山形県はほのぼのと温かい「日本の顔」。(キャイ~ン・ウド鈴木さん)
2024/01/10山形県のコメ農家に生まれたウド鈴木さん。県内の高校を卒業後、上京して芸能活動を開始。天野ひろゆきさんとのお笑いコンビ「キャイ~ン」として、多くのテレビ番組等に出演してこられました。
そんなウド鈴木さんが、大好きな山形県の魅力を綴ります!
(月刊『潮』2024年1月号より転載)
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「この地域に生まれて本当に幸せなんですよ」
僕は庄内平野の米どころ、山形県東田川郡藤島町(現・鶴岡市 )で米農家の長男として生まれ育ちました。小学生時代、校長先生が朝礼でこんな話をしてくれたことを今でも印象深く覚えています。
「皆さんは山形県のこの地域に生まれて本当に幸せなんですよ。四季がはっきりしているから春夏秋冬それぞれの季節を楽しめて、季節ごとに美味しいものを食べられる。日本海も出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)も鳥海山(通称「庄内富士」)もあり、庄内平野も最上川も広がっています。海と山と川と平野が揃った恵まれた地形によって、米どころとして栄えてきました。こういう環境で生きられるのは、本当に幸せなことなんですよ」
子どもの頃は自分の住んでいる地域のことをそんなに意識してなかったんですが、大人になってから「ああ、あのとき校長先生が言ったとおりだ」と故郷の素晴らしさをしみじみと実感するようになりました。
春はポカポカと暖かくて、夏はグワーッと灼熱の暑さになるんですね。特に山形市は岐阜県多治見市や埼玉県熊谷市、高知県四万十市に最高気温の記録を抜かれるまで、日本一暑いことで有名だったんです。
暑い夏が終われば、旬の恵みをいただける秋の収穫期です。木々が美しく紅葉したあと、静けさの中でしんしんと雪が降り積もる冬が始まります。山に雪がたくさん降るおかげで、再び春になってから澄んだ雪解け水が流れ出し、庄内平野の田畑を潤してくれるわけです。
僕は仕事やプライベートで日本全国を訪れました。もちろん、それぞれの地域に良さがありますが、やっぱり山形ほど四季がはっきりしていて、ほのぼのと人を包みこんでくれる穏やかな地域はないんじゃないかなと思います。
僕は18歳で上京してしまったので、それまではほぼ自転車で行けるところまでしか行ったことがなかったんですね。たまに部活の県大会で山形市に出るくらいです。なので、今改めて故郷の良さを教えていただいたり、感じることが多いです。
芸能界にもビートきよし師匠や亡くなられたあき竹城さんをはじめ、山形県出身の方はたくさんいますが、皆さんそれぞれ生まれ育ったところをすごく大事にされていると思います。
山形県出身の方は芸能人もそうですが、皆さんほのぼのとしたユーモアのあるキャラクターの方が多い印象です。人と触れ合うのが大好きなのだと思うんです。控えめで人見知りなところもあるかもしれないですが、話せばすぐに打ち解けて触れ合いを楽しむ県民性があると思います。
山形には美味しいものがもりだくさん
自然に恵まれていることもあって、山形の人は美味しいものを食べるのも、お酒を飲むのも好きです。
山形には芋煮会という伝統行事があります。ルーツは諸説あるようですが、僕の感覚だと秋に作物の収穫を終えたあとに「今年も豊作で良かったね」と感謝し、お互いをねぎらい合いながら河原に集まり、みんなでお酒を飲みながら芋煮を味わっていたんじゃないかなと思うんです。
おもしろいことに、山形県民の間ではよく「芋煮論争」がなされます。僕が生まれ育った日本海側の庄内地方では、芋煮といえば豚肉を使った味噌味です。山形市など内陸地方の芋煮は、牛肉を使って醤油で味つけします。「庄内の芋煮のほうが好きだ」とか「内陸の芋煮のほうがうまい」と論争しながら、山形県民は芋煮を愛してきました。里芋やニンジン、ゴボウ、こんにゃくの旨味が混ざり合う芋煮を、皆さんも食べ比べてみてください。もちろん、どっちも美味しいです。(笑)
鶴岡では「だだちゃ豆」というブランド枝豆も作られています。「だだちゃ豆」の語源には諸説ありまして、江戸時代に献上された枝豆を食べた殿様が「これはうまい。どこのだだちゃが作ったものだ」と言ったのだとか。「だだちゃ」とは「お父さん」という意味の方言です。「こんなに美味しい豆は、まず家長(だだちゃ)に食べてもらおう」というのが語源だという説もあります。ほかの枝豆よりも風味が豊かな「だだちゃ豆」は、夏の山形の名産品です。
山形県はフルーツ王国でもあります。さくらんぼ、ラ・フランス、ブドウ、ナシ、リンゴ、桃、夏に採れるメロンも美味しいです。米どころだけに、美味しい日本酒を造る酒蔵もたくさんあります。
山形は漬物文化もすごいです。一口にナス漬けといっても、丸ナスもあれば長い形のナスもあり、「ナスの漬物だけでこんなに種類があるのか」とびっくりします。唐辛子の辛味が気持ちいい「ぺそら漬け」も有名です。山形県民は地元の作物を漬物にして保存し、冬におかずとして食べたり、お酒のおつまみにして楽しんできました。
庄内平野の西側には日本海が広がっているため、日本海から入ってくる海の幸の流通もすごいです。カキが旬の時期もあれば、鶴岡では紅えび(甘えび)もたくさん取れます。寒ダラをぶつ切りにして、ネギをいっぱい入れて味噌で煮込んで食べる、「どんがら汁」は冬の風物詩です。これがまたものすごく美味しい。寒ダラのお腹に入っている白子の旨味はたまりません。
ラーメン県そば王国・麺どころ山形の魅力
先日、山形県が特許庁に「ラーメン県そば王国」という商標を登録申請したそうです。実は山形県民は、ラーメンやそばなどの麺類が大好きなのです!
