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医師の経験を生かし、いのちを守る新たな取り組みに挑戦!

外科医として多くのいのちを守ってきた川村ゆうだいさん。知的でエネルギッシュなその行動力を生かし、いのちを守る新たな取り組みに挑戦する。その半生を辿りながら、熱い思いに耳を傾けた。
(月刊『パンプキン』2025年4月号より転載。取材・文=長野 修 撮影=雨宮 薫)

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過酷なコロナ禍の病院で奮闘

 外科医になって約10年が経った2020年、パンデミックが起きた。

 川村ゆうだいさんが当時勤務していた都内の病院は、新型コロナウイルス感染症患者の受け入れ病院になったが、その現場は過酷を極めた。朝病院に自分の足で歩いて来た患者さんが、その日の夜には人工呼吸器が必要になることもあった。院内は、感染防止のため緊迫した空気が張りつめて、時には怒号も飛び交った。家族感染を防ぐため自宅に帰るときは、玄関で服を脱ぎごみ袋ぶくろに入れシャワーを浴びるというきつい生活が続いた。

 政治の力を痛感する出来事を数多く目撃したのは、そのころだった。

「パルスオキシメーターが普及したことも、ホテル診療やオンライン診療が始まったのも、すべて政治判断によるものでした。コロナ禍で開催したオリンピックも、ワクチンを世界中から集めて確保したのも、政治の力です。多くのいのちを守るためには、政治の力が必要だということを強く感じました。そうした思いもあり、政治の世界に飛び込もうと決意したのです」

医師を目指すきっかけは妹の水難事故

 生まれは、北海道の帯広市。車で少し走れば、広大な畑が広がる。

 幼少期から足の速い活発な子で、中学校までは常にリレーのアンカー。小学校3年から、少年野球チームに入って白球を追いかけた。中学生時代は、生徒会長や野球部のキャプテンとして活躍し、英語の弁論大会では北海道3位を獲得。

「こう言うといかにもまじめそうに聞こえますが、実際には中学生らしく背伸びもしていて、友だちとゲームセンターに行ったり、カラオケで遊んだりもしていました」

 当時は、両親と妹の4人家族。地元の高校に進学予定だったが、サッカーのスーパースター、ロベルト・バッジョ選手が、創価学園の行事の中で創立者・池田大作先生と感激の出会いを果たす映像を見て、創価高校への進学を決意。高校では寮生活をしながら、軟式野球部で活躍。4番・キャッチャーで、都大会での優勝も経験できた。池田先生が大好きな父の口癖は、「お世話になった人のことを忘れてはいけない」と「池田先生のご期待に応える人材に育ってほしい」だった。

10代のころの愛読書は、吉川英治の『三国志』や司馬遼太郎の『竜馬がゆく』。

「学園時代は自分の財産です。池田先生の励ましは生涯の支えとなったし、あの時の仲間や担任の先生は一生の宝物です。当時いただいた池田先生の長編詩『大空を見つめて』の冒頭の一節、『最後の一歩まで断じて退くな!幸福は前にあるからだ!』は、その後の困難を乗り越える大きな力となりました」

 川村さんが医師を目指すきっかけとなったのは、小学6年生の時のある出来事だった。母が医療事務員として勤務していたクリニックの慰安旅行に、母と妹と3人で出かけたときのこと。妹がプールでおぼれてしまったのだ。引き上げられたときにはすでに意識はなく、近くにいた川村さんも死の恐怖を感じた。

 救急車の中で医師と救急隊員が懸命に処置を施しながら病院に向かった。担当医からは「記憶障害が残るでしょう」と言われた。廊下で泣き崩れる父の姿と、妹の無事を信じ、父の背をさする母の姿をよく覚えている。

 病院からいったん自宅に帰り両親と3人で回復を祈り待っていると、病院から電話がきた。受話器の向こうからは「意識が戻りました」という声。感謝の祈りの中で安堵の涙があふれた。

 その後、1週間ほど妹は新しい記憶が定着せず、不安を抱えた生活が続いたが、徐々に回復。現在は看護師として元気に働いている。

「救急車の中でも病院でも、必死になって命を守ろうとする医師の姿を見て、いつか自分もそんな医師になりたいと思ったことが、この道を目指したきっかけです」

浪人時代の支えは学園時代の仲間たち

 高校3年生になって受験勉強に打ち込み始めたが、現実は厳しく受験に失敗。人生初の大きな挫折となった。

 予備校に通い始めたが、どうしても馴染めない。学園時代のような励まし合う仲間はいない。支えてくれる先生もいない。授業に出れば、強烈な個性の講師たちが受験テクニックを伝授する。中には、授業中、母校の悪口を言いだす講師もいた。「こんなところにいたくない」と思った川村さんは、授業から遠ざかり、予備校の寮でふさぎ込んだ。

