「人間のための復興」を貫く政治家の情熱と現場主義
2024/08/14既存の制度が役に立ちにくい災害対策では、現場に根差した議員力を発揮しなければならない。
阪神・淡路大震災、東日本大震災をはじめ幾度もの災害に議員として向き合い続けた赤羽一嘉さんが貫いてきた情熱と信念について伺った。
(月刊『潮』2024年9月号より転載)
自身も被災した阪神・淡路大震災
自然災害が激甚化・頻発化する日本では、災害対策は最優先ともいえる政治の大きな責任であることは言うまでもありません。その上で、日本の防災や災害復興の課題は、それぞれの地域の特性によって様々です。例えば、阪神・淡路大震災のような都市直下型地震と、能登半島地震のような高齢化が進んだ半島での大地震、さらには東日本大震災のような津波と原発事故による複合災害とでは、まったく被災状況や支援のあり方が異なるからです。
しかし、いかなる性質の災害においても政治家が貫くべきスピリット(精神)は、常に現場に入り、被災者に寄り添い、必要な支援策を「必ず実現する」執念です。このスピリット抜きに、人間のための防災や災害復興を前に進めることはできません。
私が衆議院議員に初当選後の1995年1月17日、阪神・淡路大震災によって、活断層の上にあった私の自宅マンションは、倒壊してしまうのではないかと思うくらいの激しい揺れに見舞われ、家の中はめちゃくちゃになりました。外に出てみると周囲の一軒家の多くが倒壊。倒れるはずのなかった阪神高速道路の橋脚の倒壊が私の自宅のすぐ南側で起きました。
発災直後に、妻と5歳の長男と3歳の長女を避難所に連れて行った後から、まさに不眠不休の日々が続き、1月26日の予算委員会の集中審議の質問に立つために、震災当日に自宅を出たままの服装で、なんとか新大阪まで出て新幹線に乗って東京に向かいました。心身共にクタクタでしたが、新幹線車中ではサイレンの音が耳鳴りのように響き続け、一睡もできない状況でした。
防災や災害復興に注力する原点の災害
阪神・淡路大震災は、関連死を含めた犠牲者は6434人、住宅被害は約64万棟という戦後最大規模の自然災害でした。しかし、当時の政府の対応は、まったくもってお粗末で他人事でした。私は、予算委員会の質疑の場で、あまりに無責任な村山政権の閣僚の面々の答弁に対し、怒りがこみ上げ、「これは天災ではない、人災だ!」と糾弾しました。わが国の防災・減災、災害復興対策を、公明党が先頭に立って、根本から見直さなければならないと決意したことが、私の政治家としての原点となっています。
私は数少ない被災地選出の議員として徹底的に被災現場をまわりました。その戦いの中で、あまりに酷い支援の実態にぶつかりました。被災者の方々は学校の体育館に雑魚寝させられ、プライバシーも守られず、まともなトイレすら使えない状況にありました。
また、仮設住宅は狭く、お隣との仕切りの壁は薄く、冷暖房も未設置――当時の災害救助法では、それが当然とされていました。しかし、私ども公明党は、憲法で謳われている基本的人権が守られていない避難者の状況は絶対におかしいと主張し、まずは仮設住宅への冷暖房の設置を実現したのです。
倒壊した家屋などの公費解体が実現したのも、阪神・淡路大震災がきっかけでした。当時の政府の考え方は、住家はあくまで個人の所有物であるのだから、瓦礫などの解体撤去はすべて所有者が行うのが当然としていました。しかし、大規模な災害で地域のほとんどの住宅が倒壊しているような場合にその平時のルールを運用してしまうと、10年経っても、20年経っても、街は元通りになるわけがありません。街の復興は、公共の責任であることを強く主張し、初めて個人の住居の公費解体・撤去を実現することができました。今では激甚災害の場合の公費解体は当たり前の支援策となり、元日に発生した能登半島地震においても、個人の住居のみならず納屋や車庫、事業所も公費解体の対象となっています。
被災者への現金支給による支援の実現にも大きなハードルがありました。当時の政府は、支援の財源が税金である以上は、使途が明確でなければならず、私有財産の形成につながるものは認めない、つまり自宅の再建のための現金支給による支援策は認めないとの厳然とした大原則がありました。
私は、この厚い壁を突破するため一計を案じ、「真面目に働き、税金を納め、家族を養う国民が被災した場合、国が、被災者に見舞金を出すのは当然ではないか?また、見舞金の使途を決めるのは非常識ではないか?」と主張し、使途を問わない渡し切りの支援金として、家屋が全壊した人には100万円の見舞金、家を建て直す場合にはさらに200万円の奨励金を支給する改正被災者生活再建支援法を成立させることができました。阪神・淡路大震災の教訓を生かしたこの法制によって、2004年に起きた新潟県中越地震や、2007年と本年の能登半島地震、東日本大震災では20万世帯を超える被災者に現金を支給することができたのです。
機能しなかった民主党政権
2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災地に私が足を運ぶことができたのは、発災から2週間ほど経った頃でした。青森県の三沢空港から入り、津波の被害に遭った岩手県宮古市を訪問しました。市長に尋ねられたのは、瓦礫の処理についてでした。「果たして国はやってくれるのか」と。
先述の通り阪神・淡路大震災を受けて公費解体ができる制度はでき上がっていました。当時は民主党政権でしたが私は不思議に思い、「政府からなんの連絡もないのですか」と尋ねました。すると、地震が起きてから一度も政府から連絡はなく、そのため住民らと同様に官房長官の会見をテレビで見て情報を得ているというのです。
