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歴史の水底に流れる"庶民の営み"

作家・宮本輝初の歴史大河小説『潮音』がついに完結。新たな視点で幕末の動乱期を描いた背景を語る。
※本稿は4月27日に兵庫県神戸市で開催された「聖教文化講演会」での講演の抄録です。
(月刊『潮』2025年7月号より転載)

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いよいよ歴史ものに足を踏み入れる

――新刊『潮音』( 文藝春秋)は、作家デビュー48年で初の歴史小説です。主人公の川上弥一は幕末に越中富山に生まれ、薩摩藩を担当する売薬の行商人となり、幕末・明治の動乱を目の当たりにします。どうして歴史小説に挑戦されたのですか。

宮本輝 いまから50年ほど前に、作家の先輩である池上義一さんから言われたんです。作家というのは"小説を書いてなんぼ"だ。書かなくなったら作家じゃない。だけど、一人の作家のなかにある小説の種はせいぜい三つか四つだ。それすら形になるかは分からない。だから必ず行き詰まるときが来るだろう――。さらにこう言うんです。

「そのときはな、歴史小説に入って行け。せやけど歴史の泥沼には足を突っ込むな。特に幕末だけには手を出したらあかん」と。

 歴史小説に入れと言ったり、泥沼には入るなと言ったり。要はどの視点から見るかで真実が変わるという話をしたかったんだと思います。

 幕末・明治でいえば、大久保一蔵(利通)が書いた日記があります。池上さんは「あれは嘘やで」と言う。「人間は、日記でほんまのこと書くか?」と。言われてみれば、家族にだって隠しておきたいことはあるはずです。

「なぁ? 日記くらい信用できんもんはないねん。だから幕末には手を出すなよ」と。

 編集者から歴史小説の依頼を引き受けたものの、あの時の池上さんの「なぁ?」って声が蘇ってきてね。手探りの中で書き始めたんです。それが、気がついたら原稿用紙3000枚を書いていました。

「これ全部一人称で行っちゃうの?」

――全四巻に及ぶ大作ですが、そのすべてが主人公・弥一の一人称で語られています。長編では考えられないスタイルだと思うのですが。

宮本 当初は要所での狂言回しとして弥一を登場させて語らせ、その他は三人称で書くつもりでした。それで冒頭は一人称で書いたんです。ところが、冒頭の部分を読んだ別の出版社の役員がこう言うんです。

「これ全部一人称で行っちゃうの? 相当長いものになるでしょう? 長いものは一人称ではもたないと思う。読むほうも疲れるし、書くほうだって破綻しますよ」と。

 喧嘩を売られたような気がしてね(笑)。こうなったら意地でも一人称で書いてやろうと。それで予定を変更して全編を一人称で書いたんです。正直に言えば、三人称で書いたほうが楽だったと思いますけどね。

 後日、ゴルフ場でその人とバッタリ会いましてね。「宮本先生、恐れ入りました。偉そうなことを言って失礼しました」と言って、ゴルフボールを1個くれました。(笑)

――本作の一つの大きな特徴は、"庶民の目"から見た歴史が描かれている点にあると感じます。

宮本 富山の売薬商人は全国の三百藩を渡り歩くわけですから、相当な情報を持っていたわけです。だから、周囲からは「隠密御用」と呼ばれて嫌がられるんですけど、彼らはそれを否定し続けました。幕府の使者から問われれば、自分の見聞きした事柄を答えるけれど、隠密ではないと。

 ただ、実際は幕府の隠密よりも各藩の人々の生活に入り込んでいたので、きっと当時の日本の深いところまで見つめていたのではないかと思うんです。彼らの世間話から世の中や幕府を描き出すような仕掛けにしようと思ったんですが、もっと長い作品になってしまいそうで、それはなかなか難しかった。

怒涛の時代の"境涯の戦い"

――初の歴史小説で苦労なさったことはなんですか。

宮本 苦労だらけでした。まず、当時の日本で使っていた言葉が違う。例えば「○○的」「○○化」という言葉は当時、ありませんでした。でも、ついつい癖で使ってしまう。そうすると校正者から赤(校正指摘)が入るんです。他の指摘は鉛筆なのに「的」や「化」には"親の仇"かと思うくらいに、赤鉛筆を使って三重線で取り消してくるんです。「何回言うたら分かんねん!」と。(笑)

