【潮6月号の読みどころ】民衆こそ王者――池田大作とその時代

隻腕の赤ひげ先生 親長盛明（おやもりちょうめい）は長い間、西表島（いりおもてじま）でたった一人の"島医者"だった。いつも潮の満ち引きを気にした。〈満潮時以外は大体において海を歩くことができた〉からだ（親盛長明『ある医介輔の記録』南山舎。以下、出典の記載がない引用は同書から）。馬に乗って、川や遠浅の海辺を渡り、往診に向かう。 残酷極まりない沖縄戦が終わってから、10年足らず。まだ道路もなく、電気もなかった。〈集落間の道はジャングルの中に獣道のような道しかなかったので、人間の背丈ほどの高さしか空間がなかった。大型の馬に乗ると緑のトンネルの天井につかえて通れなかった〉。だから小さくて、温厚で忍耐強い与那国馬（よなぐにうま）を選んだ。台風の後は、あったはずの道がなくなる。ノコギリとナタで〈新しい道をつくりながら〉進んだ。病人が待っている。満潮でも急ぐ時は、馬から降り、ふんどし一丁になって、左手で鞄を抱えて渡った。長明は、右腕がなかった。 池田大作は中学生たちに向けて、長明の半生を語ったことがある。ロングセラーの『希望対話』。「自由に生きたい！」というテーマの回だった。池田……小学校6年の夏、事故で右腕を失ってしまった。手術から目が覚めたら、すでに右腕はなかった。こんな不自由な体で、どうしたらいいのか――「千丈の崖から突き落とされ」たように孤独で、「いっそ死んだほうがいい」と思うようになったという。「学校に行こう」と友だちに誘われても、恥ずかしくて、行けなかった。 そんな少年を周囲は一生懸命、励ましました。少年も「悩んでばかりいても仕方がない」と思い、勉強を始めた。真剣だったから、少しずつ成績が上がり、やがて勉強の面では、周囲にも劣らぬ力をつけた。それが自信となって、「もう絶対に人には負けない。よし私は生きよう」と、決意できたのです。（普及版『希望対話』116ページ）（中略）長明は西表で苦闘を重ねた。（医介輔として） 古見（こみ）への赴任から10年。マラリアの専門家であるウィラー博士の立てた計画が功を奏し、八重山のマラリアは撲滅に至る。長明が創価学会に入ったのは、ちょうどそのころだった。姉夫婦からの折伏がきっかけだが、長明は3年ほど猛反対していた。公民館の前で「絶対に創価学会にだけは入るな」と演説したこともある。いざ入ってみると、機関紙の「聖教新聞」や月刊の「大白蓮華」が面白い。読みふけった。〈入信したころに感動したキーワードを列記すると、一念三千、十界互具、色心不二、変毒為薬、転重軽受、煩悩即菩提、因果俱時など、いくらでも思い出される。特に医療従事者として、深遠な生命論は身震いが起きるほど感動した。 入信後、朝晩の勤行がようやくできるようになったころ、勤行中に命の底から突き上げてくるような感動、喜び、大歓喜を感じるようになった。よく、この信心をすると生命力が強くなり、大歓喜の人生が送れるといわれているが、この感情かも知れない。やはりすごい御本尊だと感激した。「ストレスは、心身を蝕ばむ」というが、この逆作用で、この大歓喜が全身の細胞を活性化して生命力を強めて、免疫力を高め、病を治し、苦難を悠々と乗り越え、不可能を可能に変えるのかと、改めて生命の不思議さを身をもって体験し、いっそう信心に励んだ〉ずいぶん前から〈人間には自分の体を治す「自然治癒力」があること〉は知っていた。しかし〈それを深く説き、引き出す方途も示す仏法〉は知らなかった。「日蓮大聖人は『南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり』（御書788ページ、新1097ページ）と仰せですが、歓喜の生命が人間の治癒力を増すのです。『よろこぶ』ことの意味に光を当てた仏法の英知に感動しましたね」 西表島に地区ができれば地区部長として、支部ができれば支部長として、島内をくまなく訪れた。