私は東京に戻るなり、民主党政権がまったく機能していないことを、公明党の首脳部に伝えました。そして、公明党の議員に被災地の担当を割り振り、各自治体の首長とやり取りをする仕組みを構築したのです。この仕組みは、能登半島地震の際にも生かすことができました。
東日本大震災の被災地である福島県では、原発と津波によって特に海沿いの浜通りが甚大な被害を受けました。発災から1年9カ月後の2012年12月、民主党政権から自公政権に交代し、私は経済産業副大臣および第11代目の原子力災害現地対策本部長に就任しましたが、民主党政権下の1年9カ月間に原子力災害現地対策本部長が10人も変わっており、コロコロ変わる政府の現地対策本部長に対する被災地の信頼がゼロの状態からのスタートでした。
未曽有の原発事故により故郷を追われ、夢も希望も持てない被災者のみなさんに対して、何ができるのか自問自答の毎日でした。その時に、党創立者の「一番苦しんだ人が、一番幸せになる権利がある」とのご指導を胸に、福島県浜通り地域の再生をめざし、人類史上初のチャレンジとなる事故炉の廃炉を完遂するための国内外の叡智の結集や新産業の創出、もともとの生業でもある農林水産業の復活、原発災害医療や危機管理対策本部などを包含した夢と希望のプロジェクトとして「福島イノベーション・コースト構想」を提言しました。以後、国家予算も着実に計上し、同構想の推進機構も発足し、着々と展開しています。
能登半島地震で見えてきた課題
本年元日に発生した能登半島地震の被災地は高齢化率が非常に高く、支援の困難さが増しています。
例えば、上下水道の復活に大変時間を要している理由は、公設の配管の断水は解消されても、世帯主が高齢者の被災世帯では自宅の敷地内の配水管の修理まで手が回らないケースが大半であることです。また、要介護の避難者の数も多く、避難先で介護施設に入居できないため、急きょ1.5次避難所を設営するなど大変な状況が続いています。高齢化が進んでいるのは能登半島だけではありませんので、これは今後の防災・災害復興の大きな課題です。公明党が主張しているように、災害救助法の中に「福祉」の観点を取り入れた支援を法定化すべきと考えます。
高齢者や障害者といった避難行動要支援者の方々の避難先の把握も、大きな課題です。避難所に避難をされた方々や、仮設住宅に入居された方々は把握できるものの、自宅や親戚などの家で避難生活を送っている全ての被災者を、行政が掌握するのはなかなか大変です。平時から、地方自治体が、災害弱者の方々に関するデータを掌握していくことが大事です。
冒頭にも述べた通り、災害の種類や規模、地域によって、防災や災害復興の課題は、それぞれ異なります。その違いを前提として、共通する大切なことを挙げるとすれば、「自助」「共助」「公助」の充実に尽きると私は考えています。
「公助」においては、なんと言っても政府の「防災・減災、国土強靭化」の取り組みを着実に進めることです。これまでに総事業規模約7兆円の3か年緊急対策を講じ、現在は15兆円規模の5か年加速化対策を進めているところです。この計画では、日本全国の中小河川や道路、老朽化したインフラの整備などが推し進められます。
「共助」について最も重要なのは、地域防災力の向上です。阪神・淡路大震災の時には、濃密なコミュニティが存在している下町では共助が機能しましたが、ニュータウンのようなコミュニティの希薄な地域ではなかなか共助が機能しませんでした。神戸市では、校区ごとに「防災福祉コミュニティ」という組織を結成し、避難訓練を定期的に実施したり、地域のタイムラインを作成したりして、地域防災力の向上に努めています。また、気象台OB等から成る気象防災アドバイザーを地方自治体の顧問として、地域の防災に尽力していただける仕組みをつくることも大切です。
「自助」については、家族のタイムラインを作成し、緊急時の連絡方法や避難場所などを事前に決定・共有することが重要です。また、家具の転倒防止対策を施したり、3日分の水や食料を備蓄しておいたりという備えが必要になるかと思います。
国と地域社会の防災・減災力を高めることは、日本が安定した社会活動を営む上での大前提です。そのために防災・減災を社会の主流にしていくことが非常に大切だと思います。
現場第一主義を徹底している公明党
私は2019年から2年間、国土交通大臣を務めさせていただきました。その間も現場主義を貫き、日本の防災を大きく転換した流域治水の仕組みづくりや、バリアフリー対策として新幹線N700S系電車に6席分の車椅子用フリースペースの設置を実現しました。
大臣として112回の地方視察を実施しました。大臣の地方視察は公務ですので、視察の行程は事前に発表され、いずれの政党の議員も合流することが認められています。しかし、私の112回の地方視察のうち、野党議員が現場に来られたのは一度きりで、公明党の地方議員は全ての現場に来られていました。現場第一主義を口で謳うのは簡単ですが、行動に移すのは容易ではありません。現場第一主義を真に謳ってよいのは、公明党だけだと自負しています。
政治において大切なのは、政策実現力です。そのために大切なのは、国・県・市町村のネットワーク力です。特に、既存の制度が役に立ちにくい災害対策については、現場に根差した議員力を発揮しなければなりません。今後とも、「現場第一主義」「実績で勝負」の決意で取り組んでまいります。
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公明党衆議院議員
赤羽一嘉(あかば・かずよし)
1958年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。三井物産株式会社勤務を経て1993年に衆議院議員に初当選、現在9期(小選挙区兵庫2区)。財務副大臣、経済産業副大臣兼原子力災害現地対策本部長、国土交通大臣などを歴任。公明党幹事長代行。