【インタビュー】やなせたかし先生は風のように軽やかな人でした
2025/03/28作家・梯久美子がアンパンマンの生みの親・やなせたかし氏の人生と哲学を語る。
戦争体験や別れの悲しみをどう乗り越え、「正義とは何か」の問いを続けたその生涯を紐解く。
(月刊『潮』2025年4月号より転載)
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私が出会ったやなせたかし先生
私は『詩とメルヘン』という雑誌で編集者をしていました。編集長は、創刊からずっと、やなせたかし先生が務めていました。やなせ先生には、編集部にいた頃も、独立してフリーランスの編集者、そして作家になった後も、変わらずお世話になりました。
小学5年生のとき、暗幕のかかった教室で、「やさしいライオン」という短編のアニメ映画を観ました。母を亡くした子ライオンと、子を亡くした母犬のお話です。
子ライオンは動物園で母犬に育てられて成長しますが、離ればなれにされてしまいます。サーカス団に売られ、年月を経たある晩、ライオンは母犬の子守歌を遠く耳にします。サーカスを脱走し、老いて死にそうになっていた母犬と再会するのですが、追いかけてきた警察隊がライオンに向かって銃を発砲します。
衝撃的な結末ですが、私は強く感動しました。この映画の原作・監督・脚本を手掛けたのが、やなせ先生でした。当時はそうと知らなかったのですが、私とやなせ先生との最初の出会いでした。
やなせたかしという名前を意識したのは中学生のときです。私は『愛する歌』というやなせ先生の詩集を愛読していました。先生の詩は日常の言葉でつづられていて、新鮮に感じられました。この詩集には詩だけでなく、先生自身によるイラストも収録されていて、とても美しい本でした。本は書かれている内容だけではなく、「もの」としての美しさや存在感も大切であることを、私はこの詩集によって知ったように思います。
私にとってやなせ先生は、第一に「詩人」でした。1973年に創刊された『詩とメルヘン』は、読者が投稿した詩にプロのイラストレーターが絵を付けて掲載する読者参加型の雑誌でした。私も大学生のころに投稿して何度か掲載されました。初めて載った詩には、ファンだった林静一さんのイラストが添えられていて嬉しかった。そうしたことから、この雑誌にかかわりたいと志すようになります。そして、実際に『詩とメルヘン』の編集者として働くようになりました。
年に一度の「星屑同窓会」
やなせ先生は風のように軽やかな人でした。忙しさをまったく感じさせず、いつも淡々と仕事をしておられました。88年に始まったテレビアニメ「それいけ! アンパンマン」が絶大な人気を獲得していった時期も、『詩とメルヘン』のスタッフは、まさかそんなに大変なことになっているとは気がつかなかったくらいです。自宅と同じマンションにあるアトリエに毎日通う規則正しい生活をつづけ、夕方には必ず愛犬の散歩。そして誰に対しても平等でやさしく、決して偉ぶらない。仕事相手とも一定の距離を保ち、接待を受けたりすることもありませんでした。
そんな先生でしたが、年に一度、「星屑同窓会」というパーティーをご自身のポケットマネーで開いていました。「星屑」というのは、『詩とメルヘン』にあった「星屑ひろい」というコーナーに由来します。『詩とメルヘン』には毎号、何千篇という詩が投稿されますが、大きく掲載されるのは10篇あるかないかです。選にはもれてしまったけれど心をうつ詩を拾い上げ、見開きに数篇掲載したのが「星屑ひろい」です。このコーナーを設けた理由について先生は、「小さな活字でも掲載されれば嬉しいでしょう?」とおっしゃっていました。先生もかつては地方在住の投稿少年でした。SNSはもちろん、ワープロもない時代に創作や投稿をしていた先生だからこそ、書いたものが活字になる喜びを誰よりもわかっていたのです。
星屑同窓会には、『詩とメルヘン』で仕事をしていたイラストレーターや作家、投稿していた人たちも招待されていました。売れた人もいるし、売れなかった人もいる。生活できている人もいるし、そんなにうまくいっていない人もいる。でも、みんな同じ立場で楽しくやりましょうという「同窓会」だったのです。歴代のスタッフも招(よ)んで下さって、私も毎年参加していました。
アンパンマンのマーチ 手書きの歌詞の衝撃
編集者時代は、やなせ先生の生い立ちや過去の出来事について聞くことはありませんでした。戦争で先生が経験したことは、ノンフィクション作家としてデビューした後、雑誌の対談に呼んでいただいた際に初めて伺いました。
やなせ先生が亡くなった2年後、私は『アンパンマン』の版元であるフレーベル館からの依頼を受けて、子ども向けのやなせ先生の伝記『勇気の花がひらくとき やなせたかしとアンパンマンの物語』を刊行しました。このとき、先生の人生について調べ、取材をしたのです。このあとお話しするように、やなせ先生は幼少期からたくさんの別れを経験し、寂しさや苦しさを抱えながら生きてきました。その人生を通して、「いまつらい思いをしていても、それはきっと糧になる。いつか花となって開くときがくる」ということを子どもたちに伝えたいと思ったのです。

