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【新連載】ひょこ、ひょこ、ひょこ助 雨蛙見聞録 第3回

宮本紀子さんによる新連載小説「ひょこ、ひょこ、ひょこ助 雨蛙見聞録」の第3回が『パンプキン』12月号で掲載。
潮プラスでも特別公開いたします。
なお、特別公開は今回までとなります。次回以降は誌面でお楽しみください。
(『パンプキン』2023年12月号より転載)

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前回までのあらすじ

直弥(なおや)は、ひょこ助に薬を池に投げ入れた顚末を伝え、治す手立てを毎晩調べ続けたが、一向に戻る気配はない。嘆いていても仕方がないと、ひょこ助は、直弥に診療部屋に連れて行ってもらうことにした。そこに急患がやってきて……。

******

「傷は深いし、縫わねばならんが、筋は痛めてないから安心しなさい」
 若先生は傷口を診て大工に説明すると、さっそく準備にかかった。

「直弥は肩を押さえていてくれ」

「……はい」

 もうひとり見習いが呼ばれ、寝かされた患者の腕を押さえた。裂けた傷口に焼酎が噴きつけられ、口に手拭いをくわえさせられた大工がうっと呻(うめ)く。若先生が辛抱しろよと患者を励まし、釣り針みたいな針で傷口を縫いはじめた。

 ひぇー、人間てえのは、着物のように体をちくちく縫うのかよう。ひょこ助は恐ろしさに手で顔を覆ったが、やっぱり気になって吸盤の指の間から縫われていく男を見守った。

 大工は汗をだらだら。歯を剥いて手拭いをぐっと噛む。ひょこ助も大工と一緒に歯のない口をぐっと噛みしめた。男はひと針ごとに呻き、体は痛みに跳ねる。

「もっとしっかり押さえていろ」

 若先生の檄に、腕を任されている見習いは、「はいっ」と押さえる手に力を込める。が、肩を押さえる直弥の手には、一向に力が入らない。どうした。ひょこ助が振り仰いだら、直弥は真っ青で、半分白目になって気を失いかけていた。

「どけっ」

 傍らで治療の様子を見届けていた父親が怒鳴り、直弥を押し退けた。

「邪魔だ。誰かこいつを外へ連れて行け」

 やってきた者に支えられ、直弥はふらふらの態(てい)で待合の板敷きに座った。

「またかい」

 お梅婆さんが呆れ、扇子で血の気が引いた直弥に風を送る。直弥は「すみません」と言うのがやっとだ。

「いいよ。だけど医者になろうって者(もん)が、こうしょっちゅう目を回していてもねえ」

 しばらくして、診療部屋から「よくがんばったな」と若先生が言っているのが聞こえてきた。治療は終わったようだ。「若先生は大したもんだねえ」と周りの患者たちが囁き合い、哀れな視線を直弥にくれる。

「おや、大先生(おおせんせい)だ」

 お梅婆さんの声に、直弥が青白い面(かお)を廊下へ向けた。

 父親が診療部屋の入口に立って、じっと直弥を見つめていた。

「父上……」

「次の患者は誰だっ」

 父親の大声に、直弥は急いで待合の小机に置かれた帳面に目を走らせた。

「お梅さんですよ」

「おや、あたしかい」

 お梅婆さんは「はいはい、あたしでございますよう」と扇子をひらひらさせ、待合を出ていく。薬をもらいに来たんですよと大先生と診療部屋のなかへ消えていった。

「ひょこ助、散歩に行こうか」

 直弥は見習いの誰にともなく、少し外の空気を吸ってくると言い置いて、玄関を出た。


 直弥はもくもくと歩いている。橋を渡り、細い道から大きな通りに出てもまだ歩いた。

 直弥の襟元から顔を出すひょこ助は、通りを行き交う大勢の人や、道の両側にあるさまざまな店を目で追うのに忙しい。

 花売りや、青菜の棒手振(ぼてふ)りが通り過ぎてゆく。ずらりと建ち並ぶ御蔵(おくら)を過ぎ、大きな鳥居も過ぎたところで、直弥は道を右に折れ、しばらくすると足をとめた。

