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災害と生きる日本人 ~震災大国を生き抜くための先人の知恵~(中西進×磯田道史)

 202411日、石川県能登地方を中心に最大震度7の強い揺れを観測した「令和6年能登半島地震」。発生から1カ月余り経ったいまも多くの方が避難所での生活を余儀なくされており、支援活動も続いている。

 世界のなかでも自然災害の割合が高い日本。阪神・淡路大震災 (1995年) や東日本大震災 (2011年) での被害は記憶に新しい。そんな災害国・日本を先人たちはどう生きたのか。

 万葉集研究の大家にして文化勲章受章者の中西進氏と、全国の震災や津波の史料を収集・研究してきた歴史学者の磯田道史氏が対談。日本人が本来持つ人間観、人生観、共生する知恵、そして震災がもたらした教訓について語る。

(※本対談は、20193月に刊行した『災害と生きる日本人』より一部抜粋したものです)

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「震災後」ではなく「災間」を生きる日本人

磯田 僕の母方の家系は徳島県の牟岐 (むぎ) という港町から出ています。1946年、当時2歳だった母は昭和南海地震の津波で行方不明になりました。牟岐では代々「大地震が起きたら山へ逃げろ」と言い伝えられていたのですが、皆で裏山へ逃げたら僕の母だけがいません。
 幸い母は、どうやって裏山へ逃げ登ったのか、日の出と共に、にこにこ笑って、よちよち山から自分で歩いて下りてきたのだそうです。ですから僕は「南海トラフ地震と津波は先祖代々の仇だ」と考えて、歴史津波も研究しているのです。

中西 磯田さんはかつて茨城大学に勤めていらっしゃいましたが、東日本大震災の翌2012年、浜松の静岡文化芸術大学に転勤しています。勤め先を変えたのは、ひょっとして南海トラフ地震や東日本大震災と関係していますか。

磯田 東日本大震災が起きたあと「年をとってから防災に関する歴史の本を書いても、そのときは間に合わないのではないか」と、はたと気づきました。南海トラフが次に動いて巨大地震が起きたとき、想定される死者数が一番多いとされるのが浜松です。そこで家族揃って浜松に移住し、古文書を探して4年間、現地を歩き回りました。
 火山列島であり、震災大国である日本は、歴史を通じてつねに大震災や津波に襲われ続けています。その日本の陸地面積は、地球上のすべての陸地の0.24%でしかありません。

中西 統計を調べてみましたら、ロシアの陸地面積は世界の11.5%、カナダは6.7%、中国やアメリカは6.5%、ブラジルは5.7%です。日本がいかにちっぽけな国かがわかります。

磯田 にもかかわらず、日本と周辺海域で起きる地震は、世界で起きるすべての地震の5分の1に達するのです。
 これだけ狭い国土で世界の2割の地震が起きているということは、つまり日本人は他の地域の数千倍の確率で地震に遭うわけです。
 私たちは「東日本大震災後」を生きているのではなく、「災間」(災いと災いの間) を生きているのです。

「無い」ことのつらさと「有る」ことのありがたさ

磯田 和辻哲郎は『風土 人間学的考察』(岩波文庫) という著作の中で日本人の性格を台風に喩えました。
 モンスーン (季節風) が吹いて四季がくっきり分かれる風土で暮らす日本人は、一時の突発的感情によって行き過ぎることが多いというのです。非日常的なことが起きたときにはとても盛り上がるが、風が行き過ぎるとすぐに静かな生活に戻ってしまう。これが日本人の特徴だというのです。
 このような一過性があるとすれば、防災対策には、ちと、向きません。私たちは「災間」を生きているのです。それを自覚し、いまから次に起きる震災への防災減災対策を打ったほうがいい。

中西 大きなスパンの中で東日本大震災からの時間を考えるのは、貴重なことだと思います。日本人は忘れやすいと言われています。しかし、「忘れ形見」という言葉があるくらいでして、「忘」という字には「残す」という意味もあります。
 目に見えるものは忘れてしまっても、本質的で大切な事柄は記憶にしっかりと残す。震災や津波のように自分にとって不利益なことであっても、必ず記録として残していく。これは日本人の特性ではないでしょうか。
 じつは日本を代表する花の一つに椿がありますが、椿はもともと熱帯の植物ですから、脂肪分や熱エネルギーがたくさんあって長持ちします。それに対して桜は春の一時期だけパッと咲いてパッと散ってしまいますが、日本人はかえって桜に永遠性を見出しましたね。平安時代の内裏には「左近の桜」と「右近の橘」※を並べて植え、姿を変えながらも確実に残っていく永遠性を愛でました。
※平安京の正殿「紫宸殿」に植えられた桜と橘。桜は最初梅だった。紫式部『源氏物語』にも記述が見られる。

磯田 桜は必ず散ってしまう。「無い」という状態を知っているからこそ、「有る」ことがありがたい。日本人はさまざまな記録を書き残し、震災と津波によって亡くなっていった人たちの記憶を後世に伝えてきました。自分たちが「災間」を生きていることを自覚し、災害の記憶を必死で伝承してきたわけです。
 日本人は忘れやすいですね。それはよいことでもありますが、困ったこともあります。そういう日本人が、東日本大震災の悲惨な経験によって「自分たちはいつ震災と津波に襲われてもおかしくない」ことに気づきました。震災によって多くの人が「無い」ことのつらさを痛いほど思い知り、同時に「有る」ことのありがたみに気づいたのです。

