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師と実際に会うことは必ずしも重要ではない【書籍セレクション】

世界宗教においては、『師と実際に会う』ことは必ずしも重要ではない」と作家の佐藤優さんは語ります。

佐藤さんは、池田先生について尋ねられるとき、「池田会長とお会いしたことはありません。しかし、私はキリスト教徒なので、『会ってこの目で確かめたから信じられる』などという発想は絶対にしません。 『会わなくても信じられる』ということが重要なのです」と答えるといいます。


どういうことなのでしょうか。
世界宗教として発展しゆく創価学会をキリスト教との対比から読み解きます。

書籍『世界宗教の条件とは何か』(著・佐藤優)より抜粋。本書は、2017年9月~12月にかけて創価大学にて行われた課外連続講座をまとめたものです。

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「実際に会う」ことは必ずしも重要ではない

科学的(=歴史学的・文献学的) 事実と宗教的真実は似て非なるものである、という話をしましたが、そのことに関連して、「世界宗教においては、『師と実際に会う』ことは必ずしも重要ではない」という話をしたいと思います。

学生のみなさんは世代的にも機会としても、 池田会長と直接お会いして薫陶を受けることはほとんどなかったのではないでしょうか? 当然、「直接お会いしたことは一度もない」という人もいるかと思います。それに対して、創価大学や創価学園の草創期には、創立者である池田会長がしばしば来学され、学生・生徒たちと直に語り合う機会が、たくさんあったわけです。みなさんは、先輩方からそういう思い出を聞かされることもあるでしょう。

もしかしたら、みなさんの中にはそのことに引け目を感じて、「草創期の人々がうらやましい」と思っている人もいるかもしれません。 しかし、引け目など感じる必要はありません。そもそも世界宗教は、「師から直接薫陶を受けた直弟子のほうが、そうでない弟子よりも上である」などという発想には立たないものなのです。

じつは私も、「佐藤さんは創価学会のことを肯定的に評価しているし、池田会長を尊敬しているそうだけど、池田会長と会ったことはあるんですか?」と、よく質問されるのです。 そういうとき、私は即座にこう言います。

「池田会長とお会いしたことはありません。しかし、私はキリスト教徒なので、『会ってこの目で確かめたから信じられる』などという発想は絶対にしません。 『会わなくても信じられる』ということが重要なのです

と……。そのうえで、パウロについての話をするのです。

第一章で話したとおり、パウロはイエス・キリストと実際に会ったことは一度もありませんでした。彼はイエスの死後に、その教えに目覚めたのです。 にもかかわらず、パウロはキリスト教の世界宗教化に決定的役割を果たしました。

例の「漆塗り方式」で、前回話したパウロの役割についての話を、少し違う角度からしてみたいと思います。

高校や大学の入試で 「キリスト教を創始したのは誰ですか?」という問題が出たら、「イエス・キリスト」と書けば正解になります。しかし、大学神学部や大学院神学研究科の試験で、「キリスト教の創始者はイエス・キリスト」と書いたら、 不正解になります。 パウロと答えるのが正解だからです。 なぜなら、イエスは自身をユダヤ教徒だと認識しており、いまあるキリスト教を創始したのはパウロであるからです。 少なくとも、パウロがいなければ、いまのような世界宗教としてのキリスト教は存在しなかったはずです。

だからこそ、「世界宗教としてのキリスト教」を考察するうえで、パウロの存在こそが最も重要な鍵になります。みなさんはパウロに注意してキリスト教を学んでください。

ただ、いまの神学界において、パウロに対する評価はあまり高くありません。というのも、パウロという人には国家権力と迎合する傾向があったし、男性優位主義的で女性に対する偏見を持っていたからです。

「国家権力と迎合する傾向」というと聞こえが悪いですが、それまでローマ帝国において「反体制宗教」と見做され弾圧されていた初期キリスト教を、パウロはローマ帝国の体制と融和できる宗教へと変えたわけです。だからこそ、のちにローマ帝国に公認され、キリスト教が世界宗教になったというプラス面を見逃すべきではありません。

とはいえ、パウロが男性優位主義的であったのはたしかですから、現代の人権思想から見れば、都合がよろしくない言説が多々あるわけです。

 

