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【新連載小説】ひょこ、ひょこ、ひょこ助 雨蛙見聞録 第1回

宮本紀子さんによる、新連載小説がパンプキン10月号からスタート。
江戸の街を舞台にした、奇妙な蛙と少年の物語です。
(『パンプキン』10月号から転載)
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【第1章 出会い】

 


「どういうことだよ! ひと晩たったら元に戻るって言ったじゃねえか!」

 ひょこ助は怒りと不安に、緑色の体を震わせた。寝床にしていた茶碗からぴょんと飛び出し、夜着の上で膝をそろえる直弥(なおや)を仁王立ちになって、ぐいと睨み上げた。

「言ったよ。きっと、たぶん……て」

 月代(さかやき)を剃らず、髷(まげ)を結った総髪の頭を掻いて、直哉はもごもご言う。眉を八の字に下げてうつむくさまは、頼りない若者のお手本のようだ。

「そ、そうだ、朝飯を持ってくるよ」

 直弥は急いで着替えにかかった。

「にぎり飯は食べるかい、あっ、玉子焼きもつけてもらおうね」

 ちょっと待ってて、と部屋を出ていこうとする。

「おい、話はまだ終わってねえぞ」

 ひょこ助は前足を伸ばし、吸盤のある長い指をひろげて通せんぼした。

 だが直弥は、周りに散らばる本と一緒に、ひょこ助をっひょいと跨いで廊下に出るや、そのまま、たったと走っていってしまった。

「くそ、逃げやがった」

 遠ざかる足音に地団駄を踏むひょこ助の前には、開けっ放しになった障子戸があり、その向こうには、初夏の朝陽が降りそそぐ庭がひろがっていた。

 ひょこ助の突き出た大きな目に、じわりと涙が湧く。

 しょうがねえだろ。昨日まであそこで太平に暮らしていたんだからよ。なのに――。これからずっと、おいらは人間のようにしゃべっちまう蛙のままなのか。それもこんなふうに、二本足で立っちまうよう。

 ひょこ助は後ろ足を片方ずつ上げ、露わになった己の白い腹を見つめた。

 おいら、なんでこんな目に遭っちまったんだろう。

 思ってもせんないことなのに、ひょこ助はまた思ってしまう。

 そもそもの事の起こりは、昨日の昼下がりにまで遡る。

 そのとき、ひょこ助は庭の池にいた。まだひょこ助という名もなく、ごくまっとうな蛙だった。身の丈一寸半(約四センチ)の、鼻から目、前足の付け根にかけてある黒い線模様も鮮やかな、自分で言うのもなんだが、ちょいと二枚目の、いい声で鳴く雨蛙だった。
 
 日頃は樹木や背の高い草の上で暮らす雨蛙も、立夏を迎えたこの時季には、己の子を遺すため、相手を求めて水辺にあつまる。

 ひょこ助も庭に一本だけある楓の枝からおり、地に浮かぶ蓮の葉の上で相手を求めてケロケロ鳴いていた。ほんとうは日が暮れてから鳴くのが作法なのだが、ここは町中だからなのか、そもそも蛙が少ない。この庭にだっていまはひょこ助だけだ。よって雌との出会いはとても貴重だ。ここにいるぞと知らしめねばならない。それに、ひょこ助にとって、大人の仲間入りをする初めての年でもあった。

 だからひょこ助は陽がまだ高いうちから大いに鳴いた。ちなみに鳴くのは雄だけだ。

 庭の赤い花をつけた躑躅(つつじ)も、豪奢に咲く芍薬も、若葉の木漏れ日をうけて、きらきら輝く水面も、なにもかもがひょこ助を寿(ことほ)いでくれているようだった。

 だが水草を突いていた金魚がすいっと水底へ沈んだときだ。池にさっと黒い影がさしたかと思ったら、頭上からざあーっと砂のような、なにか粉っぽいものが降ってきた。

 げほっ。辺りに白い煙が立ち込め、驚いたひょこ助はすぐさま池に飛び込んだ。

 水のなかはどんより濁って不思議な色をしていた。ひどい味もした。そのうち段々と目が回り、体が痺れ、気持ちが悪くなってきた。このままでは溺れちまう。蛙が水のなかで溺れるなんぞ洒落にもならん。ひょこ助はふらつきながらも、どうにか蓮の葉に這い上がった。ぜいぜいと荒い息を吐く。と、目の端に、池の縁でぼうっと突っ立っている男の姿が映った。

