動画全盛のいま、社会学者・西田亮介と国際政治学者・三浦瑠麗が「論壇」の役割を再検証。活字の現在地、ギスギスしたネット言論を越え、若手や女性も参加できる知的舞台の再設計とアーカイブの価値を語り合う。活字優位の効率や記憶定着を訴えつつ、動画への橋渡しと編集者の役割も提案。
(月刊『潮』2025年7月号より転載)
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論壇の華やかなりし時代
三浦 編集部から、創刊65周年の節目に「岐路に立つ論壇誌がこれから担うべき役割について対談を」とのことですが、西田さんの論壇デビューはどこの雑誌だったんですか。
西田 東浩紀(あずまひろき)さんら主宰の『思想地図』を経て、『中央公論』です。
三浦 王道ですね。どんな経緯だったんですか。
西田 そもそも宮台真司先生に私淑して、一回り上の兄貴分に東浩紀さんや鈴木謙介さんが。大学院時代から論壇のスターたちが身近にいたことになります。
直接のきっかけは2000年代半ばに東浩紀さんらが編集を務めた思想誌『思想地図』の若手を発掘する企画で選考に残りました。その後、『中央公論』の編集者から連絡をいただいたんです。ただ、今思えば当時書いたものは商業的には箸にも棒にもかからない文章で、当時の編集者から鬼のように赤字が入って何度も原稿のやり取りをしたことを覚えています。
三浦 なるほど。東さんというアカデミアでは異色の方が発掘プロセスに関わり、デビューは王道の『中央公論』。当時はそういう登竜門が存在したということですね。
西田 今から約20年前ですが、まだ活字の力が強くて論壇のスターとそれを支える媒体、編集者が存在感を発揮していた華やかなりし時代でしたね。著名な書き手の大学教員の研究室には編集者も出入りしていて様々な交流がありました。ネットもありましたけどまだまだサブカル的で、言論活動の表舞台は論壇という空気でした。
三浦 私は論壇誌では2014年に『文藝春秋SPECIAL』で書いたのが最初でした。季刊誌で紙面にゆとりもあり、5、6000字の記事を書かせてもらえていた。そこで言論人として育てていただいた感覚はあります。世間に向けた言論活動という意味では同年に「山猫日記」というブログを始めたのが先でしたが、そのすぐ後に、博士論文を基にした『シビリアンの戦争』を読んだ編集者の方に声をかけていただいて。
西田さんは周囲に論壇のスターがいらっしゃったわけですけど、当時の私は博論漬けの日々でいわゆる論壇からは遠い位置にいました。私が在籍していた大学院では、若手はアカデミアに徹したほうがいいという風潮があったんです。
西田 では、なぜアカデミアの外へ出ていくことにしたのですか。
三浦 最初に雑誌に書いた翌年の15年にはイスラム国のテロをきっかけにテレビの番組に出演するようになって、同年頃からイギリスではブレグジット(EU離脱)騒動が、翌16年にはアメリカでトランプ現象が起こり現実の政治や国際関係が大きく動きました。従来であれば長期スパンで考えていたものが今動いている現実とつながっている――その感覚を面白く感じました。
もちろん博論でもイラク戦争など最近の事象もカバーしていましたが、そうした研究のペースを現実の国際政治があっさりと追い越す事態を目の当たりにしたことが大きかったような気がします。
幅広い知見が往来する稀有な領域
西田 ぼくも長い間、大学で研究することとメディアで論壇活動をすることを、自分のなかでうまく折り合いがつけられませんでした。ようやく整理がついたのはここ数年で、最近は"日大の日本一身近な大学教授"を自称しています。(笑)
三浦 その辺りはアカデミアと論壇の双方で活動していないと分からない葛藤ですよね。
西田 そう。大学にいると、驚くほど論壇での活動は評価されませんからね。
三浦 趣味だと思われている。
西田「悪目立ちしやがって」とかそういった冷ややかな視線を今でもひしひしと感じますよ。
三浦 私の場合は折り合いをつけるのは早かったですね。自分はずっとアカデミアの世界にいるタイプではないと思っていたので。
西田 それはもしかして感性が文学的という意味でしょうか?