著作者:wirestock/出典:Freepik



それはさておき、キリスト教の世界的発展に決定的な役割を果たしたパウロが、生身のイエス・キリストと会ったことがないという事実は、非常に重要です。 しかもパウロは、本来はイエスの直弟子のみを意味する言葉である「使徒」を自称し、そのことが他のキリスト教徒にも受け入れられた。 すなわち、パウロはいま「使徒」として遇されているのです。

そのことが何を意味するかといえば、世界宗教においては、「師と直接会った弟子だから偉い」などという考え方は成り立たないということです。

もちろん、師と直接会い、薫陶を受けた直弟子たちが、そのことを語り継いでいくことは大切です。しかしながら、「直接会った」ということが正しさの証明であるかのような発想は、世界宗教にはないのです。

キリスト教史の最初期の段階において、パウロのような「イエスと直接会ったことがない」弟子が重要な役割を果たしたことは、非常に大きな意味を持っています。

ではなぜ、世界宗教においては「師(創始者)と直接会うことは重要ではない」のでしょう?それは、世界宗教というものが、時間的にも距離的にも非常に壮大なスケールになるからです。一〇〇年単位、一〇〇〇年単位で、世界の隅から隅まで広がっていくからこそ世界宗教です。 したがって、師や創始者と直接会った直弟子の割合は、時を経るほど小さくなっていきます。 そのような中で 「直弟子こそが偉い」という考え方に立っていたら、ごく一握りの特権階級を教団内に作ってしまうことになりかねません。

そもそも、信仰の篤さと師との物理的距離は、必ずしも比例しません。 師のそばにいた時間が長いから信仰が篤いとは限らないし、逆に、師と会ったことがないから信仰が薄いとも限らないのです。

ある創価学会員の方が、「池田先生と弟子との間の距離には二種類ある。『物理的距離』と『生命的距離』だ」と言われていましたが、 ほんとうにそのとおりだと思います。かつて創価学会幹部を務め、のちに池田会長と創価学会に反逆した、 山崎正友や原島嵩などという人たちは、一時期には池田会長のすぐそばにいました。つまり、物理的距離においては師と非常に近い立場にいたわけです。その人たちが反逆したことを見ても、直接会うことが信仰者としての正しさを保証しないことはよくわかります。

逆に、池田会長と直接会ったことがなくても、会長を深く尊敬し、弟子として立派な生き方をしている無名の庶民はたくさんいます。その人たちは、池田会長との物理的距離は遠くても、生命的距離は近いわけです。


※当記事は『世界宗教の条件とは何か』から抜粋をしたものです。

 

続きが気になった方はこちらもご覧ください。

プロテスタント教徒である佐藤優氏は、世界宗教の条件として、「宗門との決別」「世界伝道」「与党化」の3つを挙げる。
そして、その条件を満たしているという創価学会に強い関心を抱く佐藤氏は、キリスト教、イスラム教という世界宗教がたどってきた道筋と抱えてきた問題点を明らかにして、激動の時代を生き抜く英知を紡ぎ出していく。
<キリスト教と同じ失敗をくり返してほしくない>という想いが込められた、新時代の世界宗教を担う人材必読の書。



『世界宗教の条件とは何か』佐藤優著、定価:1320円(税込)、発行年月:2019年10月、判型/造本:四六並製/232ページ

商品詳細はコチラ

 

第1章 世界史から考える「世界宗教化」
第2章 他宗教の「内在的論理」を知る
第3章 創価学会「会憲」の持つ意味
第4章 世界宗教は社会とどう向き合うべきか
第5章 世界宗教にとっての「普遍化」とは
第6章 エキュメニズムーー宗教間対話の思想

 

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作家・元外務省主任分析官
佐藤 優(さとう・まさる)
1960年東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。 2002年背任容疑で逮捕。 05年、『国家の罠』(毎日出版文化賞特別賞)で作家デビュー。潮新書 「対決!日本史」シリーズ(安部龍太郎氏との共著、小社刊)ほか著書多数。

 

(サムネ画像=著作者:starline/出典:Freepik)

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