 そうか、きっとこいつがなにかやりやがったんだ。せっかくのおいらの目出度い門出を台無しにしやがって。痺れた体に怒りが突き上げてきて、ひょこ助は男に向かって、「やい、てめえ」と怒鳴った。

「いってえなにをしやがった! こちとらいい女をつかまえようと気合を入れて鳴いていたっていうのに、ぶち壊しやがって。うげ、苦(に)げえ」

 すると男の顔が見る間に真っ青になった。人間も色が変わるのか? 雨蛙は周りに合わせて体の色を変えられる。木にいるときは枝と同じ茶色だ。いまは蓮の葉の緑色。そんなことを血がのぼった頭の隅で考えていたら、男が口をぱくぱく、呻くように言った。

「……蛙が立って……しゃべってる」

 バカじゃねえか、こいつ。

「なに、おかしなこと言ってやがる。そんなこと――」

 そこでひょこ助も気がついた。

 おいら立って、おまけに人間の言葉をしゃべってる――

「えっ、えっ、なんで?」

 ひょこ助は立っている後ろ足に目を落とし、白い腹を前足の吸盤でわっとさすった。

 それに、おいら、この男のしゃべっていることもなんでわかるんだ――

 そろそろと視線を動かし、そして男と目が合った。

「ぎゃあー」

「ひゃあー」

一匹とひとりの悲鳴が、明るい庭に盛大に響いた。そこへ雌の雨蛙が草むらからぴょこんとあらわれた。水の匂いを嗅ぎとってやってきたのだろう。間が悪いなんていっていられない。青梅のような体をつやつや光らせた、おいら好みのかわい娘(こ)ちゃんだ。逃しちゃならねえ。まだ痺れる体にうんと力を込め、ひょこ助はいつものように鳴いた。

「ようよう姉ちゃん、べっぴんさんだねえ。おいらと子どもをつくらないかぁーい」

 あのケロケロが、人間の言葉ではこうなるらしい。雌の蛙は立って鳴いているひょこ助に冷たい視線をくらわすと、そっぽをむいて草むらへと消えていった。

「おい、待ってくれよ。ああ……」

 ひょこ助は、蓮の葉の上にがくりと膝をつき、うなだれた。

「だめだ。おいらの蛙生(かえるせい)は、もうお終めえだ」

 池の縁にいる男が「ごめんよ、本当にごめんよ」と詫びていた。

「わたしのせいだ。わたしが薬を池に投げ入れてしまったから、こんなことに」

「そうだ ぜんぶお前のせいだっ・・・・・・」

 そこでひょこ助は初めて男をまじまじと見た。大人というにはまだ若い、眉を思いっきり八の字にした、見るからにひ弱そうな男だった。総髪で、ひょろりと細い体に筒袖を着ている。これは医者がよくする格好だ。 前にいた年寄りの蛙からいろいろ教わっていたから、 ひょこ助だって人間の暮らしのことなら大概のことは知っている。ここは医者の屋敷の庭だということも教えてもらっていた。 そうか、だから薬かと腑にも落ちた。

 すると、このひ弱そうな若い男も。だったら――。

「おい、おいらを元に戻せ。 いますぐ治せ。お前、医者だろ」

 ひょこ助は蓮の葉の上にすっくと立って、男に命じた。

「わたしは見習いだよ」

 ようするにまだ半人前。わかる? と男は言い、だから無理だと胸の前でふるふると手を振った。

「なにが無理だ。 こちとら見習いもへったくれもねえ。てめえのしたことに始末をつけろ。さもねえと、ひと晩中池で喚いてやるからな」

「そんなあ」

 しかし若い男も責任を感じているようで、薬でこうなったのは間違いない。まずは薄めることが先決だと、手に持っていた盆をこっちへ恐ごわ差し出してきた。

「ここへ乗っておくれよ。 とにかく部屋にいこう」

 庭を突っ切り、廊下を上がってすぐの部屋に連れて行かれ、ひょこ助はそこでしこたま水を飲まされた。 男が急いで持ってきた水鉢で体も洗った。 ごしごしやっている間に、男はまた庭におり、池の水を替え、他にひょこ助みたいなものがいないか確かめ、いないとわかるとほっとした顔で戻ってきた。