山形の街の食堂の多くは、ラーメンや中華そばのメニューがあるので、ラーメン屋さん以外でも、いろいろなところで、ラーメンを味わえます!
最近の出来事でも、2023年10月に東京で開かれた「日本ご当地ラーメン総選挙」というイベントで、山形県の「酒田のラーメン」が優勝しました。
夏が暑い山形県は「冷やしラーメン」発祥の地でもあります。温かいラーメンと同じ大きさの丼に冷たいスープと麺が盛られ、真夏でも涼しく爽やかにラーメンをすすれる、冷やしラーメンは山形の夏の風物詩です。
山形県内にはいくつか「そば街道」があり、そば通がうなる、美味しいそば屋さんがいろいろあります!
山形っておもしろい食文化で、米どころなんですけど、ラーメン、そばはもちろんほかの麺類もすごく食べるんですよ。
山形県中央部の村山地方では「ひっぱりうどん」という郷土料理も有名です。茹でたうどんを鍋から引っ張り上げて、サバの水煮の缶詰や納豆、ネギや大根おろしをトッピングして麺をすすります。缶詰はツナ缶でもいいと思います。お椀に麺つゆか醤油をちょっと垂らせば「ひっぱりうどん」の完成です。
ちなみに山形ではサバの水煮の缶詰の消費量がとても多く、スーパーで山積みされていてもどんどん売れていきます。
鶴岡では「麦きり」という郷土料理も有名です。麺には小麦粉を使っており、そうめんとうどんの中間ぐらいの太さの麺を、冷たいつゆでいただきます。「麦きり」専門店があるほど人気なのは、夏にものすごく暑い山形県だからかもしれません。
米作りに勤しむ両親の背中を見てきた幼少期
最初に言いましたが僕の実家は米農家です。「米」という字を分解すると「八十八」になります。全部で八十八もの工程を経て、手間と苦労をかけて作るから「米」だという説も聞いたことがあるんですが、うちの両親もその言葉通りに一生懸命、丁寧に米作りに勤しんでいました。
朝早くから夕方まで、1日に何回でも田んぼの様子を見に行くんです。それも田植えや稲刈りの時期に限らず、雨の日も風の日も。雨の降り方によって、田んぼに張られた水量を調整するので、いつも天気のことを気にしていましたね。
我が家は二人の姉と僕と弟の4人姉弟なんですが、昔は「米と僕たち子どもたちとどっちが大事なの!」とちょっと米に嫉妬していたくらいで(笑)。今となってはバカバカしい話ですけど、でもそのくらいに米作りに愛情を捧げる親の背中を見て僕たちは育ちました。小さい頃から僕たちはよく家業を手伝わされましたね。僕たちも手伝う代わりにお小遣いをもらえるよう交渉したりして、ちゃっかりしていました。
今は弟が父の跡を継いで鈴木農産企画を経営し、田んぼを愛でながら、イキイキとお米自体が喜ぶような、美味しい米作りに取り組んでいます。
父が名付けた「おやじの米」というブランド米のインターネットでの通信販売のほか、東京で実際に食べていただけるようにと、「すずのおむすび」というおむすび屋さんを令和元年に開店して、現在は、昼はおむすび屋さんで、夜は「和食すずなり」という豚しゃぶが食べられるお店という形態で頑張っております! 皆さんにぜひお立ち寄りいただけましたら幸いです!
