激動の時代を懸命に生きた富山の薬売りたちの物語
2025/03/24作家の宮本輝さんによる初めての歴史小説『潮音(ちょうおん)』が注目を集めている。幕末から明治へ、激しく変わる世を人びとはどのように見つめ、生きてきたのか。本作には、変化の時代に身を置く一人ひとりへのメッセージが込められている。
(月刊『パンプキン』2025年4月号より転載)
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『潮音』は宮本さんが足かけ10年にわたって書き上げた長編歴史小説(全4巻)。主人公は越中富山の売薬人、川上弥一(かわかみやいち)。越中八尾(やつお)の紙問屋の跡取りに生まれながら、優秀さと人柄を見込まれ、薬種問屋の高麗屋へ奉公に上がる。行商先の中でも特別な存在である薩摩藩の担当となり、出会った人たちと共に激動の時代を生きていく。物語は、弥一がある人物に語りかけるスタイルで進む。富山での売薬業の成り立ちや商売のやり方、行商の旅路のようすなども丁寧に描かれており、商人たちの歩みをゆっくりと辿ることができる。
時代を動かした売薬人と薩摩の人びと
これまで数多くの物語を世に送り出してきた宮本さんが、史実に基づいた歴史小説を手がけるのは初めて。挑戦を決めたのは、30年ほど前に知った逸話がきっかけだという。
「たまたま見たテレビ番組で、薩摩藩と富山の薬売りのつながりが、江戸幕府崩壊に大きく関わっていたという説があることを知ったんです。鎖国の時代、財政難に苦しむ薩摩藩と清国にしかない薬種を必要としていた富山の薬売りが手を組んで、風土病に効く蝦夷地(えぞち)の干し昆布を欲していた清国との密貿易網をつくり上げた。薩摩藩が得た莫大な利益が武器調達を可能にし、倒幕につながったというのです」
考えてみると、全国で販売する薬を作るには、希少な薬種を大量に仕入れなくては需要に応えることができない。薩摩藩と富山の薬売りたちの関係はありうる、と宮本さんは興味をもった。ある日、何気なく出版社の編集者たちにこの話をすると、執筆を強くうながされたという。
「最初はまったく書く気はなかったんです。歴史小説なんて書いたことないし、西郷隆盛とか高杉晋作とか、会ったこともない人のことはわからん、と。だけど、架空の人物の視点なら書けるのでは、と考えて取りかかってみたんです」
いざ執筆を始めると、知らないことが多く、いくつもの壁が立ちはだかった。ひとつは言葉。たとえば「経済」「情報」など、現代では当たり前に使う言葉でも、江戸から明治の初めにはまだ存在していなかったというケースが意外と多かった。
「『○○的』『○○化』という言葉も当時はなかったそうですが、つい書いてしまうんですよね。時間や方角、距離の表し方、食べるものももちろん今とは違う。校閲担当者からたくさん指摘を受けて、それやったら俺は書かれへん、やめる!って言ったこともありました(笑)。でも、知らなかったことがだんだんわかってくるにつれ、自分の中に江戸末期の世界が浮かぶようになって、これならいけると思えるようになりましたね」
藩の産業発展のため人材育成に力を入れる
富山の売薬は、江戸中期から藩の産業として注力されるようになったといわれる。やがて全国に販売網をもつ大事業へと発展、弥一が高麗屋に奉公に上がった1847(弘化4)年ごろには約2000人が携わる産業へと成長していた。
事業を末長く継続させるため、富山藩が重視したのが人材育成である。特別な寺子屋を設けて行商人の育成に力を入れた。
仕事をするうえで必要不可欠な読み書きそろばんの能力はもちろん、常に身を律し、だれからも好かれる人間性を備えていることを求めた。
「富山の売薬の成功の要因は、人を育てたことです。人材育成は大変ですが、小まめに、諦めず、投げ出さずにやり続けたところが、最後は勝っていくのではないでしょうか」
弥一は幕末から明治にかけて起こった動乱を目の当たりにし、激しい変化を経験する。しかし、周囲の人たちと力を合わせて、日本中の人びとの健康のため、富山を支えるため、優れた薬を作って届ける、その一心は揺らがない。
「薩摩の武士と売薬人は火と水くらい違う人間ですが、彼らは決してビジネス上のつきあいにとどまっていたわけではないと思うんです。さまざまなことを乗り越えていくなかで、お互いの間に絆のようなものができていたのではないか、私はそう考えています」

逆巻く波に目を奪われず水底の潮の音を聞く
タイトルの『潮音』は海の底の潮流の音。静かでゆっくりしているが、だれにも止めることができない。潮流は変化し続ける、時代の流れのようでもある。
「世の中の変化は、海面の波のようなもの。右往左往してしまうほどの大波が逆巻いているときでも、せいぜい50メートルの波なんです。だけど、富山湾の最も深いところは1200メートルもあって、水底ではものすごい力で潮が動いている。深い水底の大きな潮の流れの中で、時代を見つめ、人間を見つめ、自分の仕事を見つめていったのが弥一たちだと思うんです」
海面でどんなに激しい波が逆巻いていても大したことはない。「そういう受け止め方ができるようになったら、何も怖いものはないじゃないですか」と宮本さんは言う。
世の中の変化といえば、人びとの"読書離れ"もそのひとつ。このことに対する意見を聞いてみた。
「それも海面の波のようなものでしょうね。いずれ戻ってくるときがあると僕は思っていますよ。毎日忙しい人でも、読めば『本っていいね』って思える。本を読むことは自分の時間が豊かになりますから」
激動の世を駆けた売薬人と薩摩の人びと、彼らの家族や仲間たち。時代の水底の動きを聞きながら懸命に生きた彼らの姿は、読み手を力強く勇気づけてくれる。
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潮音 第1巻 宮本輝・著 文藝春秋刊
作家
宮本輝(みやもと・てる)
1947年、兵庫県生まれ。広告代理店勤務等を経て、1977年「泥の河」で太宰治賞、翌78年に「螢川」で芥川賞を受賞。『道頓堀川』『錦繍』『青が散る』『春の夢』『優駿』(吉川英治文学賞)、『約束の冬』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『骸骨ビルの庭』(司馬遼太郎賞)『流転の海』(全9部、毎日芸術賞)など著書多数。『潮音』(全4巻)は2025年1月から毎月1冊ずつ刊行されており、3月に第3巻、4月に第4巻が発刊予定。