そしてこのほど、大人向けの評伝として『やなせたかしの生涯アンパンマンとぼく』(文春文庫)を刊行しました。子育てを通してアンパンマンの世界に触れてきた親御さん、アンパンマンを卒業して大人になったかつての子どもたちに、あの「アンパンマン」はなぜ、どのようにして誕生したのか、やなせ先生がどんな時代を生きてきたのかを知ってほしかったのです。
大人向けとして改めて評伝を書いたひとつのきっかけは、「それいけ! アンパンマン」の主題歌「アンパンマンのマーチ」にまつわるものです。私は2019年、選定委員を務める「やなせたかし文化賞」の授賞式のために、高知のアンパンマンミュージアムを訪れました。そのときたまたま行われていた企画展で、「アンパンマンのマーチ」の歌詞の手書き原稿を見た私は衝撃を受けました。「アンパンマンのマーチ」の冒頭は、
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
ですよね。けれども、最初に書かれた原稿では次のようになっていました。
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ いのちが終るとしても
「アンパンマンのマーチ」は、子ども向けアニメの主題歌としては驚くほど哲学的だといわれていますが、もともとの歌詞は、「いのちが終る」、つまり生の前提には死があるということをはっきり示したものだったのです。
アンパンマンは、お腹をすかせた子どもたちに自分の顔を食べさせます。自分を食べさせる行為は、現実には死に直結する究極の自己犠牲です。いわば、アンパンマンは死の隠喩を伴った存在です。そして、顔がなくなったアンパンマンは、ジャムおじさんに新しい顔を付けてもらって甦る。やなせ先生は「死んだとしても本質的な命は終わらない」と考えていたのではないか。そして、そのためには、自分だけではなく、他者の力が必要だという思いをこめたのではないかと気づいたのです。
手書き原稿を見たことで、私はアンパンマンの世界にこめられたやなせ先生の生命観に強く引き寄せられました。そして、改めて資料を探し、関係者への取材を進めて、やなせ先生の人生を辿っていったのです。
家族との離別 暢さんとの出会い
やなせ先生の人生にとって大きな出来事は、家族との離別でした。先生は5歳のときに、朝日新聞社の特派員をしていた父親を亡くします。中国への単身赴任中に病に倒れたのです。31歳の若さでした。
父の死によって、2歳下の弟・千尋は伯父夫婦に引き取られます。その後、母親と祖母の3人で暮らしますが、小学2年生のとき、今度はやなせ先生も伯父夫婦のもとに引き取られます。母がやなせ先生を置いて再婚したのです。さらにたったひとりの弟の千尋まで、戦争で失ってしまいます。前半生における痛切な離別によって、先生はずっと「寂しさ」をもって生きていたように思います。
そんなやなせ先生の人生には、なぜか助けてくれる人がしばしば現れます。伯父の家で暮らしていた小学生のころ、こっそり駄菓子屋へ連れて行ってくれたお手伝いさん。戦後に就職した高知新聞社の上司。三越の就職面接で推してくれた重役。さらには、永六輔、宮城まり子、羽仁進など、多くの人が些細な接点からやなせ先生を見いだし、次の仕事、別の出会いへとつながっていったのです。
小学生の私が観た「やさしいライオン」もそうです。あの映画は、やなせ先生に映画の美術監督の仕事を依頼した手塚治虫が、その御礼としてポケットマネーから製作費を出してつくられた作品でした。
人生を好転させた出会いの最たるものが、3月末から放映される、NHK連続テレビ小説「あんぱん」の主人公である妻の暢(のぶ)さんです。やなせ先生は気弱でひっこみ思案のところがあり、若いころは特に、自分に自信がありませんでした。そんな先生が好きになった女性が、自分とは正反対の、元気で強い暢さんだったのです。
自分が上に立てる弱い女の人ではなく、強い人が好き。そこが先生の面白いところだと思います。もうひとつ、先生は華やかな女性が好きでした。これは、大好きなお母様が華やかな人だったからです。ちなみに「アンパンマン」に登場する「ドキンちゃん」は、顔はお母様に、性格は暢さんに似ているそうです。
暢さんは事務処理や経理の仕事を担って、やなせ先生を支えましたが、いわゆる「夫に尽くす妻」とは違います。自分の好きなことに全力で打ち込む快活な女性でした。山歩きを趣味にしていて、北海道で大雪山系を縦走したこともあるそうです。また茶道を習い、宗暢(そうちょう)という茶名を授かって弟子をとるまでになりました。
やなせ先生は下積みが長く、アンパンマンの絵本を出版したのは50代、アニメによって広く世に知られるようになったのは69歳のときです。売れない時代にも腐くさらず、後半生を開いていったのは、明るく前向きな暢さんのおかげもあるのでしょう。
やなせ先生が戦争で体験したもの