 また、これまでの小説と違って、ものすごい量の史料を読まないといけないのも大変でした。書き終わったらほとんど忘れましたけど。

――『潮音』というタイトルには、どんな思いを込めたのでしょうか。

宮本 僕らって病気したり、貧乏したり、いろいろな目に遭いますけど、そんなのは宇宙の運行から見れば海面の波が5㍍くらい逆巻いたくらいのものなんです。そんな小さな波浪でも人間は耐えられない。

 一方で、水深数千㍍の海底にはゆったりとした巨大な潮の動きがある。その潮の流れに乗っていく人生なのか、それとも海面で逆巻く波に翻弄される生き方なのか。それは意識の問題ではなく、境涯の問題でしょうね。どうやればそんな境涯をつくっていけるのか。

 弥一ら売薬商人は、怒涛の時代のなかで、無意識のうちに海底の潮の流れを見いだし、その音を感じながら、境涯の戦いを続けた。そういう意味を込めて『潮音』というタイトルにしました。

――第四巻の最後にある、弥一には潮音が聞こえないけれど、妻には聞こえる場面が印象的でした。

宮本 これも境涯の問題でしょうか。でも、ある人から同じことを言われたので、妻に聞いてみたんです。女性だから聞こえるなんてことがあるんやろかと。そうすると、妻は「私は分かる。女には分かると思う。男には聞こえない」って言うんです。思わず「なんちゅうこと言うんや。書いたんは俺やぞ」と。(笑)

一生涯見ていてあげる

――弥一は息子を亡くし、多くの人々の死も見てきた。自身も病気で吐血します。生老病死のなかでいかに意味がある人生を生きていくかという、宮本作品を貫くテーマも含まれていますね。

宮本 生老病死で言うと、鎌倉時代の日蓮は手紙のなかに「生(しょう)を受けて齢六旬に及ぶ老又疑無し只残る所は病死の二句なるのみ」という言葉を残しています。そこには愚痴っぽさも無念もない。生老病死を包み込む大きな心を感じるんです。

 その心を書きたかったんですけど、小説で仏教用語を使うと途端に説教臭くなる。だから、弥一が人生を振り返るときには、なるべく簡単な言葉で書きました。

――歴史小説なので、これまでの宮本作品にはない戦争のシーンも描かれました。第二巻の、弥一が戦禍のなかで町衆らに畳を盾代わりにして身を守る方法を伝えていく場面はとても臨場感がありました。

宮本 蛤御門の変(長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して京都市中で起こした市街戦)を書いたわけですけど、当時は近代兵器が入ってきていますから、戦国時代より威力のある鉄砲だったと思うんです。実際に、禁裏(御所)の周辺の職人街では流れ弾で亡くなった人も多かったようですし。畳を盾にするという話はフィクションで、これは僕が親父から聞いた話です。

「布団ではダメ。畳なら弾を防げる」と。それをふと思い出したので、取り入れました。

――第一巻に、弥一が25歳のときに樹齢千年にもなろうかという楠木の大木の根元に佇んだ際の描写があります。弥一には「一生涯見ていてあげる。安心していなさい」という木の声が聞こえる。彼はその言葉を糧に生きていくわけですが、これは何かモデルとなった話があるんですか。

宮本 僕自身が30歳のときの体験ですね。人生の師匠とお会いした際に目が合った瞬間、「一生涯見ていてあげます。安心していなさい」と言われたんです。両親にも言われたことがない言葉だったので、深く心に残りました。

 ただ、人間はなかなか安心ができない。何か起きるとすぐ心配になる。そのたびに自分の小ささを実感します。その方の言葉を信じることができるかどうかは、僕の人間としてのテーマなんです。『潮音』を書いているときも心配がありました。

 連載中、肺がんの手術を受けたのですが、その言葉を思い出しましたね。そのときは、死ぬときは死ぬ。それがどうした。安心しろって言われたんだから安心していればいいと、自分に言い聞かせました。

――『三十光年の星たち』(新潮社)のあとがきに書かれていた次の一文を思い出しました。「三十年という歳月は、ひとりの人間に、じつにさまざまな誘惑と労苦を与えつづけるのだ。だからこそ、三十年前、ある人は私の作家としてのこれからの決意を聞くなり、お前の決意をどう信じろというのか。三十年後の姿を見せろ、と言ってくれたのだ」。

