”人間のあらゆる結合のなかで、師弟ほど美しいものはない” 【書籍セレクション】
2024/02/22日本の平和思想を鍛え深めた碩学と、創立者 池田先生はどのように共鳴していったのか――。
『民衆こそ王者 池田大作とその時代』19巻から一部を抜粋してご紹介します。
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大学闘争の時代、「学生参加」を訴え抜く老碩学がいた。
『国家悪』などの力作で知られる大熊信行である。
84歳まで創価大学で教え、「創立者の偉大さを日本人はわかっていない」と口癖のように語り続けた。
"人間のあらゆる結合のなかで、師弟ほど美しいものはない"と訴えた大熊と、池田大作の対話をひもとく。
斉藤八千代は、東京・港区の高輪で永楽荘というアパートを管理していた。住人の中に、6年前に妻を亡くした、76歳の老教授がいた。
気さくな紳士だった。あごをひいて机に向かう。長身で、鶴のように痩せていた。1893年(明治26年)、山形の米沢市で生まれた。理論経済学の大家だった。日中戦争の前から、評論家としても、歌人としても知られていた。 神奈川大学や富山大学で学部長を務めた。
「創価学会の会長が、この部屋に来られるのです」
1969年(昭和44年)の夏が終わり、秋風が立ち始めるころ、その老教授が部屋の模
様替えを始めた。いそいそと動き、腰をかがめては家具を動かしている。 八千代がわけを尋ねると、「創価学会の会長が、この部屋に来られるのです」という。
〈……当時、未入会の私も緊張していました。同じ棟に学会員の婦人が住んでおられ、事情を話したところびっくりされ、「喜んでお手伝いします」。当日、玄関に水を打つなど二人で清掃をしました〉(斉藤八千代の手記、2007年4月6日付 「聖教新聞」)
41歳の池田大作が、その老教授――大熊信行のもとを訪れたのは9月29日の午後である。
二人が会うのは、これが2度目だった。何日も前から大熊は準備を整えていた。かつて留学時代に親しんだイギリス製の椅子を求め、茶器からスリッパまで、少しでもいいものをと吟味した。
アパートを訪れた池田は、八千代たちにも挨拶した。
〈 ………お迎えした私たちに、「学会の方ですか」と尋ねられました。私は「いいえ」と緊張して言いました。温かな声でした。今も耳朶に残っています〉(同)
八千代は、自分は違うが、母親が学会員であることを話した。 池田が永楽荘をあとにした1時間後、八千代のもとに「お世話になりました」という伝言と、池田の著書、そして念珠が届いた。
のちに八千代も創価学会に入り、神奈川の海老名や座間の地で信仰を貫いていく。
著作者:vecstock/出典:Freepik
高輪の2DKのアパート ――池田と大熊信行の懇談は2時間を超えた。話題にのぼったのは「大学紛争」の行く末だった。
「紛争なき大学は大学にあらず」とまで言われた時代である(『朝日年鑑』1969年版)。
背景には、ベトナム戦争に対する世界的な反戦運動もあった。学生たちは、戦後社会のあり方に大きな不満を抱えていた。
東京大学の安田講堂は半年以上、バリケード封鎖された。この年の1月、東大の総長の要請で、8500人の機動隊がキャンパスに突入した。 池田が大熊宅を訪ねる1週間ほど前には、京都大学に機動隊が入り、56人が逮捕されている。
前の月には、悪名高い「大学立法」(大学の運営に関する臨時措置法)が国会で強行採決されていた。これは、国立大学で紛争が九ヵ月続けば「閉校」、さらに3ヵ月経っても収拾がつかない場合は「廃校」にできる、という時限立法だった。 公立大も私立大も、これに準じる。
当時の政府が、どれほど学生の怒りに手を焼いていたか、その一端がうかがえる。この「大学立法」には、創価学会学生部も反対運動を起こした。
警察庁はこの年の上半期、政治活動で逮捕された高校生が、 全国94校で144人を数えたこと、今も紛争が続く高校は102校にのぼることを発表。 若者の怒りは大学だけの問題ではなかった。
「政治の季節」といわれる日々が、長く続いていた。
アメリカ――黒人差別の撤廃を掲げた「公民権運動」。そのリーダーであるマーチン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺されたのは、1968年(昭和43年)の4月だった。