〈私は、一人の百歩より百人の一歩が大切だと、一人ひとりに使命を自覚してもらいたくて家庭指導に飛び回りました〉（親盛長明の手記）。 長明は晩年、自叙伝のタイトルに「一念三千」と名づけた。日蓮仏法の哲理が人生の背骨になっていた。なぜ、仏法の生命論にこれほどの歓びを感じたのか。その理由は、島の人々から「隻腕の赤ひげ先生」と呼ばれ、慕われた長明自身の半生にある。（P.144-149） ｢本当の自由とは境涯です｣ かつて西表には炭坑があった。〈おそらく日本でもっとも悲惨な歴史をもつ〉（三木健『西表炭坑概史』ひるぎ社）といわれる炭坑だった。 長明は医介輔になる前から「何べんもいったものですよ」「ほとんど結核患者ですよ」と語り残している（『八重山保健所管内のマラリア防遏事業 関係者の証言集 八重山マラリアの過去』沖縄県八重山福祉保健所）。 働く人たちを暴力と借金で縛りつけていた。「警察権が行使できない地域でしたから、大変だった」「（労働者が）絶対に入ったら出られないように仕組んであった」（同）。長明は19歳の時、西表の炭坑から逃げてきた男たちを助けたこともあった。 出産の立ち会いも増えていった。〈西表には産婆さんもいなかったのです。お産で何人もの母子が亡くなっていました。毎日のようにお産がありました。私が取り上げた子どもは、500人をくだらないでしょう。左手ひとつで赤ん坊をとりだすわけですから、一人のお産が終わると本当に体力、神経の両方がすりへりました〉（親盛長明の手記） 真夜中に村の若者が走ってきて「お産です！」と告げる。豪雨の中、北部の高那まで馬で2時間ほどかけて駆けつけたこともある。信心を始めて7年目に、異常分娩も経験した。まだ〈電気も、電話も、ヘリもない時代、助けを求める方法は皆無の中〉、逆子のお産に挑んだ。幸い、安産になった。〈地域のほとんどの人の名前、職業、病歴、生活レベル、性格までも頭の中に入っているので、電話がかかってきた時点で病名が分かる人も少なくなかった。治療の時だけの患者ではなく、治療の前も、治療後も、「通常観察、生活観察」扱いなのである。……かかりつけ医の前の、家族医的な地域医療を心がけてきた。地域を愛し、郷土の発展を願い、住民の幸せと健康を祈り、病気の回復をともに喜び合ってきた57年である〉 池田は「自由」について語る中で、長明が84歳の時の言葉を中学生に伝えている（前掲『希望対話』115-119ページ）。「いまになって考えると、この50年間、いろいろと苦労もあったけれども、僕はものすごい幸運だったなと思うんです。小学生のときに右腕を失った僕が今日あるのも、苦労をつくってくれるところの場所が僕に与えられたからだ」 自由とは何か。池田は「本当の自由とは、仏法で言えば『境涯』です」と語る。では、「境涯」とは何か。やさしく言えば「心の強さ」である――そう確かめたうえで、「『力』があれば『自由』になれるのです」と結論する。「ピアノもそう、書道もそう、スポーツもそうでしょう。自由自在に活躍するためには、『力』をつけなければならない。『強く』ならなければならない。そのためには、自分を不自由な立場に置いてでも、懸命に練習しなければならないときがある。苦労を避けて、自分のしたいことだけをやっても、力はつかない」「自由とは『翼』です。自分の目的に向かって、あなたの思いどおりに飛ぶのだが、飛びやすい『軌道』が、じつは、あるのです」「自由に羽ばたいているようでも、鳥には鳥の軌道がある。太陽にも、月にも、地球にも、揺るがない運行の軌道がある。人間には、人間の軌道がある。途中には、いろいろな、いやなことや障害物もある。それらを乗り越えたり、時には上手に、よけて、迂回して、自分の軌道を進みなさい」「『目的地』は、幸福になることです。何があっても負けない心――〝どんなつらいことがあっても楽しめる自分″〝自由自在に、世界に貢献できる自分″を築くことです。