宮本 それも人生の師匠から言われた言葉です。『三十光年の星たち』は新聞で連載した小説なんですが、新聞小説は過酷です。他の連載もあり、自分の体がもたないと思ったので、連載をお断りしようとしていました。そのときに聞こえてくるんですね。「書けないだと? それでも小説家か? 三十年後の姿がそのざまか?」と。その声のお陰で書き始めることができました。

 三十年頑張れば必ずものになります。十年では足りない。二十年くらいが一番しんどい。若いときには分からないんです。だから、そのことを教えてくれる師匠の存在が大切なんだと思います。

新聞連載はもう二度とやりたくない

――新聞連載といえば、宮本さんには創価学会の池田大作第三代会長の聖教新聞紙上での連載小説『新・人間革命』が完結した後に、同紙にコメントを寄せていただきました。宮本さん自身は新聞連載を10度も経験なさっています。改めて、新聞連載の難しさについてお聞かせください。

宮本 一日も落とせませんからね。それは大変ですよ。真面目な作家は数カ月分とか、半年分とかを書き溜めてから始めるんです。吉村昭さんなんかはすべて書き終えてから連載を始めたらしいです。本人はこんなふうに言っていました。

「いや、僕は気が小さくてね。締切があると書けないから、新聞連載をするときは全部書いてからにするの」って。僕なんて、連載開始まであと1週間しかないという依頼を受けたこともあるんですよ。

 いまでこそ新聞を購読する人が減りましたけど、昔は新聞社から連載小説を頼まれるというのが作家のステータスだったんです。その分、プレッシャーは大きい。身体の調子が悪い日も、飲み過ぎる日もありますから。仮に1カ月分書き溜めてから始めても、段々と"貯金"が減ってくるんです。気がついたら残り3日分の貯金しかなくて、発狂しそうになったこともありました。

 それを池田先生は20年以上も続けられた。持続力・忍耐力・生命力など、すべてにおいて言語を絶する仕事です。人間業ではない。僕は、新聞連載はもう二度とやりたくないですね。

舞鶴湾が舞台の美しい小説

――昨年6月からは文芸誌『新潮』で「湾」という小説の連載を始められました。京都の舞鶴湾が舞台の小説ですね。

宮本 舞鶴に行ったときに展望台がありましてね。すごく天気がいい日で、何気なく上ってみたんです。あまりの景色の美しさに、本当に茫然と見入ってしまいまして。ただそれだけです。この景色を小説にしたいと思ったんです。

 ちょうど一緒に行っていたのが『新潮』の編集者でした。僕が「『湾』ってタイトルで小説書くわ」と言うと、ただ「ありがとうございます」と。どんな小説になるか、内容を聞いてこないんです。「先生はこの美しい舞鶴湾をご覧になって、小説の内容が浮かんだんでしょう?」と信頼してくれているんですけど、「いや、浮かんだのはタイトルだけ」と。(笑)

 でも、その編集者は「それがいいじゃないですか。題しか浮かんでないのに始めるって、それは冒険ですね」と言うわけです。いまは冒険って言って楽しめるけど、あとで大変なことになるぞと思ったんですが。

 ただ、いざやるとなると「すぐにスタートしましょう」なんて言うんです。どうやら編集部の都合で創刊記念の特大号から始めてもらわないと困ると。仕方がないのでなんとか始めまして、ついこないだ13回目の原稿を渡したところです。

 また長くなりそうで、でもさすがに「湾」だけで3000枚は誰も読まないでしょ(笑)?

 舞鶴湾が舞台の美しい小説です。読んでもらえたら嬉しいですね。

 

本文ここまで

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『潮音』(全4巻)
あらすじ
幕末の越中富山に生まれた川上弥一は、藩を挙げての産業である売薬業に身を投じる。やがて薩摩藩を担当する行商人となった弥一は、薬売りと薩摩藩をつなぐ「密約」に気づき始める──。黒船来航から明治維新・西南戦争へといたる激動の日本を舞台にした、著者初の大河歴史小説。
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作家
宮本 輝(みやもと・てる)
1947年兵庫県生まれ。広告代理店勤務等を経て、77年「泥の河」で太宰治賞、翌78年に「螢川」で芥川賞を受賞。『道頓堀川』『錦繍』『青が散る』『春の夢』『優駿』(吉川英治文学賞)、『約束の冬』(芸術選奨文部科学大臣賞)『骸骨ビルの庭』(司馬遼太郎賞)『流転の海』(全九部、毎日芸術賞)など著書多数。