チェコスロバキア(当時)――「プラハの春」。フランス――ドゴール退陣に至る「五月革命」。世界史の教科書に載るような出来事が、次々に起こった。
日本では、名だたる大学で闘争の火の手が上がった。東京大学は医学部のインターン(実習生)の処遇をめぐる学生の処分が引き金になった。日本大学は大学側が犯した20億円もの脱税に対する怒りが発端だった。
他にも授業料の値上げなど、きっかけはそれぞれ違うが、学生たちは"象牙の塔"に根づいている権威主義や不合理に抗議の声を上げ、全共闘(全学共闘会議)をつくっていった。その多くは「ノンセクト」といわれ、どの党派にも属さない学生たちだった。
中央、法政、慶応、早稲田、上智、同志社、阪大、広大、九大……建物の封鎖や授業放棄、ストライキなどが起きた大学は、1968年(昭和43年)は127校。4年制大学の34%にのぼる。翌年(同44年)は、じつに全体の4割を超え、153校を数えた。
「大学紛争」の時代は、「六〇年安保」から「七〇年安保」の10年に重なる。「日本の大学」について考えることは、そのまま「日本の平和」について考えることだった。
泥沼の中の希望
結局、ほとんどの大学が機動隊を導入した。「紛争」の多くは鎮められた。しかし、学生たちが訴えた問題のほとんどは、そのまま残ってしまった。
池田が「立法」「司法」「行政」の三権に、「教育権」を加える「四権分立」を唱えたのは、まさにこうした動きの渦中だった。
〈現在の政界の一部には、政治権力の介入によって大学の再建を図ろうとする動きがあるようだが、それでは、さらに火に油を注ぐことにしかなるまい。
真の解決策は、むしろ教育の尊厳を認め、政治から独立することに求めればならないと思う。
本来、教育は、次代の人間と文化を創る厳粛な事業である。したがって、時の政治権力によって左右されることのない、確固たる自立性をもつべきである。その意味から、私は、これまでの立法、司法、行政の三権に、教育を加え、四権分立案を提唱しておきたい〉(「大学革命について」、月刊誌「潮」1969年7月号 『池田大作全集』 第19巻)
著作者:Drazen Zigic/出典:Freepik
「四権分立」を世に問うひと月前、池田は大学紛争に飛び込んだ学生たちについて"いじらしいし、可哀想だ"と語っている (1969年5月3日、第32回本部総会)。
月刊誌の「主婦の友」から「学生問題」について寄稿を求められ、〈今の指導者たちも、また、大学の教授や管理者たちも、所詮は、学生への愛情と信頼がなかったところに、紛争がかくまで手のつけようのないものとなった根本原因があったのではないか〉と綴った(1969年2月号、前掲全集第18巻。太字は引用者)。
「法華経」では、釈尊の後を継ぐ「地涌の菩薩」を"泥の中から咲く蓮華"に譬える。池田は2年後に自ら創立する大学を、"泥沼"のような現実を変える"希望"と位置づけた。 先の本部総会で、次のように訴えている。
「……この果てしない泥沼に入った大学問題の実体こそ、新しい理念と思想による、全く新しい大学の出現を待望する時代の表徴であると考えたい。
創価大学は、まさにこの時代の要望に応える新時代の学府でなくてはならない。またそれは同時に、破壊と混乱に終始している今日の大学革命のなかにあって、初めて芽ばえた建設の象徴であり先駆でもあります」
池田が大熊と初めて会ったのは、この講演の直後のことだった(1969年6月14日)。
それから2年後――78歳の大熊は、開学したばかりの創価大学の教授として、1期生を迎え入れる。創大屈指の碩学として、84歳まで経済学を教えた。
教授会で、ある教授がこれまでの他大学での経験のみで議論を押し通そうとした時、大熊が「創立者の構想が最も大事です」とたしなめる一コマもあった。
創大で教え始めて2年ほど経ったころ、大熊は池田の印象を〈年齢の上では、親と子ほどの開きがあるのに、いつとはなしに先方を「先生」と呼びたい気持ちになっている〉と綴った(「池田会長とのめぐり会い」、写真集 『人間革命の記録』 写真評論社、1973年に発刊)。
同じエッセーで、池田と出会った経緯を次のように振り返っている。