『軌道』とは、そのために知力、体力、精神力を養うことです」 悠々と「自分の軌道」を進んだ親盛長明。58歳の冬、池田の前で肩をこわばらせ、「粉骨砕身、努力してまいります」と誓った瞬間がある。それは、池田から西表の初代地区部長に任命された時だった。（P.151-153） 「八重山をハワイに」 日本のハワイに。東洋のハワイに。第二のハワイに。池田の励ましは、八重山の友の口から口に伝わった。 この池田の一言を、生涯の指針にして、八重山の一角に本物の楽園をつくった男がいる。 西表正治。妻のハツとともに、由布島（ゆぶじま）に生き、由布島で生を終えた。その劇的な人生は、単行本『楽園をつくった男』（森本和子、アースメディア刊）にもなり、ANA（全日本空輸）の機内誌「翼の王国」でも特集された（2012年7月号、文＝井上英樹）。〈八重山の人は台風にも負けない強い精神力を持っている。由布島は台風の度に田畑や家に甚大な被害を受けていたが、1969年、かつてない巨大台風が島を襲った。最大風速56.8m。海の波も島を襲った。このエルシー台風は人々の精神力を超えてしまった。２日間の暴風雨を生き延びた島民が見たのは、無残な姿の田畑だった。果物、米、野菜は全滅。結局、正治さんを含む３世帯だけが由布島に残り、ほかの人たちは西表島へ移住してしまった。さぞかし無念だっただろう。しかし、正治さんにはやることがあった〉（「翼の王国」から） 島全体が冠水したエルシー台風。池田が八重山を訪れる5年前のことだった。 由布島は歩いて1周するのに1時間もかからない。面積は0.15㎢、海抜1.5ｍの小さな島だ。 正治はエルシー台風で3世帯しか残らなかった時を思い返し、「何が怖いことあるものか」「それもよ、池田先生のご指導があったればこそさ」と語り残している。 池田が第三代会長を辞任した6年後の5月3日――「創価学会の日」には、〈この3、4年の間、激しい批判の嵐のなかで、毅然と学会を守り通された池田先生の雄姿を偲び、万感胸に迫る思いで一杯です〉と綴った（「大白蓮華」1985年5月号）。 1908年、竹富島で生まれた。妻のハツとは台湾で出会った。〈故郷の竹富島を出て台湾に渡ったのが昭和2年の春。9年、市役所に勤めていた同じ竹富島出身の夫（＝正治さん）と結婚。台湾で5人の子を産みました。米軍の帰国命令によって、故郷の竹富島に帰って来たのが21年の春でした〉（西表ハツの手記） 食糧難で粟しか食べられなかった。由布島への入植を決めた。アダンの木を切り倒し、向かいの西表島から木を切ってきて家を作るところから始まった。〈家といってもかやぶき屋根とランプ生活。米を作りながら10年間は、自分たちの作った米は食べることができないという生活が続きました。竹富島で1人、由布島でさらに4人の子が産まれ、子供たちは10人となっていました〉〈新開地とあって島村の共同体意識を固める必要に迫られ、神社を移入。祭りまで持ち込んだのが、この西表（正治）さんだった〉（1982年5月23日付「聖教新聞」） もちろん学会には反対である。しかし、農業の不振と、目の病気に悩んだ。由布島に通い、正治と根気強く対話し続け、「聖教新聞」や本を置いていったのが親盛長明だった。正治は腹を決めた。〈……島の宗教的しきたりを作った人が「あれは誤っていた」といったから大変である。わずか36戸の島は2つに割れ、非難はウズを巻く。しかし、西表さんはひるまなかった。島中は朝に晩に仏法の話でもちきり。竹富島、石垣島、小浜島……。どこへでも弘教の足を伸ばした〉（同）「父が信心を始めたころ、私は石垣の高校に行っていたのですが、家族から"父の人間が変わったよ"と聞いて驚いたんです」。四女の村上紀子は「夏休みに帰ると、いつも池田先生のことばかり話していました。威張って怒ってこわかった父が丸くなったんです。本当のお父さんになったというか……。