新連載小説「ナースツリー」第3話
2024/09/25国家試験を前に不安を覚える優美(ゆうみ)は、すでにテレビ局への就職が内定している同級生の杏菜(あんな)に複雑な感情を抱く。母には電話で幼なじみの綾乃(あやの)を気にかけるよう頼まれていた。そんななか、優美は昼休みに小児看護専門の門永(かどなが)教授のもとへと向かうのだった。
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気持ちが激しく揺れているとき。白樺の木の前にしばらく立っていると、さわやかな風に背中を押されるような、新鮮な思いの湧き起こる瞬間が訪れた。
看護学部棟の入り口には、一本の白樺の木が植えられている。
白樺は生命力が強いことで有名だった。伐採後の荒れ地や山火事のあとでも真っ先に育つ。あとから生えてくる木々を守ることから「ナースツリー(保護樹)」とも呼ばれている。
背伸びをしなくてもよい。わたしたちはこの白樺なのだから。だれだって、どんな職業の人だって、いきなり大樹になることはできないのだから。
ナースツリーは一期生とともに育ってきた樹だった。看護学部開設の記念に植樹され、まだまだ細い幹は、それでも年ごとに目に見えて成長してきた。
看護学部棟の三階からグラウンドを見つめる優美の瞳に、人影が映った。小さな影がひとつ、そして取りまく大人の影が三つ。にぎやかな塊となって、砂埃りを立てながら、広いグラウンドの中央へと移動していく。
同じ学部の黒田咲良と林まどか、沖縄出身の比嘉賢一、そして咲良の弟、小学生のタカちゃんだった。
優美はあわてて教室を出て、階段を駆け降りた。
「タカちゃ~ん」
手を振り大声で子どもの名前を呼びながら、優美はみんなのもとへ駆け寄った。タカちゃんの手から虹色の光にきらめくシャボン玉が放たれ、宙を泳ぐ。
「きれい!タカちゃん、すごく上手!」
「あ、優美ちゃんだ!優美ちゃん、大好き」
シャボン液のしたたる虫メガネ型の輪っかをもったまま、タカちゃんが優美に抱きついた。
タカちゃんの吊り上がり気味の細くあどけない目が優美を見つめる。タカちゃんがダウン症児であることは、だれも口には出さなくてもわかっていた。
「こら、タカちゃん、優美のスカートが汚れちゃうでしょ」
シャボン液の容器をもった姉の咲良がたしなめる。
優美と同じくらい背の高い咲良は背中まで伸ばした髪をレイヤーカットにして、いつも颯爽と歩いている。喜怒哀楽がはっきりと態度に出て、そのわかりやすさが相手の警戒心を解く。
そんな咲良が弟を前にすると、いかにもしっかり者の長女という感じに態度が変わった。
咲良の家は大学の敷地のすぐ裏にあったから、大学は広大な庭のようなものだといつか冗談交じりに言っていた。
まどかさんがいつものおっとりとした口調で言う。
「タカちゃんにはいつも癒されるな。わたしたちのアイドルだよね」
まどかさんは短大を出て社会人になったが、母校と同じ敷地内にある四年制大学に看護学部が新設されることを知り、会社をやめて受験したのだった。
実家は北海道だった。大学は遠いけれど、両親はともに薬剤師だから、むしろ応援してくれたのだという。
四歳の差は、感じないと言ったらうそになる。けれど、看護以外の社会を知っているというそのことで、同期生たちの尊敬を集めていた。
いつもやさしい笑みをたたえ、相手が話し出すと心地よい相槌を打ってくれる物腰の柔らかなところも、好感をもたれていた。
背は低く、大勢のなかにいたらまぎれてしまう容姿だが、まどかさんを見ていると、美人とかそうでないとかという価値観が小さく見える。