お笑い芸人という夢を応援してくれた皆さんへの感謝
僕は長男で農業高校も卒業したので、父は僕が家業を継ぐことをとても期待していたはずです。でも僕はお笑い芸人になる夢を捨てきれなかったんですね。父の意に反して高校卒業後に東京へ出ました。
「お前みたいな者が芸能界に入っても、万に一つの可能性もない。希望者が星の数ほどいるなかで、お前がなれるわけがない」。父はそう言って大反対しました。
母は反対に「お前がやりたいことだったら、何でもいいから一生懸命頑張りなさい。体だけは大事にするようにね」と背中を押してくれましたね。父と母は結構対照的で、父はどちらかというと厳格だったんですが、母はいつも「お前はやればできるんだから」といって励ましてくれていました。
とはいえ上京してすぐに芸能事務所の門を叩いたわけではありません。山形県平田町(現・酒田市)に、平田牧場という会社の本社があるのですが、そこの社長(新田嘉一現会長)が高校のOBだったこともあり、平田牧場の芝浦営業所に就職して社会人生活がスタートしました。
当時から僕がお笑いの世界に入りたいという夢を持っていることを、平田牧場の皆さんや取引先の飲食店の方々も優しく受けとめてくださり、大変可愛がっていただきましたこと、この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございました。
当時暮らしていたのは都内の社員寮です。平田町から単身赴任で上京していた50代の寮長が、食事から何から寮のことを取りしきって面倒を見てくれました。
上京してから1年経った頃、僕は強烈なホームシックにかかってしまいます。「一度山形に帰ろう。父ちゃんに車を買ってもらって家の仕事でも手伝って、2年ぐらい経ったらもう1回東京に戻って芸能界に挑戦すればいいや」なんて、甘いことを考えていたのですが、そんな気持ちを打ち明けると、寮長がこう言うのです。
「任紀(ひでき/僕の本名です)、お前は芸人になりたくて東京に出てきたんだろう。だったら1回は挑戦したほうがいい。でないと30、40、50、60、70と年を重ねていきながら、死ぬまで『ああ、あのとき芸人に挑戦すれば良かった』と後悔し続けるぞ。とにかく1回挑戦してごらん。挑戦して駄目だったら、そのとき山形に帰ればいいじゃないか」
寮長の話を聴きながら、ハッと目が覚めた思いでした。もしあの時、寮長が私のことを思って、優しく説いてくださらなければ、私は山形に帰って両親に甘え、東京には2度と戻ってこなかったでしょう。今ここに自分がいるのは、夢を応援してくれた寮長はじめ、皆さんのおかげですね。本当に感謝しています。
全て天野くんのおかげですね
平田牧場さんで働きながら、1年間寮生活をしてお金を貯めた後、都内で1人暮らしを始めました。じゃあどこに住もうかというとき、五反田がいいなと思ったんです。
山手線の駅を最寄りにしたいとは元々思っていたんですが、よく知っていたのは新宿駅と東京駅で、その中間付近にある五反田駅がきっと山手線で一番盛り上がっているところなんじゃないかなと。(笑)
アパートを探そうと思って五反田の駅を降りて出たとき、偶然、今所属している浅井企画の看板が目に留まりました。(現在の浅井企画は、外に看板を出しておりません)
実はこの時、「芸能界に入る時は、まず一番最初に浅井企画を訪ねよう!」と思ったのです!
僕が子どもの頃、いつも見ていたオーディション番組「スター誕生!」の司会を欽ちゃん(萩本欽一さん)が務めていて、番組には当時の浅井企画の専務がスカウトマンとして映っていました。それもあって、浅井企画が萩本欽一さん、坂上二郎さん、関根勤さん、小堺一機さんといった錚々たる憧れのコメディアンの方々が所属する事務所だと、頭の中に記憶していたんです!
1人暮らしを始めた半年後に、平田牧場さんを退職させていただいて、アポイントなしの飛びこみで浅井企画の門を叩きました!
そして、山形の幼馴染の岡部くんとコンビを組みました! 残念ながら私がだらしないせいで、コンビを1年で解散することになり、その後、相方となる天野ひろゆきくんと出会って、91年に「キャイ~ン」を結成。おかげさまで2021年には結成30年を迎えることができました。
それも全て天野くんのおかげですね。山形県のような懐の深さが天野くんにはあると思います。
山形県は上から見ると左を向いている人の顔みたいな形なので、皆さんぜひ山形県を「日本の顔」というイメージで捉えてもらえたら嬉しいです! 勝手な見解で、申し訳ございません。
派手さはありませんが、山形には日本の良さがつまっています。山形県が名実ともに「日本の顔」になれるよう、食べ物や自然、歴史、人も含めて山形の色々な顔を見てもらいたいです。そして、もし良かったらぜひ山形を訪れていただけたら幸せだなと思います。
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漫才師
ウド鈴木(うど・すずき)
1970年、山形県東田川郡藤島町(現・鶴岡市)の米農家に生まれる。山形県立庄内農業高校卒業後、上京して芸能活動を開始。91年、天野ひろゆき(ツッコミ担当)と二人でお笑いコンビ「キャイ~ン」を結成(ボケ担当)。多くのテレビ番組に出演して人気を博す。