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人びとを豊かに、幸せに 日本の未来を政治の道から開く

米国のシティバンクやゴールドマン・サックスで、世界を舞台に活躍してきた岡本三成さん。
衆議院議員になってからも、その経験を生かし、経済・金融のスペシャリストとして貢献してきました。
今回は、そんな岡本さんの父、母、恩師への思いを伺いました。
(『パンプキン』2023年9月号より転載、取材・文=鳥飼新市 人物撮影=雨宮 薫)


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感謝を忘れず
恩に報いる生き方を

衆議院議員の岡本三成さんは、気さくで明るくフットワークも軽い。長年、国際金融の世界で培ってきたキャリアを生かして進める経済政策には定評がある。

この“令和の三成さん”、初対面の人に決まって聞かれることがある。名前の由来だ。
「やっぱり関ヶ原の……?」。そのとおり。ご本人も、自分の名を気に入っていると話す。

名づけ親は父の久雄さんだ。とにかくまじめで、仕事一途の働き者。佐賀県烏栖市で建設業を営んできた。幼いころ、名前をつけた理由を話してくれた。
「人として大切なことがある。それは感謝を忘れず、恩に報いることだ。石田三成は最期まで豊臣家に対して報恩の人生を歩んだ。それこそが正しい生き方だと思うからだ」

子ども心に感謝と報恩の文字が刻まれた。感謝という言菜で、すぐに思い浮かぶ人はどなたです? そう聞くと、
「妻に心から感謝したいです。妻と結婚できたことが、私の最大の幸運のひとつです」
と、表情を崩す。夫人のさゆりさんは、どこに転勤になっても、笑顔を忘れず楽しみながら地域活動にいそしみ、多くの信頼を得てきた。そのおかげで「あの人を奥さんに決めた人なら、きっといい人にちがいない」と夫の印象も変わるのである。

そのうえ褒め上手で、何かで落ち込んでも、いつも「大丈夫大丈夫。あなたにできないわけがないでしょ」と励ましてくれる。
「夫のひいき目なしに、本当に素晴らしい人です」



みんなでシェアすることの大切さ

岡本さんは4人きょうだいの末っ子である。小学生のころから新聞が好きで、経済面や国際面を読んでは世界に思いを馳せているような少年だった。

中学で野球部に入部。そのとき、もし三振するなら見逃しではなく空振り三振をする、と自分に言い聞かせていたそうだ。

何もせずに後悔するより、失敗を恐れず、果敢にチャレンジしたほうがいい。これは、今も変わらない岡本さんの信条なのだ。

高校生のとき、久雄さんにこんな質問をした。「おやじは何のために働いているの?」。間髪を入れず「家族を養うためだ」と答えが返ってきた。自分の大切な人を守る、その潔さに圧倒された。“カッコいい”と思った。

母の富士子さんは、とにかく明るい“たくましき楽観主義”の固まりのような女性だった。「本当に太陽みたいな人でした」。そう言う岡本さんは「貧乏な家でしたが、貧しさを感じたことはないんです」と振り返る。

食卓はいつも賑やかだったし、そろばんや習字などの習い事もさせてくれた。誕生日には友だちを呼んでパーティーも開いた。みんな富士子さんが工夫を凝らしやりくりしてくれたからこそだと、今になって思う。

その富士子さんが口癖のように言っていたのが、「自分の口しかわからんとね」という言葉だった。自分のことしか考えてないの、という意味だ。姉や兄の分のおやつを食べたときなど、そう言われて大目玉を食った。「母は、常にみんなでシェアすることの大切さを教えてくれたんです」
これも岡本さんの生きる姿勢になった。


40年前の人生の師との出会い

岡本さんはスイカを食べると、今でも鮮明に思い出すことがあるという。40年前の1983年7月28日。人生の師・池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長との初めての出会いである。

高校3年生の夏だった。霧島研修道場に九州の高校生の代表が集まった。SGI会長は、みんなを木陰に呼び、「勉強をしなさい」「人生は負けてはいけない」と話したという。その後、一緒にスイカをおなかいっぱい食べたのだ。

