すーばる!」
  
JR新琴似駅で降りた俺に気が付いて、俺とほとんど変わらない身長、すらっと長い手足の女性がこっちに向かって手を振った。
 久しぶりに会う叔母は相変わらず年齢不詳で、本人の希望だけでなく『叔母さん』と呼ぶより『芽生花(めいか)ちゃん』と呼ぶのがしっくりくる。
 死んだ母さんの祖父母の家は今、芽生花ちゃんが住んでいる。
 会うのは一年以上ぶりだけど、春まで俺の保護者になってくれる人だ。
 そして淡い記憶の中の、亡き母に面影の似ている人――。
「身長、随分伸びたわね」
 そう笑った芽生花ちゃんは、多分身長170cmくらいだ。
「ちょっとだけ追い越した」
「ほんとだ。今175くらい? 6あるかな?」
「春は174cmだったけど、もう少し伸びてるかも」
「ほんのちょっと前はこんな小さかったのに、あっという間だわ」
「何年前の話だよ」
 なんだかくすぐったいような話をしながら、彼女が膝丈辺りを示したので、俺は苦笑いした。
「でもそんな体感なのよ。甥っ子姪っ子や、友人の子供に会う度に、時間の流れを感じるわ」
「そういうもん?」
 まぁ俺も、時間の流れはあっという間なんだなって、思わないと言えば噓になるけれど。
 芽生花ちゃんのミントグリーンの車に乗り込んで、しばらく流れる車窓の景色を眺めた。
 小さい頃は休みの度に遊びに来た祖父母の家。
 懐かしい街並みは嬉しさよりも、微かに苦く感じた。
「この辺来るのも久しぶり? 結構変わったでしょ」
「うん、まあ……じいちゃんとばあちゃんの葬式の時にちょろっと見たけど、あの時はバタバタしてたから」
 それに確かに変わっているとは思うけれど、子供の頃はあまり駅前の方には来ていなかったので、ここがどう……とか具体的に何が変わったかまではわからなかった。
 だけど確かになんというか……輪郭のようなものが、漠然と変わってしまったような気がする。
 それに、変わっていて欲しいものもある。
「……隣は?」
「隣?」
 芽生花ちゃんは一瞬不思議そうに瞬きをしたものの「ああ、うちの?」とすぐに理解した。
「うん」
「矢作(やはぎ)さんね。お隣は……今は静かよ。矢作さんの家もお母さんが出て行ってしまって、今はお父さんと宵深(よみ)ちゃんだけで暮らしてるはず。ご近所付き合いはほとんどされてないから、私もよくはわからないけれど」
「…………」
 話をしているうちに、懐かしい祖父母の家と、そして隣家――お祖母ちゃんの家よりも大きくて、無機質に四角い白い家が視界に飛び込んできた。
「昴(すばる)、お隣さんと、昔はよく遊んでたんだっけ」
「まぁ、昔はね」
 俺は曖昧に答えた。
「気になるなら声をかけてみたらいいし、そうじゃないなら無理にお付き合いすることはないんじゃない? お父さんがこっちに戻ってくるまでのことでしょ」
「ん」
 確かに無理に声を掛ける必要なんてない。
 彼女達――いや、彼女にはもう何年も会ってないし、俺がここで暮らすのも半年ちょっとだ。
 そうだ、あとほんの少し――。
「昴?」
「ラベンダー……」
 思いかけて、車から降りた俺の足が家の前で止まった。
 どこからともなく――いや、他でもなく隣家から漂う爽やかな花の香り。
 ラベンダーの香りが鼻腔を満たした瞬間、思い出や懐かしい痛み、顔を背けていた様々な感情が、途端に俺の中で破裂しそうになった。
「ああ、お隣のお庭、確かにラベンダーを植えていたはずだわ。時々すごく良い香りがするのよね……」
  
――ふらのにいった時ママが買ってきたの。お庭にいっぱい植えるんだって! きっとちょうちょがいっぱい来るようになるよね。なのによみはふとっちょのハチがいっぱい来るっていうんだよ!

「俺の部屋は……いつも使ってた、母さんの部屋?」 
「その予定だけど、嫌だった?」
「いや、そういうわけじゃ……」
 だったら今も窓を開けたなら、俺の部屋もこのラベンダーの香りがするのだろうか。
  
――わたしたちとすばるのおへやの間にも植えてくれたの。お話ししてるといい匂いがするようにって!

 香りは記憶に直結しているという。鮮やかな香りを嗅いだ途端、俺の脳裏に懐かしい弾むような声が蘇った。
 いつだって笑ってるように弾む、楽しそうな少女の声――ああ、頭がくらくらする。
 俺はずっとばあちゃん家に来るのが大好きだった。
 近くに大きなグリーン公園や牧場が、美味しいソフトクリーム屋があるだけでなく、隣の家に大好きな『友達』が住んでいたからだ。
 でも、それも過去形だ。
 二人のことを思い出したくはない。矢作家の双子のこと。
 今はもう一人しか居ないという、彼女達のことは。
 なのにラベンダーの香りが、俺にまとわりついて離れない――俺の後悔と罪悪感に。
「……まずはお家、入ろ。疲れてるでしょ?」
 気が付けば口元を押さえて立ち尽くしていた俺に、芽生花ちゃんが声を掛けてきた。
「うん……」
 でもそうだ。後悔は結局意味がない。悔いても過去は変えられないんだ。
 叶うなら住むのは別のところが良かったけれど、思い通りにならないことはこれだけじゃなくて、俺はどこかしら『今』を諦めている節があった。
 見ないふり、考えないようにしてやり過ごすしかない。
 悩むのはもう疲れた。
 結局なんだって、なるようになるしかないからと腹をくくり、俺はラベンダーの匂いから逃げるように家に入った。

 

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作家
太田紫織(おおた・しおり)
1978年、北海道札幌市生まれ。2012年、「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」でE★エブリスタ電子書籍大賞ミステリー部門(角川書店)優秀賞を受賞し、デビュー。同作はシリーズ累計180万部を突破。さらに2015年にはアニメ化、2017年にはドラマ化された。著書に『涙雨の季節に蒐集家は、』シリーズ、『魔女のいる珈琲店と4分33秒のタイムトラベル』シリーズ、『後宮の毒華』シリーズなど多数。