学会は強い風の中で育っていく〝芽〟 「現在、創価学会に対する風当たりが強いですが、私はもともと学会は強い風の中で育っていく〝芽〟であると思っていました」――1981年5月3日付の「聖教新聞」に、橋本忍が寄せた声である。「仕事柄、私は被写体として多くの人達の顔をみてきたつもりですが、池田名誉会長をはじめ私が今まで接してきた学会員の顔というのは風雪に耐え、創造に生きてきた〝いい顔〟をしています。それは、学会がうけている非難の風に簡単に負けてしまうような〝顔〟ではありませんね」「第一次宗門事件」によって、池田が第三代会長を辞任。それから2年が過ぎてなお、一部マスコミが中傷記事を流し続ける中での、池田と弟子たちへのエールだった。「私は、むしろ今の批判の風雨によって、学会員一人一人の芯の強さが増し、その強さを基盤にした学会は新しい広がりをもって興隆していくとみています。私は信仰の内面的なことはわかりません。が、こうした状況を迎えたとき、常に未来を志向して生きようとする信仰人が決して忘れてはならないことは、何のために自分は信仰を求めたのか――その動機の出発点だと思うのです。それさえ見失うことがなければ、学会が直面している問題も全部解決できるように思います。信仰の原点を忘れた人が、他の方向に引っ張られ、落ちていくのではないでしょうか」(P.146-147) 〝庶民の力を引き出し、蘇生させた創価学会〟 杉浦明平(すぎうら・みんぺい)は、記録文学の新境地を開いた小説家、評論家として知られる。この81年5月3日付の「聖教新聞」で、鼎談記事に登場し「学会の最大の業績は、社会の底辺にいる人達というか、庶民の力を引き出し、蘇生させたということです。じつは、それは私の大きな課題でもあったんです」と打ち明けた。 かつて学会員が「大きく自分を変える」姿を目の当たりにした。杉浦の家の近くに住んでいる女性が、夫を亡くした。もともと、人と話すのが苦手な人だったという。「……村でも孤立状態なんです。その人があちこちの家をたずねて、出歩くようになった。聞いてみると、学会に入って折伏に歩いているっていうんですよ。あの人がまともに話ができるのかって聞きましたら、じつに能弁だという。私のウチのあたりは、農村で、旧習も深いところですから、貧乏な人がものを言えば『満足に食えもしないくせに』っていうようなことを言われる。PTAや父母会でも、特定な人以外は何もいえない雰囲気がある。しかし、その中で堂々と自己主張し、父母会でも発言するようになったんです。驚きましたね。こういうことは、上からの押しつけなんかで出来るものではない。信仰という自発性でなくては出来ないと思いますね」 また、かつて日本共産党から離党した経験を踏まえて、次のように振り返っている。「戦後は社会変革に生きた時代があった。身体に障害があったり、病気や夫をなくして、経済的にも精神的にも苦しんでいる人がたくさんいる。その人達をなんとかしなければと、村に入って、援助をしたり、さまざまな運動をこころみました。中国の八路軍の在り方を、ひとつの模範にしましてね。しかし、だめなんです。まわりでいくらお膳立てし、金を与えても、結局、本人が自立できない。ところが、創価学会がそれをやってしまった。私は愛知県の渥美に住んでいるんですが、近くに、両親が盲目で、それこそ、宿命を一手に背負い込んだような一家がいた。暗く、沈うつな感じだったんですよ。その一家が、学会員になりまして、いつの間にか、明るい談笑の声が聞こえるようになった。変われば変わるもんだなと思いましたし、学会は大変なことを始めたもんだ、学会にしてやられたっていう感じもしましたね(笑い)」 この鼎談に臨んだ写真家の三木淳も、「学会の平和、文化運動も、社会的には、注目すべきすばらしいものがありますが、無名の庶民に、その活力を与えてきたという根っこの部分に、より私は着目もし、評価もしているんです」と語った(三木淳については潮ワイド文庫『「民音・富士美」の挑戦』で詳述)。(P.150-152) 人生に挑戦している勇者 「自由グループ」のリーダーとして尽力してきた渡辺憲二にとって、忘れられない池田の言葉がある。〈生の力――ハンディをもつ人は「障害者」というよりも「人生に挑戦している勇者」である〉(2003年6月15日付「聖教新聞」、池田のエッセー、以下同) それは、車椅子で弘教の道を広げた一人の女性と、池田の出会いから生まれた言葉だった。〈……私はモントリオールから、西のバンクーバーへと飛んだ。ここで、私は「人生の虹」に出会った。総会へ行くと、会場の一番後ろに、車椅子の婦人がいた。シックな服。50歳くらいだろうか。私は、まっすぐに近寄っていった〉 カナダSGIで主任副理事長などを歴任したハリー・ミヤザキは、その時、壇上にいた。「池田先生は前方から入場されたのですが、場内をご覧になるなり、中央突破でまっすぐ、最後列に座っておられたクニコ・ウエノさんのもとに行かれました。私たちは最初、何が起こっているかわかりませんでした。あの1993年のバンクーバー総会の12年前、先生はトロントを訪問されたのですが、その時、先生はクニコさんに『必ずバンクーバーに行くよ』と約束されていたのです」――会場の後ろで、歓声と拍手が起こった。その中心にクニコ・ウエノがいた。〈なんと晴れやかな笑顔だろう。生き抜いてきた光のなんと美しいことだろう。歩けなくとも、彼女の目は、心は、矢のように私のもとに飛んできた。ああ、前にトロントの空港で会った。みなと見送りに来てくれた日系の女性だ。元気そうだ。幸せそうだ。よかった。私は彼女に最敬礼した。「えらかったね。よく頑張ったね。みんなの模範だね」 クニコさんは大阪生まれで、10代で両親とともにカナダへ来た。バンクーバーで入会した。66年、ロサンゼルスに向かう途中、乗せてもらっていた車が事故を起こした。彼女は半身不随になった。24歳。独身だった。今も、1日に何時間かは横になっていなくてはならない。起きていられる時は車椅子に乗って、どんどん活動しているという。車椅子で乗れるタクシーもあるのだ。 彼女に励まされて立ち上がった人は数しれない。障害のある人のためのアパートに住んでいるが、内部は不自由なく暮らせるように設計してあると聞いて安心した〉(中略)〈生の力――ハンディをもつ人は「障害者」というよりも「人生に挑戦している勇者」である。いわんや仏法から見れば、不自由な姿であろうとも絶対に幸福になれることを人類に教えようと誓った「誓願者」であり「教師」とも言える。感謝しなければ。尊敬しなければ。そして学ばなければ!〉(P.160-162)