タカちゃんがシャボン玉の輪っかを放り投げて、踊るように駆け出した。咲良はそれを拾い上げ、タカちゃんのあとを追いかける。
「じゃあ、またあとで。中央図書館のラーニングコモンズは予約してあるからね!」
「タカちゃん、バイバイ!」
振り返ってバイバイ、と手を振るタカちゃんの温和な笑顔に思わず笑みがこぼれた。
残された三人は自然と寄り集まる。賢一が二重瞼の大きな目で皆を見まわしながら聞いた。
「実習用の本は借りてある?」
賢一は眉毛が濃く頬骨の高い彫りのある顔をしている。
「わたしが借りたわよ」
言ったのはまどかさんだった。
最後の実習をともにする四人で、午後から事前準備を行う約束をしていたのだ。本は看護学部の図書館で借り、準備はディスカッションのできるラーニングコモンズを使う予定になっていた。
中央図書館の一階は、エリアごとに間仕切りが置かれただけのオープンな空間になっている。声を出してグループでディスカッションすることも可能で、設置されたホワイトボードを自由に使うことができた。
賢一が念を押す。
「時間は二時半だったよね」
優美が時計塔を見てあわてたように言った。
「二時半ね、了解!じゃあ、わたしは約束があるからひと足先に」
門永先生と約束した時間が迫っていた。
メインタワーの、十三階にある食堂で門永先生と向かい合っていた。
「先生、前にもお話ししたのですが、わたし、妹が死んじゃうんじゃないかというその恐怖がどうしても離れないんです」
門永先生が箸をもつ手を止め、優美をじっと見た。
「潰瘍性大腸炎をおもちだった、たしかそうですね」
門永先生の頭髪は白髪に覆われ、ぽっちゃりとした丸顔に刻まれた皺も深かった。どれほど心の嵐を抑えて笑顔を作ってきたのだろうと思うほど、いつも柔和な表情を門永先生はたたえている。
「そうです。小児病棟への就職が決まってひと安心したとき、急に怖くなったんです。それまでは考えてみることもなかったのに。妹だけでなく、受けもちをした子どもが亡くなるかもしれないという恐怖に耐えられるのかって」
優美の気持ちを受け止めたことを伝えるためか深くゆっくり頷いたあと、まずは食べましょうと言ってトレーに載った鯖の味噌煮に箸をつけた。
あたりさわりのない話題に断片的にふれながら、食事を終えた。門永先生が自ら運んできてくれたアイスコーヒーを前に、一瞬張りつめた沈黙が降りた。門永先生が深く包み込むような笑みをたたえて言う。
「感情のなかに傷や痛みを残すことは、悪いことではないのよ」
理解の度合いを確かめようとしているのか、門永先生は優美の瞳をのぞき込んだ。
「そうかもしれないけれど……」と言って、門永先生の視線を遮るようにうつむいた。
「わたしはそんな強くないかも」
「むしろね」
真意のこもった声の響きに胸を突かれ、顔を上げて門永先生の次の言葉を待つ。
「後悔や、患者さんの心の痛みへの共鳴や、寂しさや無力感や、そんなものをなにひとつ感じなくなったとき、看護師として最も厳しい痛手を負ってしまうのかもしれない」
「最も厳しい痛手……」
「先生のなかにも、やっぱりあるのよ。とくに勤務を終えて次の看護師に引き継いだあと患者さんが急変したりすると、あのとき自分がもっとこうしておけば、ああしておけばという後悔が、とめどもなく浮かんできてしまう」
「……」
「看護師は、患者さんが人生でいちばん弱っているときに寄り添って、少しでも安らかに保てるように心労を尽くす仕事だから。高階さん、そのことに誇りをもってほしいの」
「はい。先生は、どうして看護師になろうと思ったんですか?」
「水俣病って、知っているでしょう?