 そんなときの支えが、学園時代の仲間たちだった。寮まで励ましに来てくれた同級生、家に招いて一緒に祈ってくれた担任の先生。寮のある地域の人たちは、車で会合にも誘い出してくれた。

「半ば自暴自棄になっていたときに同志の皆さんが支えてくれたからこそ、がんばれました。何よりも、『人間革命』をもう一度読み直したことが大きな転機となりました。山本伸一が大変な中で闘い抜く姿に、感動と勇気を得ました。祈りながら、池田先生のご期待に応えるためにがんばるんだと腹を決めたとき、すべての迷いが吹き飛びました」

 そして迎えた受験は見事に合格。東京医科歯科大学で懸命に学び、医師国家試験に合格。そのときに池田先生からいただいた「勇気と正義のドクターたれ」という指針は、医師としての原点となった。

高齢者には安心を 若者には希望を

 これまで外科医として活躍してきた川村さんは、今度は政治という新たなステージに挑む。政治家としてやりたいことはいくつもある。キーワードは「高齢者には安心を、若者には希望を」だ。

「今は病院でみとられることが一般的ですが、今後は、在宅医療が重要になります。そのためには介護職員の数を増やすことが不可欠です。だからこそ介護報酬の引き上げなどが大事です。また、若者支援については、単身者世帯への支援の充実や、現役世代の所得向上による経済的基盤の強化などに力を入れたいと思います」

 川村さんは現在、妻と2人の娘と4人暮らし。これまでは多忙ゆえに子育てを妻に頼りきりだったが、「その反省も含めて子育て支援にも力を入れたい」と考えている。

「『大衆とともに』という公明党の原点を片時も忘れず、支援してくださる方々の恩を忘れずに、皆さんの声をしっかり聞いて、結果を残せる力ある政治家になりたいと決意しています」

 支えてくれた人たちの恩に報いるため、政治という新たな舞台で、いのちを守る闘いに挑戦する。

4つの川村ビジョン

医師として――いのち守る医療・介護・防災


●人生100年時代、安心して医療・介護サービスを受けられる環境の構築を進めます。
 1つ目は、医師不足や地域による偏りの解消のために、医療従事者の処遇改善や、地域医療の従事者の研修制度などを進めます。
 2つ目は、高度な診療を可能にする最先端の医療DX(デジタルトランスフォーメーション)の普及を図ります。
 3つ目は、医薬品の安定供給。後発医薬品(ジェネリック)のサプライチェーン情報の共有化を進めると同時に、医薬品の原材料の国産化を推進します。

現役世代として――若者・女性の活躍

●現役世代が将来に希望をもてる社会を目指します。
 1つ目は、テレワークやフレックスタイム制導入などによって柔軟で多様な働き方を実現し、幅広い人材が活躍できる仕組みをつくります。
 2つ目は、単身者支援の充実。たとえば、結婚を望む人への相談支援や、住宅補助など住まいの確保に向けたサポートを充実させます。
 3つ目は、復職や転職へのサポート強化。たとえば、育児やメンタルなどの問題でキャリアを中断した人の復職支援などを推進します。

2児の父親として――子育て支援、社会保障制度

●少子化が進む中、安心して子どもを産み育てられる環境を整備します。
 1つ目は、育児休業給付の給付率を手取り額がくの10割相当に引き上げるとともに、「こども誰でも通園制度」の実施自治体数の増加を目指します。
 2つ目は、大学までの授業料無償化や、幼稚園から学校給食の無償化などを段階的に拡大。
 3つ目は、(旧民主党政権で廃止された)15歳以下の扶養親族のいる場合の「年少扶養控除」の復活を求め
ていきます。

未来世代への責任果たす当事者として――平和・SDGs達成

●未来世代に平和で持続可能な社会を残していきます。
 1つ目は、核兵器禁止条約の署名・批准を推進し、「アジア版OSCE(欧州安全保障協力機構)」創設を目指します。
 2つ目は、脱炭素化に向けた再生可能エネルギーの活用を推進します。
 3つ目は、AIの悪意ある活用や兵器転用を禁止するための規範をつくり、サイバー攻撃やサイバー犯罪への対策を強化します。

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川村ゆうだい(かわむら・ゆうだい)
1984年北海道帯広市生まれ。創価高校から東京医科歯科大学(現・東京科学大学)へ進学。卒業後、都内の大学病院で外科医として勤務。日本内視鏡外科学会技術認定医。医学博士。東京都北区在住。公明党青年局次長。