三浦 そうかもしれません。人文的なアプローチも用いながら人や世界を理解するので。トランプ大統領についても一人の人間として捉えるなかで意図が見えてくるところもあります。
アカデミアとは違って論壇や文壇って、世界や人間を把握する際に幅広い人の知見が往来する稀有な領域だと思います。論壇に入って、かつては出会えるはずがなかった人たちと交流できたことはよかったと思っています。
ただ、私は"論破"という文化がすごく嫌で、討論番組などで見られる言葉で取っ組み合いをするような論壇の所作に未だになじめないんですよね。日本の論壇がマスキュリン(男性的)すぎることは指摘したいと思います。
西田 特に若手の研究者ほど大学やアカデミアでの評価に敏感にならざるをえないですからね。その重圧や縛りのなかで、ここにいると自分がやりたいことができないと思う気持ちはよく分かります。
ぼくの場合は、大学が求める学会発表や教歴、職階などをゲーム的に捉えてとりあえず一通りこなしました。もう大学教員としての実績をだいたい揃えたので、そろそろ好きなことをやらせてもらいましょう、と。
大学やアカデミアといっても、時代状況に即した今日的なものです。例えば、最近は「とにかく論文は英語で書く」という風潮がありますが、それが長期的に見て、正しいのかは正直分かりません。「ローカルな知識人」は多くの国に存在します。今ある程度自由が利く立場になって、別に今の大学やアカデミアの在り方に無理に合わせなくていいんじゃないか――そう考えるなかで先の"日本一身近な大学教授"という目標に思い至りました。
誰かに届いて初めて機能する
三浦 流行としての英語の論文という話が出ましたが、小説家の水村美苗さんも『日本語が亡びるとき』という著作で、書き言葉としての日本語が残らなくなる未来に警鐘を鳴らしています。英語の標準言語化のみならず、即席のネット記事や生成AIの台頭で文章の価値が揺らぐ時代になりましたが、私も手間暇かけて作られた日本語の文章をいかに残していくかは非常に重要な問題だと思います。
『文藝春秋』は今、過去の記事をデジタルで閲覧できるようになっていますし、近年のニューヨーク・タイムズが好調なのもアーカイブの使いやすさに依るところが大きい。これからの活字メディアにとって、アーカイブがビジネス的にも社会的にも重要な機能になっていくでしょう。
西田 ぼくは圧倒的に活字派なので、動画を見るのは仕事の必要に迫られたときと趣味関連のものくらいです。ただ、言論人、知識人の役割は、専門を超えて多くの人たちに向けて語り掛けることでもありますよね。媒体も同じですが、今必要なのは誰かに届いて初めて機能するという視点です。
ぼく自身は活字が好きで、活字は効率がいいとさえ思っています。むしろ動画は効率が悪い。どこに何が書いてあるか分からないし、冗長だし、言い間違いもあります。でも、多くの人がもう活字を読まず動画しか見ない時代に、論壇や知識人の役割を果たそうとするなら動画にシフトするしかないと思います。
三浦 届くのであれば活字でもいいけど、もはや届かないってことですよね。でも、動画や音声で見聞きしたことって、すっと入ってくる分、あまり記憶に残らない。一夜漬けの勉強に似ています。
西田 あと、ご指摘されたアーカイブの観点で言うと、動画のアーカイブは量が多すぎて、そのうち検索できなくなると思います。活字は国立国会図書館をはじめとするライブラリーが豊富なので後代の人たちが参照しやすい面がありますね。
三浦 加えて、動画は論者の言葉のみならず表情や息遣い、間合いなど色んな要素を含めた情報として視聴者は受け取ります。
西田 表情や声、それから振る舞いなどの印象が過剰に残る側面があります。動画コンテンツは演技や演出の要素も孕むので、論者が思っていることと振る舞いは必ずしも一致しないですよね。
三浦 それはちょっと分からない(笑)。私はテレビでも素の自分で出ているつもりなので。ただ、テロップやカメラワークなど人の手が加わることで、自分が思ってもいなかった印象を視聴者に与えてしまうのは分かります。
西田 ぼくは相手や設定、文脈に合わせて、声のトーンを含めスイッチを切り替えています。なので自分の素の振る舞いの意味が何なのかよく分からなくなるときもあります(笑)。動画で怒鳴っていたとしても、別に本気で怒っているわけではありません。
三浦 その辺のプロレス的な見せ方は「ReHacQ」などが象徴的ですが、明らかに男性視聴者のニーズに応えていますよね。でもそれってまさに先述のように私が論壇のなかで嫌だと感じた部分です。
論壇は"舞台"であり"芸"
西田「火事と喧嘩は江戸の華」と言いますが、今のユーチューブの言論空間はまさにそれ。しかも結構本気で喧嘩していたりします。かつての論壇の論争やテレビの討論番組での「激論」は知的プロレス的な側面もありつつ、とはいえ編集者が飲みながら仲を取り持ったり、楽屋で手打ちしていました。
三浦 意見が違う人と杯を交わしながら数時間話すのって大事ですよね。むしろ、今のネットに一番欠けているものはその点かもしれませんね。すごくギスギスしているのが見ていて分かるし、あまり関わりたくないというか。
西田 ぼくは動画の仕事をしていて、むしろギスギス界での手応えを感じました。(笑)
三浦 西田さんだから「ReHacQ」の司会が務まるんだと思います。