熊本で起こった公害だと思っているかもしれないけど、新潟の阿賀野川流域でもあったのよ」
門永先生は言葉を切って宙を見るようなしぐさをしたあと、言った。
「父親がその問題の工場で技術者をしていたの」
「先生は、そのことで責任を感じられたのですか?」
「責任、ではないけれど……。川の流域で貴重なたんぱく源として魚を獲って暮らしてきたごく普通の人たちが、手足のしびれや歩行困難などに苦しめられる。企業の営利活動というもの、すべて悪徳企業ではないのだけど、抵抗感が、どうしてもぬぐえなくてねえ」
「それで、命と健康を守る仕事につこうと思われたのですね」
「でも、家族に反対されてね」
「どうして?」
「わたしたちの親の時代は、看護婦になるのは貧しい家庭の子というイメージが強くてね。病院で働きながら准看護学校に行って資格を取るという人が多かったから。大学卒の技術者だった父親には、どうしても許せなかったのね」
「個人の偏見、というより、時代の弊害だったんですね」
「いまでは看護師は人気の職業だけれど」
門永先生が訴えかけるようなまなざしで優美を見た。
「看護の仕事を志した学生は、一人ももれなく、あなたを待っているであろう患者さんのもとへ送り出したい。それがわたしの祈りにも似た強い願いであり、わたし自身の決意なのよ」
さあ、と言い、門永先生がトレーをもって立ち上がる。
「妹さんのことは、またゆっくり聞かせてくださいね」
優美も「はい」と返事をして立ち上がった。
メインタワーを正面玄関から出て立ち止まり、しめ上げた頭のなかを緩めるようにぼんやりと周囲を見まわす。そのまま緩慢な足取りで新世紀橋のほうへ向かう。
橋を支えるための高さ四十メートルある主塔柱の先端には、ヒトをかたどったオブジェが二つ、向かい合って置かれている。
それは、大地を踏みしめて立つ若者が、手を取り合い、未来を見つめる姿のイメージだという。
橋の向こう側へつづく、林に囲まれてカーブする道の先から駅伝選手の姿が現れ、瞬く間に優美の横を駆け抜けていく。
選手それぞれが、月間の走行距離百キロをめざして練習を積んでいるのだと、大学のウェブサイトで知った。
駅伝選手が駆け抜けるときに一瞬舞い上がった風が優美の背中を押したかのように、グローバルタワーのほうへ自然と足が動きはじめたグローバルタワー前の広場で立ち止まり、スマートフォンで時間を確かめた。咲良たちとの約束の時間まではまだあるなと思う。
広場の中央に大きく枝を広げるしだれ桜を見上げた。
植樹されてから半世紀を経た桜の幹は太く、生い茂る枝葉の下には心地よさそうな日陰ができている。
大学の構内で、最も早く満開のときを迎えるしだれ桜。無骨な木の内側で静かに可憐な花を準備して、春の訪れとともに一気に花開かせ、その薄紅の滝が流れるような優美(ゆうび)な姿は見る人を喜ばせる。
冬が来て葉をすっかり落としたしだれ桜を見ると、優美は不思議な畏敬の念が湧いてくるのだ。
秘めているものは、時とともに表に現れる。
自分も、このしだれ桜のように、何物かを秘めているのだろうか。だれかの心を動かしたり、豊かにすることはできるのだろうか。
看護の道に対して逡巡してばかりでいいの?
誓いを立ててまっすぐに進むべきではないの?
そう問いかけずにはいられなかった。
けれど、なにが自分の心の奥でひっかかっているのか、いまだに明確な答えは見つからなかった。
車道と並行して同じくらい広い歩道のある道は大学内を縦断していた。時間に余裕があったので、脇道へそれて少し遠回りだが、池から中央図書館へ向かう裏道を歩き出す。
急な坂道を下ると、竹林の先に、ボートでも浮かべられそうなくらいの広さの池が見えてくる。中央に噴水の吹き出す池は全体が一望できた。向こう岸の一角には、淡い赤紫色の蓮の花が群れ咲いている。
まどかさんが昨日、池の水面すれすれにカワセミが飛んでいくのを見たと言っていた。
池のほとりに置かれたベンチに男子学生が座り、一心にスマートフォンの画面を見ている。
優美が学生のいる場所に近づき通り過ぎようとしたとき、学生が立ち上がった。
「あっ」
言ったのは二人同時だった。
(つづく)
作家
絹谷朱美(きぬたに・あけみ)
鳥取県生まれ。創価大学卒業。2014年「四重奏」で第17回長塚節文学賞短編小説部門大賞受賞。18年「光路」で第4回林芙美子文学賞佳作受賞。大学図書館のスタッフとして勤務するかたわら、執筆活動に臨んでいる。