「……なんだ、この大きな池は」

 ひょこ助の目の前には、水が一面にひろがっていた。右も左も水だらけだ。

「これは池じゃないよ。川さ」

 川ぐらい知ってるけどよう……。

 大きく目をひん剥いて、度肝を抜かれているひょこ助に、直弥は大川(おおかわ)だよと言った。

「これが大川か」

 もっとよく見たくて、ひょこ助は直弥の懐から這い出した。直弥はぎょっとしたが、辺りに人がいないのを確かめると、ひょこ助を肩にのせた。

 ひょこ助は直弥の後れ毛(おくれげ)を摑み、後ろ足で立って大川を眺めた。風が気持ちいい。

 大川はどこまでも広やかで、向こう岸が霞んで見えるほどだった。川面は陽に煌き、まるで光の帯のようだ。ゆったりと、とうとうと流れている。

「ここは御厩河岸(おうまやがし)の渡しといってね。あっちの岸と舟で繋いでいるんだ」

 ほらあれだよと直弥が指さす先に、人を乗せた舟が、いままさに漕ぎ出そうとしているところであった。

 大川も舟も話には聞いていた。だがひょこ助は、どっちも見るのは初めてだった。

「聞くのと、見るのとではやっぱ違うな」

 大川がこんなにでっかいだなんて。その川を舟があんなに人を乗せて渡っていくだなんて。そして、外がこんなにも広大だなんて。

「おいら、ちっとも知らなかった。これに比べりゃ、庭はひと握りの土で、池は水溜りだ。つくった直弥の親父には悪いがな」

 ひょこ助はけらけら笑った。直弥も一緒になって笑っていたが、ふと真顔になると、ひょこ助に訊いてきた。

「ねえ、ひょこ助はあの庭から出て行きたいと思ったことはないのかい」

「そう言われてもな。おいらはあの庭しか知らねえし」

 それに、いくらひと握りの土でも、水溜りの池でも、やっぱり愛着はある。

「そっか」

「直弥は出て行きたいと思ったことがあるのか」

 訊くからにはあるんだろうな。

「ひょこ助は怒っていたけど、やっぱり父上は腕のいい医者なんだ。診断はいつも正しくて、処方する薬だってよく効く。だから患者は詰めかけるし、また診てもらいにもくるのさ。兄さんは兄さんで、あのとおり優秀だ」

 けどわたしは――と直弥は目を伏せる。

「さっきのていたらくを見ただろ」

 まあな。

「これが初めてじゃないんだ」

 前にも腹の痛みにのた打ち回る患者に卒倒してしまい、柱に頭をぶつけて、たんこぶを拵(こしら)えてしまったことがあるという。お梅婆さんが言っていたのはこのことか。

「数え上げたら切りがないよ。父上が怒るのも道理さ。所詮むいてないんだ。医者になんてなれないさ」

 あの家から出て――と直弥はつづける。

「ここから舟に乗ってあっちの岸に渡ったら、ほかの道が見つかるんじゃないだろうか。そう、ときどき思うんだ」

 思うんだけど、わたしは――。直弥はそこで口を噤(つぐ)んだ。

「そんな難しい話、おいらにはわかんねえよ」

「そうだね」

 まだ少し青い顔で薄く笑う直弥は、迷子になった幼子のように、ひょこ助には見えた。直弥は川を遡るように、また歩き出す。

 ふたたび大きな通りに出た。

「あれはなんだ」

 ひょこ助は吸盤の指をさした。通りを渡った向かいの店先に、竿竹に吊るされた赤い布がはためいていた。

「ああ、あれは紅屋(べにや)の幟看板(のぼりかんばん)だよ」

「紅屋……紅ってなんだ」

「女のひとの化粧(けわい)の品だよ。猪口(ちょく)が器になっていてね」

 年寄りの蛙に教えてもらわなかったかい、と直弥は言った。

「いんや」とひょこ助は首を振った。

「おやそうかい。けどこの何日か屋敷のなかを見てまわっていたんだろ。うちには母上も住み込みの女中もいるから、鏡台の小引出しに入っているのを見なかったかい」

「おいら、他人様の引出しを勝手に開けるような、そんな無作法なやつじゃねえわな」

 ひょこ助は怒った。直弥は首をすくめ、ごめんごめんと謝った。

「許しておくれよ」

 きっと年寄りの蛙は、女子(おなご)の化粧に興味がなかったんだろうねと直弥は言いつくろい、ひょこ助の機嫌をとるように、

「紅ってね、ひょこ助のように、きれいな緑色なんだよ。玉虫色っていうんだ」
と話した。ひょこ助は許してなんてやるもんかと思ったが、おいらのようなきれいな緑色? 玉虫色? なにそれ見たい! とすっかり惹かれてしまった。

