2026年2月総選挙は「時代を画する結果」となった。だがその意味を知る人は少ない。1月の“解散風”のさなか、「中道改革連合」が結党し、政局は急変した。なぜ“中道”が誕生したのか。1994年、平成初期の政局動乱、非自民連立、新進党の記憶――。創価学会の平成史を掘り起こすことで、令和の激震の正体が見えてくる。評論家・與那覇潤さんによる連載「平成の回廊――創価学会と日本社会」の第2回原稿。
(月刊『潮』2026年4月号より転載)
約30年前の歴史との符合
誰もが知るとおり、2026年2月の総選挙は時代を画する結果となった。だがその意味を知る人は、あまりにも少ない。
ふり返ろう。すでに解散風の強まる1月14日の昼、信濃町の中華「はくぶん」で広東麺を食べていた。前年末から同日に約束していた、インタビュー用のメモを見ながらだ。
取材の前にこの店に寄ったのには、理由がある。しかしまさかの歴史との符合が、直後に襲うとは思いもしなかった。
同じ日の晩、「公明党が立憲民主党と合併か」との速報がメディアに踊る。翌15日の夕方には、総選挙に臨む「衆院議員のみ」での新党の設立に、公明の斉藤鉄夫・立憲の野田佳彦の両代表が合意。夜にはふたりそろってTVの生放送を回り、16日に党名「中道改革連合」が発表された。
奇縁に驚くばかりだが、30年以上前の1994年9月14日の夜、「はくぶん」で交わされたこんな会話が記事になったことがある。
「新・新党の結成は学会次第でしょうが、そう甘くはないですよ。
これからは、各地域に選挙対策協議会というものを作って、独自に判断、支援していく人を決める。もう動き始めてますよ。
それは人物本位ということ。まあ、自民党の人でもOKということにしてあります。もちろん、公明党から出てる人は全部応援しますよ 」(『FOCUS』94年10月5日号)
発言の主は、創価学会名誉会長の池田大作。「絶対にその内容を表に出さない」という条件で開かれた、新聞各社とNHKに囲まれる懇談会の中身を「スッパ抜く」と銘打ち、写真週刊誌が報じた。池田のほか当時の秋谷栄之助会長や、副会長3名が出席し、アルコールも出て和やかに進んだとある。
「はくぶん」の写真も添えられ、大きなガラス窓の1階のレイアウトは今と変わらない。街路から覗ける場所で話す内容ではないから、二階の宴会場での開催だろうが、こうした席でも料亭や高級ホテルは取らず、地元の町中華に招くあたりが「民衆」目線の池田らしい。
実はこの『FOCUS』のコピーを手に、前回(25年11月5日)の取材で、創価学会事務総長の谷川佳樹に当時のことを聞いていた。同誌によると、池田を囲む「オフレコ」の記者懇はそれまでもあったようだが――
「ええ、たしかにやっていました。ただこの場合、94年の秋というのがミソでしょう」
指摘のとおりで、3年半ほど開かれなかった会が、マスコミ側の要請で復活したとある。平成序盤の政変の中で、公明党を支える創価学会の動向に、メディアが釘づけの時代だった。
1年前の1993年8月、劇的な初の非自民連立政権として、日本新党が首班の細川護熙内閣が発足。公明党も国政で初の与党となり、4人の閣僚を出した。 94年の4月には、新生党の羽田孜が首相を継ぎ、公明の閣僚は6名におよぶ。ところが社会党の離脱により少数与党に転落し、わずか2カ月で崩壊。6月末には社会党の村山富市に自民党が首相を譲る形の「自社さ連立」が発足し、公明は野党に戻っていた。
池田の発言にいう「新・新党」とは、細川・羽田政権での旧連立与党が合同して、新たに大きな塊を作る構想のことだ。実際に、94年12月に「新進党」として結成される。野田佳彦と斉藤鉄夫は、この党で同僚だった。
動画やSNSを「素」と信じる危うさ
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