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声なき声を聴き、政治の光を届けたい

約10年間の弁護士時代。徹底して依頼人の側に立ち、さまざまな問題を解決することに努めてきた。しかし、今ある法律では救えないこともあった。そこで法律をつくる立場になって、より多くの人生を支えていこうと政治の道に進んだ。そんな国重さんの母や父への、そして代議士としての熱い思い――。
(『パンプキン』2023年10月号より転載。取材・文=鳥飼新市 人物撮影=雨宮 薫)
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政策実現力こそ、議員の存在理由

 津波や洪水などの避難場所として、国道や高速道路の高架区間の活用が進んでいる。新たな工事の必要もなく、防災上の効果も高いと注目されているのである。この方式の生みの親と言うべき人物が、 大阪5区(此花区、西淀川区、淀川区、東淀川区)選出の衆議院議員・国重とおるさんだ。
「大阪湾に面する此花区には海抜0メートル地帯があり避難場所の確保が急務でした」

 高い建物が限られている此花区。区役所が着目したのは、区内を走る国道43号線の高架部分だった。だが、なかなか話が進まない。国重さんは地元議員と連携し国との交渉を続け、緊急避難場所としての指定を勝ち取った。
「この〝此花モデル〟は、他の地域でも応用できます。全国展開を訴えた結果、今では約1000か所にまで拡大しました」

 弁護士出身の国重さんは、弁護士時代、依頼人の話を親身になって聴いてきた。代議士になってからは、有権者の話を徹底して聴いている。
「私は政権与党の衆議院議員ですが、党派を超えてより多くの皆さんのお声を聴こうと心がけています。要望も、批判も、お叱りの声もすべて受け止めて、それを形にしていくことが代議士の務めだと思うんです」

 先生と呼ばれると、決まって「さん、でいいですよ」と言う。実にフレンドリーなのだ。勉強家で行動力もある。たとえば防災。体系的に学び、より効果的な政策を打てるようにしたいと、防災士の資格も取った。
「政権与党のなかでも、私はさまざまな要職をさせていただいています。地元の議員との連携も強い。なら、私が大阪5区では政策実現力ナンバーワンにならなければという思いでずっとやってきました」

 議員の存在理由は、まさに政策実現力にこそある、ということだ。

 母の力強い祈りに支えられて

 国重さんは、3人きょうだいの長男である。北区で生まれ、大阪でもディープな下町風情が残る生野区で育った。家は製麺業。3人そろって、子どものころから家業を手伝ったという。
「けっこう子どもでもやれる仕事があるんです。30分手伝えば50円。1時間なら100円。年越し蕎麦が売れる年末が繁忙期で、このときの働きがお年玉に響くんです」
 休みは盆と正月だけ。みんなで家族旅行に出かけた。家業を真ん中にして、ひとつになっている。そんな仲のいい家族である。

 とにかく人の出入りの多い、賑やかな家だった。地域の青年やおじさん、おばさんがひっきりなしに来る。近所の子どもも集まる。夏はビニールプールを出して、よく子ども同士で水遊びをした。母の礼子さんは、いつもきな粉おにぎりなどを振る舞ってくれた。

 家の仕事が忙しく、なかなか子どもに目が届かない。そこで礼子さんが考えたのが、登校前の朝食の時間の活用だった。日付ごとに名言が並ぶ子ども向けの書籍を使い、ご飯を食べる前に、その日の言葉を子どもたちに順番に朗読させた。
「母はときに厳しいことを言うこともありましたが、私たちに曲がったことはさせない、まっすぐな人になってほしい、という強い思いからの言葉だったのだと今は感じています」

 礼子さんは、いつも子どもたちを「宝物」と言って育ててくれた。その気持ちの深さを知ったのは、妹の和恵さんが突然の発作で亡くなったときだという。まだ17歳だった。
「いつも明るい母が、憔悴しきって、人はこんなにも悲しい声を出せるのかという声で泣くんです。その姿を今でも忘れることはできません。思えば、母は、どんなときもしんしんと祈ってくれていました。その力強い祈りに父も、私たちも支えられていたんだなと思います」

父の正義感、強さを受け継いで

 父の彰さんは、温厚な面とエネルギッシュな面を併せ持った人物だったという。物事に対する考えも深かったのだろう。
「正義感が強いというのか、筋が通らないことや権力や権威を盾にした横暴な言動などには怒りをあらわにしていましたね」
その血は国重さんも確実に受け継いでいるようで、「けっこう熱血弁護士だったんですよ」と本人が言うほどである。