家族との離別に加えて、やなせ先生の作品や思想に大きな影響を残したのが戦争体験です。やなせ先生は絵の勉強がしたくて高知から上京し、デザインの学校に通います。自由な校風のもとで仲間たちと青春を謳歌し、卒業後は製薬会社の宣伝部でデザイナーになりました。けれども、就職後1年足らずで徴兵されてしまった。学生時代の仲間たちも兵隊となり、戦地に向かいました。中には亡くなった人もいます。
先生は中国へ送られ、福州から上海へと陸路1000㌔の行軍をすることになりました。その間にたびたび中国軍の襲撃を受け、戦友の死を目の当たりにしています。行軍が終わると先生はマラリアを発症し、高熱にうなされます。回復したものの、上海決戦に備えて食料が切り詰められていたため、飢えに心身ともに極限まで苦しめられました。
中国での飢えの体験がアンパンマンにつながった、というお話はご存じの方も多いと思います。ただ、やなせ先生が戦争によって経験したことはそれだけではありませんでした。軍隊で受けた理不尽、行軍の中で見たもの、信じていた正義がひっくり返ったこと、弟や仲間が死んでしまったこと。
多くの青年が、戦争によって学ぶ機会や職能を身に付ける機会、青春時代を奪われました。自分の能力や努力ではどうしようもないところで、なりたい自分をあきらめ、夢を捨てざるを得なかった人がたくさんいたのです。
私は『昭和二十年夏、僕は兵士だった』という本で、青春時代を戦争の中で送り、生き残った人たちを取材しました。戦後、ある人は大学教授に、ある人は建築家になり、俳優になった人もいました。みな戦争で亡くなった人の思いをどこかに背負っていました。そうした人たちが戦後の日本をつくってきた。評伝を執筆する中で、風のように軽やかだったやなせ先生も、そうした時代に生まれ、戦争の重みを背負って生きて
きた一人なのだと痛感しました。
「いやだ!」と言える人に
アンパンマンはそれ自体がすばらしい作品であり、必ずしもその背後にある作者の経験を知らなければならないとは思いません。しかし、アンパンマンへと至るやなせ先生の人生は、戦争を知らない世代が戦争に触れる「回路」になると思っています。
戦後80年となり、本人はもちろん、親が戦争を経験した人も少なくなっています。どうすれば、戦争を知らない世代に、戦争に触れてもらえるのか。子どもにも大人にも身近な存在のアンパンマンを通してなら、遠く離れた戦争に触れることができるのではないか。今回のやなせ先生の伝記がその回路のひとつになってくれればいいなと思っています。
伝記では、やなせ先生の詩を多数引用しています。終章では、やなせ先生が晩年に書いた詩を引用しました。
夜は明けたというのに
心の闇はまだ深い
けれども
ちいさな光が見える
光のほうへ
ぼくは歩く
ほんのちいさな
光だけれど
それは
希望の星だから
やなせ先生の人生には、苦しいことがたくさんありました。死についてずっと考えていたはずです。それでも、闇の中に小さな光を見いだし、明るいほうへ歩こうとした。どんなときも生きることをあきらめず、いのちを肯定しようとしたのです。

なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!
「アンパンマンのマーチ」は、この部分のうち初めの2行がとくにすばらしい、と言われます。私もそう思います。ただ最近、この詩の肝心なところは「いやだ!」という否定にあるのではないか、と思うようになりました。歌詞全体で「!」の感嘆符がついている言葉は「いやだ!」ともう一つ、「いけ!」だけです。ここは強く歌うんだ、という意図があるわけです。
戦争では、たくさんの若者が我慢をしながら死んでいってしまった。現代では、つらい思いを抱えたまま、自死を選んでしまう子どもたちがいます。でも、我慢できないほど苦しいことがあったら、「それは違う」「これはいやだ」と言ってほしい。声に出せる人に育ってほしい。
やなせ先生にはお子さんはいませんでしたが、子どもたちの幸福について考えつづけ、作品にメッセージをこめた人でした。
先生の子どもたちへの深い思いに、その人生を知ることで触れていただけたらと思います。
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ノンフィクション作家
梯 久美子(かけはし・くみこ)
1961年熊本県生まれ。北海道大学卒業後、編集者を経て文筆業に。『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(大宅壮一ノンフィクション賞)、『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』(読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞、講談社ノンフィクション賞)等著書多数。近著に『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』がある。