戦国武将がこしらえたテトラポッド

磯田 村上鬼城が詠んだ〈生きかはり 死にかはりして 打つ田かな〉という俳句を見たとき、僕はこの国らしいあらわしだと感じました。自分一人の人生だけを考えるのではなく、親子代々生まれたり死んだりしながら田んぼを耕し続けるさまを見て、鬼城の口から、こんな句がぽっと出た。

中西 種田山頭火の〈街はづれは墓地となる 波音〉も死を「状態」として相対化した俳句です。日本の俳人は、欧米の詩人とは違った独特の死生観を歌に詠んできました。

磯田 人間は死から免れることはできませんし、日本に住んでいる限り災害から逃れることはできません。

中西 「災害は悪である」「災害をゼロにする」と考えている限り、防災対策はうまくいきません。すでに起きてしまった災害を「生かす」と考えてはどうでしょう。武田信玄は水害が相次いだ釜無川や笛吹川に「信玄堤」と呼ばれる独特の堤防を築き、洪水をうまく防ぎながら、一方で田んぼの用水路を整備していきました。「災害を無くす」のではなく、「災害を生かした」典型例です。
 木で造ったテトラポッドのような障害物を川底に置き、頭だけを水面に突き出しておく。これは「聖牛」と呼ばれる防災設備です。「聖牛」を置いておけば、激しい水流のエネルギーを分散できます。聖なる天の水に尊敬の念をもちながら、災害をうまく避ける。戦国武将は驚くべき智慧を働かせ、民衆を守りました。

寺田寅彦の『天災と国防』

磯田 僕は「防災」という言葉よりも「減災」という言葉のほうが好きなのですよ。災害を完全に防ぐことは無理ですしね。「天災は忘れたころにやって来る」という名言を残した寺田寅彦は、『天災と国防』(講談社学術文庫) という著作を書いています。
 人間は災害の被害を小さくはできても、天災の発生そのものをコントロールできません。一方、国防は100%人間ごとですから、人間の叡智で発生自体がコントロール可能なはずです。国防とは一見対照的な天災を並べて論じたのが、寺田のおもしろいところです。
 日本人はつねに天災にやられ続けてきましたから、天災が起きること自体は防げない。ならば柔道の如く天災を受け流したり受け入れたり、はたまた天災を生かして「信玄堤」のようなものを造り上げてきました。
 ひるがえって世界の政治はどうでしょう。発生を防げるはずの戦争対策には巨額の予算がつくのに、発生を防げぬ天災対策にはなかなか予算がつきませんね。政治家は「天災は忘れたころにやって来る」という言葉をあらためて嚙みしめ、直すべきではないでしょうか。

中西 『天災と国防』に関連して言うと、私は戦争は災害、それも「権力災害」だと思います。私が過去に経験した最大の災害は、戦争でした。私は戦時中広島に暮らしていまして、原爆が落とされる2年前に東京に引っ越しています。ですから私の同級生は原爆で大勢死にました。米軍機から機銃掃射も受けています。敗戦直前の東京なんて、あたりにはゴロゴロ死体が転がっていたものです。焼夷弾の空襲を受けて窒息死する人が多く、多くの遺体には外傷はありませんでした。
 ものすごい爆風を受けた死体は、服が引き剝がされて丸裸になってしまいます。「真っ黒な煤にまみれた蠟人形」としか形容しようがない遺体が大量に転がる、それは身の毛のよだつ光景でした。

磯田 戦争がこのような悲惨な結果を引き起こすことを、当時の権力者や外交官が知らなかったはずはありません。第一次大戦を見ていますから。

中西 外交の最終手段が戦争であって、話し合いが一切成立しなくなったときに国家は戦争を始めます。やむなき非常手段として戦争を始めたどころか、権力者や外交官は寛容と愛の精神をはなから捨ててしまった。太平洋戦争はまさに「権力災害」です。
 『戦争と平和』という歴史小説で有名なトルストイは兵隊としてクリミア戦争に参加し、その体験を『五月のセヴァストーポリ』という小説に書いています。その中で彼は「外交官が解決できなかった問題が、火薬と血で解決されるわけもない」と言いました。
 愚かなことに、150年前から権力者は外交の失敗を戦争で補ってきたのです。戦争を「権力災害」ととらえると、寺田寅彦が天災と国防を二つ並べて語ったのはうなずけます。


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国文学者・国際日本文化研究センター名誉教授・文化勲章受章者
中西進(なかにし・すすむ)
1929年東京都生まれ。東京大学大学院博士課程修了。国際日本文化研究センター教授、大阪女子大学学長、京都市立芸術大学学長などを歴任。日本文化の研究で知られる。日本学士院賞(1970年)、瑞宝重光章(2005年)、文化勲章(2013年)、韓国・昌原KC国際文学賞(2022年)。


歴史学者・国際日本文化研究センター教授
磯田道史(いそだ・みちふみ)
1970年岡山県生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了。茨城大学准教授、静岡文化芸術大学教授などを経て、2021年より現職。古文書を入り口に、本、新聞、テレビなどを通して、日本人の営みと歴史を問い直す。2018年に伊丹十三賞を受賞。

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