 国重さんは教師になりたかったそうだ。なのに、どうして司法試験を受けたのだろうか。
「小学校から一貫教育を受けさせてもらい、受験の苦労を知らずに育ってきたので、その苦労をしないと学校の先生になったときに子どもたちに共感できない、そう思ったんです。それで、当時合格率2%といわれていた最難関の司法試験に挑戦したんです」

 何年か苦節の日々を経験した。父と散歩に出たとき、彰さんが「自分を絶対に卑下したらあかん。 試験に落ちて卑下するくらいなら試験なんかやめたほうがいい」と言った。
「これ以上、心配をかけられない。がんばらなあかん、と心から思いました」

 彰さんは、進行性の末期がんを患っていた。司法試験に合格すると、父は人生の師に報告ができると喜んだ。1か月後、安心したのか、安らかに息を引き取ったという。その翌日は二男のボクシングの試合だった。見事に勝利し、新人王に輝いた。そう、国重さんの弟は、元プロボクサーの国重隆さんである。

「父は強い男でした。けっして弱音を吐くことはありませんでした。 がんも余命半年と宣言されてから、5年も寿命を延ばしたんです」
 彰さんはずっと『斗争(とうそう)日誌』という闘病記録を書き続けていた。そこには、病気に打ち勝つ決意の言葉が書き連ねられていたという。

有権者と共に安心の未来図を描きたい

 教師を目指していた国重さんが弁護士になったのは、「弁護士になっても子どもに関われることはたくさんある。教師になるなら、そういう経験を積んでからでも遅くないのでは」という先輩の言葉が腹落ちしたからだと話す。

 実際に弁護士の仕事を始めてみると、大きなやりがいと充実感をもつようになった。
「世界中のだれが敵になったとしても、僕だけは依頼人の味方でいる。このことを自分の原則にしたんです。 本当にガンガンやりました」

 拘置所での依頼人の人権を守るために検察にもかけ合ったし、警察署にも乗り込んだ。
 99.9%は有罪になるといわれている日本の刑事事件で、無罪を勝ち取ったこともある。裁判に勝つことだけではなく、5年後、10年後を見据えて、示談や和解など依頼人にとってよりよい解決方法を模索し、提案することも忘れなかった。

 帰りは深夜になることもしばしば。そんな夫を、同じ弁護士の妻・ いづみさんが支えてくれた。
 国重さんは、長女(3)、長男(3)2児の父である。弁護士時代、朝、長女を保育園に連れて行くこと、そして家の掃除をすることが、国重さんの役割だったそうだ。

「それでも家事・育児の7割くらいは妻がやってくれていました。本当に妻には感謝しかありません。もし、子どもたちに人気投票をしてもらったら、妻は当選確実でしょう()
 議員になった今も、家を支えるのは妻だ。「地元回りで外出が続いたり、夜遅くまで仕事をしたりする私を、文句も言わず見守ってくれています。ありがたいです」

 12年の衆議院選挙に初当選し、410年になる。衆院選に出馬したのは、弁護士時代に今ある法律では救えない人たちがいることを痛感していたからだという。
「法律をつくる側になり、多くの人たちの武器になる法律をつくりたいと思ったんです」

 政治信条は、政治の光をいちばん必要としている人たちにその光を届けていく、ということだ。そのために、常に軸足を声なき声に耳を傾けることに置いている。
 たとえば不妊治療の保険適用。年金を受け取るために必要な加入期間を25年から10年に短縮したのも、そんな姿勢から生まれたものだ。

 もちろん、地元への思いも深い。
「大阪5区は昔ながらの下町と大阪の未来性の両方をもつ、やりがいのある地域です」
 大阪の玄関口・新大阪駅も、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンもあれば、万博会場の夢州(ゆめしま)もある。
 この地域で、有権者と共に安心の未来図を描いていく。 国重さんの決意は固い。

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衆議院議員
国重とおる(くにしげ・とおる)
1974年1123日、3人きょうだいの長男として大阪市北区で生まれる。その後、生野区に移り、そこで育つ。父が製麺業を営んでいた。小学校6年生から剣道を始め、中学・高校と打ち込んだ。司法試験合格後は弁護士として活躍。大阪弁護士会の「子どもの権利委員会」に所属し、部会長も務めた。いじめの問題や不登校、児童虐待などの解決に尽力する。2012年、衆議院選挙に大阪5区から出馬。初当選。410年目になる。妻も弁護士で、2児の父。剣道2段。