「先生は30分にわたって真剣に話をしてくださいました。私は、高校生を一個の人格として尊重し、心から激励しようと向き合ってくれる、そんな大人に初めて会ったのです。大きな感銘を受けました」

工学部に進学するつもりだったが、文系の学部しかなかった創価大学に志望を変えた。受験まで半年しかない。だがちゅうちょはなかった。その出会いの衝撃の強さがわかる。

無事に創価大学経営学部に合格。3年生のときには、イギリスの名門グラスゴー大学への創価大学の最初の留学生となった。卒業後は、世界最強の銀行といわれたシティバンクに就職し、やがてゴールドマン・サックスに移った。

金融のプロとして世界のトップ企業で仕事をしてきたのである。
「創価大学に進学していなければ留学もしていないし、アメリカの銀行でも働いていない。国会議員にもなっていません。すべては40年前の池田先生との出会いこそが原点です」

スイカは、岡本さんにとって師弟の誓いの味なのだ。師の姿から「だれに対しても誠実に接することが人間にとっていちばん大切だということを学びました」と語るのだった。


人の命ほど尊いものはない

米国同時多発テロが起こった2001年9月11日。岡本さんはゴールドマン・サックスのニューヨーク本社に勤務していた。本社は、2機の飛行機が突っ込んだ世界貿易センタービルから1kmほどしか離れていなかった。3000人近くの人命が失われた事件を間近で体験したのだ。

マンハッタンのランドマークだった2つの超高層ビルが炎上し、崩壊する、その粉じんの中で、“もうこんなことを起こしてはいけない。人の命以上に大切なことはない”と思った。その思いは、岡本さんの心の奥深くに刻印されたのだった。

やがて日本支社で働くように。そしてあの9・11から10年経った2011年。東日本大震災が起こった。今度は自然災害だったが、また多くの命が失われた。
「このとき、何の罪もない多くの人たちが犠牲になったことに大きな衝撃を受けました。同時に、不慮の事態に備えて政治がしっかりしていることが、いかに国民にとって重要なのかを痛感しました」

その年の冬、まるでそんな岡本さんの思いを察知したかのように、国政選挙に出馬してみないかという打診が公明党からあった。金融の世界と政治の世界。どちらにいるほうが自分の実力、経験を社会や人びとのために発揮できるのか――、と真剣に悩んだ。

岡本さんは、金融の最大の目的は、人びとを豊かにし、幸せにすることだと考えていたからだ。それは政治の経済政策も同じだと、最終的に政治の道に進むことに決めた。

今こそ”たくましき楽観主義”を

初当選は2012年。以来、代議士として11年のキャリアを積んできた。岡本さんは言う。

「弱者を支援する制度が整っている社会は大事だと思っています。そのためのさまざまな政策も進めてきました。でも、私は“弱者を生まない社会”をつくりたいんです」

それは、働きたいと考えているすべての人の状況に合わせて仕事がある、そういう社会だという。自分の体力に合った仕事、介護や育児などの制約に応じて働ける仕事など、そういう仕事を選べる社会である。
「働くということは生活の基盤ですし、社会に参加している手応えももてます。それは、人を生き生きと前向きにすると思うんです」

だからこそ岡本さんは、金回りのいい社会、つまり景気のよい社会をつくりたいと話す。
「景気がいいと、雇用が生まれます」

どうすれば景気が上向くのだろうか?
「今、日本人は何か自分を過小評価しすぎていると思います。本当はすこいポテンシャルがあるんです。それを信じて“たくましき楽観主義”でもっとチャレンジすることです」
母のようにと言わんばかりに、岡本さんは、そう力強く語るのである。


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衆議院議員
岡本三成(おかもと・みつなり)
公明党国際委員長、国会対策委員長代理、東京都本部代表代行。
1965年佐賀県鳥栖市生まれ。89年創価大学経営学部卒業後、米国のシティバンクに入社。その後、米国ノースウェスタン大学・ケロッグ経営大学院で経営学修士号を取得し、同年、ゴールドマン・サックスに入社。2012年衆院選当選(比例北関東ブロック)。21年衆議院4期目当選(東京12区)。17~18年に外務大臣政務官、21~22年に財務副大臣を務める。