プレビューモード

月刊『潮』が見た60年 1960-1965

ヨットにかける男
石原裕次郎(俳優)

ヨットの経歴は戦時中からで、もう18年ぐらいになります。/ぼく、4回ぐらい台風に遭っているでしょう。太平洋の波というのは、日本近海の波と違って、丸ビルぐらいあるし、/しけると、もう大変です。自然のこわさに魅了されるんですよ。ぼくは、海は山よりこわいと思うね。
※映画監督・宇野真佐男氏との対談のなかで。(『潮』1963年8月号より抜粋)

 

松川事件の真相
広津和郎(作家) 松本清張(作家)

広津 松川問題では弁護人たちが無報酬で、300人近くも立っています。みんな自発的に立ってくれたのです。イデオロギーの上では超党派で、自民党で仙台の弁護士会長などいます。無報酬だけれども、しかし実費はかかります。

松本 だから、日本の裁判は、いい弁護士を頼まなければいけない。いい弁護士は弁護料が高い。だから貧乏人には頼めない。こういうふうになりますからね。だから、どうしても、われわれいつ法廷に立たされるかわからないものは、金をもっていなければ、有利な裁判をしてもらえない。

※「松川事件」最高裁判決を受けた、文芸評論家・平野謙氏司会による座談会のなかで。(『潮』1963年11月号より抜粋)


世界平和への道
谷川徹三(法政大学総長)

ケネディはもちろん現実政治家でありますけれども、大統領就任演説によってみても、また最近のアメリカン・ユニバーシティにおける演説によってみても/信念をもった理想家であり、現代というものを世界史的展望の中において見、その世界史的な展望の中でアメリカがどういう役割を演ずることができるのか、そのアメリカの指導者として自分がどういうことをしなければならないか、ということについて相当深く考えていたと思う。これは非常にいいブレーンがあって、そのブレーンをケネディは十分に使いこなしていた。ソビエトとの平和共存の線にはっきり踏み切ったのも、やっぱりそういう顧慮からであった。

※ケネディ米大統領暗殺事件を受けた、京都大学教授・桑原武夫氏との対談のなかで。(『潮』1964年1月号より抜粋)

オリンピック 日本の裏おもて
中野好夫(評論家) 

 それにしても国民も国民である。なんという統制への采配の上がりやすい国民なのであろうか。/オリンピックという絶好の機会にこそ、という発想がある。招致へ決定以来、しきりに流されてきた有力な主張であり、東京都知事など、再度の選挙戦において、きわめて抜け目なくこれを利用してきた。なるほど、オリンピック開催ということを口実に、東京都はもとより、全国にわたって首都整備、国土整備のすすめられたことは事実である。まず道路、交通機関に画期的な改善がもたらされるのは事実だろうが、逆にいえば、オリンピックがなかったらどうなっていたのだろうか。また、オリンピック後はいったいどうなることなのだろうかと考えると心細いかぎりである。

『潮』1964年5月号より抜粋)


くずれ落ちる南ベトナム
岡村昭彦(PANA通信特派員)

日本に帰って、もう半月にもなるというのに、私はいまだに南ベトナムの戦争の生活から抜けきれずにいる。家の近くで、道路工事のために大きな物音がすれば、どんなに眠っていても、飛び起きてしまう。いや、午前1時になると、きっかり目が開くのも、南ベトナムの前線で、午前1時半から2時になると、決まって攻撃をかけてくる、ベトコンの夜襲に備えるための習慣にほかならない。ラジオを聞き、テレビや新聞を見ても、ベトナムの記事があれば、それがどんなに短いものであろうと、その事件の場所から、電報を打つ友人の新聞記者の顔まで、はっきり目に浮かんでくる。

『潮』1964年11月号より抜粋)

 

佐藤栄作への二、三のノート
扇谷正造(朝日新聞論説委員)

現代の政治はある意味で、演出だということである。PRの技術だということである。もとより、その根底には政治家のパーソナリティーが前提とされている。しかし、チャーチルやルーズヴェルトのような政治家は、そうそう出現するものではない。多くの国民は、第二級あるいは三級の指導者で我慢せねばならないかも知れない。いやいつの時代も、それが異常時でないならB級、C級指導者でも、結構つとまる。ただ、よしB級C級指導者だとしても、国民を納得させるための入念な準備、的確な表現、一貫した方針というものを持っていなければ、まずお話にならない。そういう点で、はたして佐藤首相ならびにそのブレーン(もしありとすれば)たちに、その認識と用意とがあるか、どうかということである。
『潮』1965年4月号より抜粋)

 

南北朝鮮、統一はいつの日か
大森実(毎日新聞外信部長)

1950年6月25日、突如北朝鮮軍が南下した。全朝鮮が戦火に見舞われ、板門店(パンムンジョム)の休戦会談を経て、現在の南北対立状態を固定するに至った歴史の経緯はすでに周知の事実であり、説明を割愛したい。朝鮮戦争は、南北朝鮮民族にとって、さながら悪夢のブルドーザーの往来であった。国土も人命をも踏みにじった悪夢のブルドーザーは、最初は北から南へ、そして、後半は、南から北へ、朝鮮半島をジュウリンしつくし、残ったのは、荒廃した国土と、三十八度線の固定化、しかも、それは半永久的な固定化であった。/日本がもし、東京を境界として、南北に、他の力によって分断され、その結果、イデオロギーの異なる政体に分裂する悲劇を、戦争の結果として強制されていたとすれば、我々は必ず、〝民族の統一〟を考えたに違いない。

『潮』1965年6月号より抜粋)


ひとりぽっちの航海
堀江謙一(海洋冒険家)

(出発前)「ゼッタイに120日までは心配せんといてや、騒いだらあかんで」。オフクロと妹と3人で最後の食卓を囲んだとき、そういい渡した。オフクロが外を見るそぶりで横を向くと、ポロリと涙をこぼした。このオフクロの涙は、航海中いつも思い出され、自分を力づけたものの一ツであった。家族は、ボクの計画を前の年にかぎつけていた。むろん大反対に決まっている。しかし両親とも、口に出しては一度も「行くな」とは言わなかった。猛反対だから、かえって口に出しては言わなかったのだろう。何か言えば、逆効果になることを親はとっくに承知していた。黙ってほうっておくのが、1番の冷却法だと踏んでいたのだろう 〝ツベコベいうのなら無断で出る、見て見ぬふりをしてくれるなら、知らせてからいく〟などと、勝手なコトを言い渡してあった。ボクにとっては、もう確実な事実だったからである。

『潮』1965年12月号より抜粋)

 

月刊『潮』が見た60年 1966-1970 を読む

 

・肩書は基本的に掲載当時のものです。また、一部敬称を略しています。
・一部、現在では不適切な表現がありますが、時代背景を尊重し、そのまま引用しています。
・一部、中略した箇所は/で表記しています。
・表記については、編集部で現在の基準に変更、ルビを適宜振り、句読点を補った箇所があります。