 ひょこ助のほうは、それからいくら体を洗っても、腹が水でたぽたぽになっても、元には戻らなかった。

「治らねえじゃねえか」

 そしてもうひとつのことに、ひょこ助は気がついた。 体の色が変わらない。ずっと緑色のままなのだ。

「どうすんだよぉ」

 ぐったりするひょこ助の傍らで、男は本をぱらぱらめくっている。

「呑気に絵草紙なんか読んでんじゃねえぞ」

 こっちは生きた心地もしねえってのによ。

 男は「絵草紙なんてよく知っているねえ」と驚いた。

「ふん、おいらはなんでも知ってんだよ」

 年寄りの蛙とは、一緒に楓の枝の上から通りをゆく者たちを眺めたり、この屋敷に入り込んでは、人間たちのすることを覗いていた。いまとなっては懐かしい思い出だ。

「じゃあ、母上や家の女中たちが、蛙がいるってときどき騒いでいたけど、あれはお前だったのかい」

 男は破顔し、でもこれは絵草紙ではなく、本草学の本だよとひょこ助に教えた。

「生薬のことが詳しく書かれていてね」

 投げ入れた薬を調べているという。

「あっ、体に毒なものはないから安心して。大方は女のひとの血の道に効く薬だよ」

「おいらは男だ。それに蛙だ」

 ひょこ助は喚いた。

 男は首をすくめ、まだ薬が薄れていないからかもしれないね、でも、ひと晩たてば治るからと言った。

「本当だな」

「きっと、たぶん」

「なんだよ、はっきりしねえな。だいたいてめえがだな」

「だからごめんって。 今夜はここに泊まっていいからさ」

「当たり前だ」

「そうだ、名前はなんていうんだい」

 男は直弥と名乗った。今年十七の、この家の次男だと告げた。

「蛙に名前なんてあるもんか」

「じゃあ、つけようよ」

 直弥は「そうだなあ」と考える。 しゃべる蛙にすっかり慣れたようだ。

「ねえ、ひょこ助はどうだい。 早口ことばに、かえる一ひょこ三ひょこひょこってあるんだよ」

「ふん、 勝手にしやがれ」

 こっちはまったく慣れない。 不貞腐れて、そばにあった手拭に包まった。

「じゃあ決まりだ」

 その夜、ひょこ助は直弥と一緒に寝た。 といっても直弥は布団で、ひょこ助はその枕元の手拭が敷かれた茶碗のなかだ。枕行燈の灯が小さくゆれ、周りに積み上げられた本の匂いが微かにした。

「なあ、どうしてあんなことをしたんだ」

 まだ眠らず、じっと暗い天井を見つめる直弥に、 ひょこ助は訊いてみた。 半日しか共にしていないが、乱暴者には思えなかった。 それがどうして池に薬なぞぶちまけたのか。

 直弥は天井に目を向けたまましばらく黙っていたが、ひとつ息を吐くと、

「わたしの父上は腕のいい医者なんだ」と話し出した。

 ここは浅草元鳥越町という。近くに蔵前や武家屋敷がある土地柄、評判を聞きつけてやってくる患者には、町家の者だけでなく、 札差など裕福な者も多く、ときには大名屋敷からお呼びがかかることもある。そのうえ去年の暮れには、長崎から蘭方医術の修行を終えた兄が帰ってきて父親を手伝うようになったことから、こちらの評判も高くなり、待合はいつも人でごった返している。

 しかしこの日は珍しく患者が途切れた。

 待合の横にある小座敷で父親と兄は休息をとり、直弥はその横で、他に数人いる見習いたちと晒を切っていたのだが、父親が突然に「直弥、お前も兄のように長崎へ修行にいけ」と言い出した。 直弥はわかりましたとは答えられなかった。 自分にはとうてい無理だと思った。 兄が長崎から持ち帰った医学書を見ただけでわかる。人の体を刃物で切るなぞ、 恐ろしくてできない。それがたとえ医術であってもだ。

 そんな直弥を父親は意気地がないと嘆き、兄をみろと叱った。

(つづく)

 

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作家
宮本 紀子(みやもと・のりこ)
京都府生まれ。兵庫県在住。2012年『雨宿り』で第6回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。『始末屋』『狐の飴売り 栄之助と大道芸人長屋の人々』『小間もの丸藤看板姉妹』シリーズ、『おんなの花見 煮売屋お雅 味ばなし』など著書多数。