〈……学会本部に池田会長を訪問しようと思い立った最初は、本をいただいたお礼を申しあげたいためであった。何冊も頂戴しながら、一通もお礼状をしたためていないのにこちらからおとどけした一冊には、すぐさま直筆のお礼状がとどいた。 もう手紙では尽せないから、ご挨拶にあがることにしよう。
……まことに意外だったのは、会長の側近や、学会の幹部といった人たちが、のこらず座をはずし、そこにひとり立っておられるのが池田会長であったということ〉
とくに初対面の挨拶が、大熊の心に残った。
〈……その言葉のなかに、 わたしをハッとさせるものがあった。というのは、わたしの『国家悪』について、ただ一言、「穴にも入りたい思いがしました」といわれたことである。この瞬間、 池田会長は、わたしのそれまでのイメージを飛び超え、およそ地位と権力に囚われることを知らない「純真の人」という強い印象を、わたしに与えた。しかし同時に、 わたしにも不思議なことが起こった。 我知らず口走ったのは、「わたしは出来そこないですから」という、いわば自己紹介の一語だった〉
"国家主義の悪"という巨大なテーマを問いつめた労作を称える池田の言葉と、その謙虚さに大熊は胸を打たれた。
大熊は『国家悪』をはじめ『日本の虚妄』 『兵役拒否の思想』 などを通し、日本の平和思想を鍛え、深めていった先駆者である。
池田はその先達に対する尊敬の念を、同じく国家主義の悪と戦う一人として率直に伝え、対話が始まった。
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二人が出会うきっかけをつくった1冊の本、『国家悪』。これまで4度、装いを変えている。
池田が手にしたのは、1957年(昭和32年)に出た中央公論社版だった。 副題は、
「戦争責任は誰のものか」
というものだった。池田と大熊が出会った年の暮れに、増補版が小社から世に出された。大熊はその副題を、
「人類に未来はあるか」
に変えている。
池田は自らの小説『人間革命』 でも、この「国家悪」という言葉に言及している。
この本で大熊が論じたのは、他の誰でもない、自分自身の「戦争責任」だった。
消すことのできない過去があった。49歳の時、太平洋戦争の最中、「大日本言論報国会」の理事になった。そして、戦争を進めるための理論づくりを担ったのである。
〈われわれは当時みずからファシズムの波に乗っているとは思わなかった。そういう波が来ていると思い、その波にさからっていると思いながら、さからっていたのは波がしらにたいしてであって、われわれはすでに大波のうえに乗っていた〉(『定稿 告白』 論創社)
人生をかけた研究が、戦争の大きな波に飲み込まれていった。日本が敗れた時、52歳だった。すでに当時の日本人の平均寿命を超えている。
しかし大熊の言論が、他にない重みを増していくのは、それからだった。
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※当記事は『民衆こそ王者 池田大作とその時代』19巻から抜粋をしたものです。
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ユゴー、トルストイ、ホイットマン――。
青春時代を文学とともに歩んだ池田SGI会長。
次の時代を担う若き人々に、「読む」ことを通し「希望」を見出し、「知る」ことを通し「生き抜く力」を湧き出すよう訴え続けてきた。
「読書」を通し青年を薫陶する池田SGI会長の信念は、やがて創価大学の「中央図書館」へと結実していく。
『民衆こそ王者 池田大作とその時代19 治世の武器庫――図書館篇』「池田大作とその時代」編纂委員会著、定価:1100円、発行年月:2024年1月、判型/造本:四六並製/290ページ
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【目次】
第1章 いじめられている側に立つ――中央図書館①
第2章 大学は庶民のオアシスたれ――中央図書館②
第3章 「人間之王者」を育てよ――中央図書館③
第4章 君たちが喜ぶためなら――大学の日々①
第5章 アラブとともに、川崎寅雄――大学の日々②
第6章 国家悪との死闘、大熊信行――大学の日々③
第7章 占領下に灯した核廃絶の炎――少年雑誌①
第8章 “マンガの神様”も憧れた――少年雑誌②
第9章 いっさいの名聞名利なく――少年雑誌③
識者の声