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写真が紡いだ絆   池田SGI会長を撮り続けて

ファインダー越しに、池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長を追いかけて30年──。日本を代表する、人物写真家である、齋藤康一さんが見つめた池田SGI会長の素顔とは。
(『パンプキン』2024年5月号より抜粋、取材・文=鳥飼新市)

※写真家・齋藤康一氏が撮影されてこられた池田SGI会長の写真の一部は『パンプキン』2024年5月号をご覧ください。
また、前回のインタビュー「池田SGI会長との忘れ得ぬ出会い」はコチラからお読みいただけます。

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 自分で言うのもおかしいのですが、僕はあまり欲がないのかもしれません。仕事も自分から図々しく取りにいったことがなく、自然な流れのまま今日までまいりました。

温かい人間性にひかれて

ただ、池田先生にだけは、最初の出会いとなった雑誌グラビアの仕事が終わったとき、「もう少し写真を撮らせてください」とお願いしたのです。僕には滅多にないことでした。

もっと先生を撮りたい――。そう思ったのは、それだけ池田先生の、人の心にしみ入り、心をとらえて離さない温かい人間性にひかれていたからだと思います。

しかし、そのうえで、僕は常に冷静さを失わず、一定の距離をとりつつ撮影しようということを自分に言い聞かせていたのです。少し引いて、客観的にその人物を切り取る。構図をつくりすぎず、ありのままに撮る。そういう写真が長く印象に残ると思うからです。

ファインダー越しの先生は、本当に自然体でおられました。人びとの中に入り、一瞬でその「場」を変えてしまう。相手が世界の識者でも、市井(しせい)に生きる人たちでも変わらず、真心を尽くす。先生の周りには、いつも笑顔があり、言葉が弾けていました。

かと思うと、時に自然や人びとの営みにじっとまなざしを注がれていることがありました。先生の中で ""が生まれようとしているのかもしれない、そう思ったものでした。

数多くの国々にも、ご一緒させていただきました。たとえば、1984年の南米訪問です。北米も回るため先に出発する先生を、僕は成田空港でお見送りしました。
「齋藤さん、待ってますよ。ブラジルで」
先生は、そう言って出発されました。

ところが、僕がブラジルに発つ日は大雪。ブラジルまで通常の2倍、50時間もかかり、ホテルに着いたのは先生が到着される数時間前でした。空港にお迎えに伺うと、
「雪で大変だったんですってね」 
と、逆にねぎらっていただきました。

ブラジルの後、ペルーに向かいました。ベラウンデ大統領(当時)との会見が終わろうとしたとき、予告なしに大統領から「ペルー太陽大十字勲章」の授与が告げられました。突然の勲章授与です。その瞬間を逃すまいと、僕は夢中でシャッターを切りました。


頴超さんの2歩、3歩

7次訪中(90年)に同行した際のことです。北京で先生の「自然と平和との対話」の写真展が開催されました。会場の民族文化宮は、すみずみまで磨き抜かれていました。

実は、僕も写真家仲間とこの場所で写真展をやったことがあったのです。そのときは窓ガラスは汚れ、手入れが行き届いていない印象でした。あまりの違いに驚きました。聞くと、先生の写真展の際は3日がかりで大掃除をしたというのです。中国では、一度心を開いた人には最大の礼をもってもてなすと言われています。それを身をもって知りました。

この訪中は、写真展の開催をはじめ江沢民総書記(当時)との会見、北京大学での講演など予定がいっぱいでした。忘れられないのは長年のご友人である周恩来夫人の鄧頴超さんを、ご自宅に訪ねたときのことです。

肉親と会われているような語らいの後、先生が帰られるときでした。頴超さんは足が不自由そうでしたが、玄関の高い敷居を一生懸命にまたがれ、やっとの思いで23歩進み、秘書の方に支えられながらも先生が車に乗られるまで見送られたのです。

僕はその姿に、頴超さんの先生に対する万感の思いを感じました。先に席を立たれた先生を僕は必死に呼び止めました。その結果、感動的な写真を撮ることができたのです。

89年、フランス学士院で講演されたときです。パリ第5大学を訪れた先生は、80人ほどの学生部メンバーに取り囲まれておられました。歩道の石畳が即席の懇談会場になりました。楽しそうな先生のごようすに、つくづく先生は若者が好きなんだと思ったものでした。

僕は創価学園の起工式の写真も撮っています。まだ雑木林しかないころです。その後も、一期生の入学式をはじめ関西の女子学園、創価大学なども何度も訪ねています。

学園や大学での先生は、失礼な言い方かもしれませんが、どこかはしゃいでいるように見えました。生徒たちと一緒にいることが、うれしくてうれしくてたまらないごようすなのです。

創価学園の一期生の入学式では、生徒たちの歌声に微笑を浮かべながら親指を立てるサムズアップのサインを送られるのです。そのお姿に、学園生がかわいくて仕方がないというお心が伝わってきました。生徒と一緒に自分も学園建設をしていくという思いがあふれ、僕も温かな気持ちになりました。

先生は即興の手品を披露されることもありました。あるときからピアノも弾かれるようになりましたが、いったい、いつ練習されているのだろうと、不思議に思いました。手品など、腕前はなかなかのものでした。

先生は目の前の人の激励のために、いつも精力的に動かれています。どこに行っても全力投球でした。けれど、けっして必死さを見せない。少しも窮屈そうではなく、伸び伸びと振る舞われています。それだけに見えないご苦労はいかばかりだったかと思います。アーティスティックスイミングのように水面下での激しい動きは見えないのですから。

先生の掌の上で……

先生が一歩外に出られると、いつも多くの人が集まってきました。それは国内でも、海外にいるときも変わりません。

それでも、やはり海外におられるときのほうが少しは自由があったように思います。

街中の店を見て回られるときなど、店の主人と気さくに会話を楽しまれていました。ご夫妻で散策される時間もあり、道端の花を指さしたり、子どもたちと笑顔の交歓をしたり、よく香峯子夫人と二人で談笑されていることもありました。

そういう瞬間があると僕は喜んでシャッターを切りました。考えてみれば、僕が撮りたかったのは"人間・池田大作"だったのだと思います。

一冊目の写真集の最後、僕は、先生にこんな質問をしました。
「被写体になられたご感想は?」
すると先生は、「大変迷惑しております」と冗談を口にしながらも、
「ありのままの自分を理解していただければと思って、撮っていただきました」
と言われたのです。

なるほど……。僕は、先生の掌の上で動き回っていただけだったような気もします。

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写真家
齋藤康一(さいとう・こういち)
1935年東京都生まれ。1959年日本大学芸術学部写真学科卒業。在学中より林忠彦氏、秋山庄太郎氏の助手を務め、その後フリーランスに。雑誌などに数多くの人物写真やルポルタージュを発表。1965年第1回日中青年大交流に参加。以後、約80回中国各地を訪問・取材する。日本写真家協会名誉会員。日本写真協会監事。作品集に『蘇州にて』『1965中国にて』『昭和の肖像』など多数。

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