母も変わっていく父をみて学会に入りました」と述懐する。 由布島から西表島の座談会へ行くのだが、懐中電灯は必需品だった。当時、由布島に住んでいた本原富子は「昭和30年代は、大原から由布島まで、親盛長明さんの奥さんのヨシ子さんが聖教新聞を持ってきてくれました。それを西表ハツさんや子どもさんが私たちの家まで配ってくれました」と振り返る。 由布島がエルシー台風に襲われた年、正治は信心を始めて5年目。60歳を過ぎていた。島は廃墟になってもおかしくなかった。住民の大半が西表島に移住した。正治は「島に残る」と決めた。「10人のわが子たちが、いつでも帰ってこられる島」にしたかった。 夢のきっかけは、息子の一人が作ってくれた。「ある時、三男の貫之（つらゆき）さんが、海岸に流れ着いたココヤシの実を拾ってきて植えたんです。気がつくと育っていた。それまで由布島は、カヤしか育たない、アダンやマングローブくらいしか生えないと言われていました」（孫の屋宜靖） もしかしたら、風に強いヤシを島中に育てることができるかもしれない。正治は「ヤシの木かげで好きな教学の勉強でもできれば最高だな」とも思った。農作業の合間に1本ずつ、植え始めた。年金が入るとヤシの苗木を買った。無謀と思える挑戦である。正治とハツと長男の彰雄（あきお）と、3人で始めた。 砂地ばかりなので、水牛車で赤土を運び、足でこねた。道沿いにヤシを植えた。廃校になった小中学校の運動場を苗床にした。バナナやインドナツメなどの熱帯果樹も植えた。トックリヤシがカブトムシに食われ、全滅したこともあった。「まだ水道はなくて、井戸水をくんで、ランプ生活でした。正治おじいの一日のルーティンは……」。そばで見続けた屋宜靖が語る。「まず、朝起きて勤行すると、畑仕事に出る。仕事の後、朝食をとり、再び仕事へ。昼ごはんの後は、昼寝をして、起きたら必ず熱心にノートを書いていました」。そう言って、後ろの書架を振り返った。大小さまざまなノートは膨大な冊数になった。その大半は「聖教新聞」や「大白蓮華」に載った池田の指導であり、御書講義であり、印象に残った記事だった。心に残った池田のスピーチなどを、切り貼りするのではなく、すべて手書きで写した。 表紙に「池田先生の竜の口の法難、三国志を通しての指導」と書かれたノートもある。池田の対談集『生命と仏法を語る』や小説『人間革命』の連載、四条金吾宛ての御書の本文、通解、解説、「日蓮大聖人の御生誕時の内外情勢」……。それらのノートが、今も居宅に百数十冊、保管されている。六女の小笠原郁代（おがさわらいくよ）は「父が亡くなった時の形見分けで、私たちもずいぶん父のノートをいただいたんですが、それでもこんなに残っているんですよ」と語る。 四女の村上紀子も「高校時代に父から届く手紙にはいつも御書の話でした。とにかく御書が生活に密着していました。『池田先生がおっしゃっているのは特別なことではない。生活になじんでいる。最高の師匠だ』と言っていました」と振り返る。 木を植える日々は、池田との対話の日々でもあった。「ヤシの木を植える合間に御書、農作業の休み時間に御書、とにかく御書を読む人でした」と屋宜靖は語る。「晩酌後は、その日読んで心に残った先生の指導や御書を、おばあや孫の私に滔々と語るんです。有名な〈迦葉尊者にあらずとも、まいをもまいぬべし。舎利弗にあらねども、立っておどりぬべし。上行菩薩の大地よりいで給いしには、おどりてこそいで給いしか』（大悪大善御書、御書1300ページ、新2145ページ） という御書がありますね。あの一節を諳んじて、立ち上がって悠々と踊るんです」「池田先生"八重山をハワイに"とおっしゃった。正治おじいとハツおばあは"だから、由布をハワイにする"と言っていました」（P.160-165）

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