西田 同時に、こういう状況だから、ぼくたちよりも若い世代が言論活動に入ってこないことも感じます。ぼくたちの頃は若手研究者の間で論壇で活動してもいいかなという空気がまだありましたが、今の言論空間はギスギスしてるし炎上リスクも重たくなっている。それなら大学で研究をしていたほうがいいとなりますよ。論壇に魅力がなくなってしまった。魅力がないところには華もありません。
三浦 若い人もそうですし、女性の論客も未だ少ない。論壇の無駄に昭和的だったりマスキュリンすぎる点を変えていかなければ、女性が議論に入りづらい状況は変わりません。
西田 そうですね。従来の論壇文化が失われつつあり、そして論壇とネットの言論空間は似て非なるものです。論壇は「壇」という字がつくだけあって言論人や編集者、そして横のつながりで成り立つ"舞台"であり"芸"ですが、文脈共有が難しくなりました。
三浦 動画での言論活動は個人でも成立しますからね。私も自分でユーチューブチャンネルを始めましたが、自分の中学生の娘にもなるべく分かるように解説することを意識しています。バズることを否定するわけではないのですが、動画も色々なアプローチがあっていいと思うんです。視聴者数のみを追い求めるのであれば、極論、性的なものだったり動物の癒やし動画みたいなものしか残らないことになってしまいます。
だから、各々がよいと思うコンテンツを提供する視点も維持していくべきではないかと。これは動画だけでなくどの媒体にも言えることですが。
生活者の実感は中道の重要な要素
西田 昨年亡くなった福田和也さんは没後再評価の波が起きましたが、改めてかつて論壇で輝いた雑食系知識人の存在は重要です。論壇にしかできない言説というのは、実は高尚なオピニオンよりも皆で飲み食いしながら思いついた四方山話をアレコレ語り合ったりすることで、知的で楽しげな姿を見せることではないでしょうか。
三浦 放言も相当交じるんじゃないですか。今の時代、すぐにキャンセルされてしまうかも。
西田 だから編集者が大事なんです。泥酔して訳の分からないことを言い出したらすかさず止めたり、ピー音を入れたり。真面目な話、かつての論壇の名企画は放談と思いきや絶妙にディレクションされていましたよね。そういう編集の役割は動画の時代も変わりません。
論壇がこの先も続けられるとすれば、もはや紙ではありえないでしょう。論壇は専門の垣根を越えて、エビデンス(証拠)がないことや直感なんかも含めた幅広い意見を戦わせたり、主張したりする場ですよね。だったら紙でなくてもいい。『潮』も動画に力を入れたほうがいいと思いますよ。
三浦 私は西田さんほど紙がなくなるとは思っていませんが、コストや人員に対して現実的な折り合いは必要だと思いますね。
日本のマスメディアの現状について、フジテレビ問題などを見ていてつくづく思うのは、自分たちはマスメディアなんだという自信だけを未だに大事に抱えたまま途方にくれているように思います。だから、自分たちが批判されるとものすごくうろたえてしまう。そういう姿を見ていると、日本のマスメディアが掲げてきた報道の中立性とか中道というものが、単に他人を偉えらそうに批判できる立場にいたからできたことだったり、お茶の間のゆるい総意程度のものでしかなかったのかと残念な気持ちになります。
西田 ぼくはマスメディアのそうした虚構性が相対化されたことはネット時代のよい面だと考えます。報道に限らず、音楽でも映画でも時代や国を超えて個々人が好きなものに触れればよいという寛容性は、息苦しいこの社会を自由にした側面があるはずです。
三浦 マスメディアは"自分たちはマスである"という変な気負いを捨てて、雑誌であれば現在の読者層を大切にすることに立ち返っていってほしい。私も長く『潮』で連載を持っていますが、たまに「『潮』の連載読んでます」と声をかけられます。その瞬間、執筆者としての緊張感が戻ってくるんです。どういう人たちを読み手にしているのだろうかと日々見つめることが大事になってくるのではないでしょうか。
最後に、『潮』編集部が掲げている中道について触れると、今は政治的中道とは何を指すのかが極めて難しい時代です。ただ、そうしたなかにあって生活者の実感という目線は中道を構成する重要な要素であることは言えると思います。日本でもポピュリズムの流れがついに現れてきましたが、世論におもねりすぎず「当たり前のことを当たり前に言う」ということも大切にしていってほしいと願います。
西田 ぼくはともすれば少数意見や奇天烈なことを言いたい誘惑に駆られるので耳が痛いですね(笑)。論壇や論壇誌を通してアカデミズムに囚われない幅広い知を提供することは、社会を豊かにすることに貢献するはずです。繰り返しますが、論壇は"芸"なんです。単純に面白かったとか、笑えたとか、そういう読後感も実はすごく大事です。『潮』にはそうした観点からぜひ頑張っていただいて、70周年、75周年と刻んでいただくとともに、その折にまた、ぼくたちが記念特集で呼んでもらえるように頑張りましょう。(笑)
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社会学者/日本大学危機管理学部教授
西田亮介(にしだ・りょうすけ)
1983年京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。同後期博士課程単位取得退学。博士(政策・メディア)。専門は公共政策の社会学。近著に『日本再生の道』(石丸伸二氏との共著)。
国際政治学者
三浦瑠麗(みうら・るり)
1980年神奈川県生まれ。東京大学農学部卒業。東大公共政策大学院修了。東大大学院法学政治学研究科修了。博士(法学)。山猫総合研究所代表。近著に『ひとりになること』。