「おい、あの店に行ってみようぜ」

「いやぁ、男が紅屋にはちょっと」

 直弥は尻込みした。

「なにがちょっとだよ。直弥、おいらは知ってしまったんだぞ」

「なにをだよう」と訝(いぶか)る直弥に、ひょこ助は両の手を天にひろげて叫んだ。

「決まってるだろ、見ることのすばらしさをだよ」

 川だって舟だって、ひょこ助が思い描いていたより、ずっとずうっと、すごかった。

「見たい見たい、おいら見たい!」

 ひょこ助は直弥の肩を跳ね回り、耳たぶに飛びついて、ぎゅうぎゅう引っ張った。

「わかったよ。連れて行くからやめておくれよ。痛いよ、くすぐったいよ」


 暖簾(のれん)を割ってそっと覗くと、町娘の二人連れが店座敷の縁に腰をかけ、並べられた品々を前に、熱心に見入っていた。

「早くなかに入ろうぜ」

 ひょこ助は渋る直弥の耳たぶをまた引っ張った。

「わかったよ」

 直弥はひょこ助が懐に潜り込んだのを見て、おずおずと暖簾をくぐった。「おいでなさいましぃー」と声がかかる。「ど、どうも。こんにちは」と直弥はぺこりと辞儀をして、店土間に足を踏み入れた。ひょこ助は襟元から顔を出す。

 娘たちから離れた座敷の隅に長机が置かれていて、奉公人が手を動かしていた。

「なにやってんだろ」

「紅猪口を拵えているんだよ」

 直弥は奉公人へ近づいていった。

 奉公人は、ぽったりした赤い筆先を猪口にのせたと思ったら、さっと刷いた。白い猪口が真紅に染まる。竹べらでムラをとり、そっと机に置いた。

 直弥が「見ててごらん」とひょこ助に囁く。

 言われたようにじっと眺めていたら、猪口の紅が乾くとともに、真紅から徐々に緑とも青ともつかぬ色へ変化(へんげ)していった。

「これが玉虫色だよ」

 へえ! なんとも不思議で、きれいな色だ。

「熟練の技ですねえ」

 感心する直弥に、奉公人は誇らしげに「早くてもいけませんし、塩梅(あんばい)が難しゅうございます」と説明した。それに直弥が「そうでしょう、そうでしょう」と応えるものだから、奉公人はいよいよ気をよくし「そもそも紅とは――」と講釈をしはじめた。

 直弥は熱心に聞き入っているが、ひょこ助はすぐに飽きてしまった。店内へ目玉をきょろりと動かす。さっきの娘たちがまだ店座敷にいた。

 ひょこ助はそうっと懐から抜け出した。直弥は話に夢中で気づかない。よっ。座敷に飛び移り、そろりそろりと娘たちに近づいていった。

 二人のひそひそ話すやりとりが、ひょこ助の耳に届いてきた。どうやらここの紅の評判を聞きつけ、暖簾をくぐったのはいいが、値の高さに二の足を踏んでいるようだ。

 娘たちの前には、いろんな紅猪口が並んでいた。小さいものから中ぐらい、大きなもの。その器も大きさによって、一色で絵付けされたものや、何色も使って細かく絵や模様が描かれたものと、さまざまある。

 娘たちの相手をしている店の者が、もみ手をしてやたらとすすめている。

「ええ、ええ。お安くはございません。この手代(てだい)もそれは重々承知しております。しかし先ほども申しましたが、品には自信がございます。この玉虫色をごらんくださいませ。つけていただければ、こう言ってはなんでございますが、いまお使いの紅との違いは一目瞭然かと。はい」

 どう違うんだ?

 ひょこ助の疑問が聞こえたように、「よかったら、さしてごらんになられますか」と手代とやらは言った。「いいの」と娘たちの声がそろう。

「ほかのお友だちには内緒にしてくださいましね」

 暗にお前たちだけにだよという口付きは、娘たちの心をくすぐる。現に娘たちは目を輝かせ、首がもげるほどうなずいている。この手代、なかなかのやり手とみた。

 手代は場を離れ、盆を手にまたすぐ戻ってきた。恭(うやうや)しく置いた盆には、娘の目の前にあるなかの、中ぐらいの紅猪口と同じものがひとつと、筆が二本のっていた。だが猪口の紅は半分ほどしかない。なんだ、誰にでも試させているんじゃねえか。

 しかし娘たちの気持ちはもう紅へ向いている。小僧が水の入った器を運んできて、手代は「ささ、どうぞ」と娘たちに筆を持たせた。

「いちだんとおきれいになられること、請け合いでございます」

 筆先にほんの少し水を含ませ、娘たちは代わるがわる筆を紅へのせる。その瞬間、玉虫色がさっと真紅に変わった。

(つづく)

 

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作家
宮本紀子(みやもと・のりこ)
京都府生まれ。兵庫県在住。2012年『雨宿り』で第6回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。『始末屋』『狐の飴売り 栄之助と大道芸人長屋の人々』『小間もの丸藤看板姉妹』シリーズ、『おんなの花見 煮売屋お雅 味ばなし』など著書多数。