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東日本大震災から13年――ダンボール・アートが繋いだ励ましの連鎖

東日本大震災・原子力災害伝承館で語り部として活動する遠藤昭三さん。
13年前、避難生活を送る中でダンボールを使って“こいのぼり”を作ったことがきっかけとなり、ダンボール・アートが大きな話題を呼んだ。
いじめ、病気、自殺未遂、そして大きな転機となった3.11――13年を経て今思うことを語っていただいた。
(『潮』2024年4月号より転載)

 

富岡町は桜の名所。津波の記憶と名所の桜を描いたダンボール・アートの作品(写真=筆者提供)

仕切りの壁に貼った“こいのぼり”

 ダンボール・アートを始めたのは、「ビッグパレットふくしま」(福島県郡山市)での避難生活をしていたときでした。東日本大震災が起きたとき、私は双葉郡富岡町に住んでいました。東京電力福島第一原子力発電所の事故によって避難を余儀なくされ、福島市の親戚の家に少しだけ住まわせてもらったあとに、郡山市での避難生活がスタートしたのです。

 私たちが避難所に着いたときには、すでに約2500名の方々がそこで生活していました。私たち夫婦が確保できたのは廊下の脇のわずか2畳ほどのスペース。段ボールで仕切って、そこで寝泊まりする生活が始まりました。

 ダンボールの仕切りには屋根がありませんので、プライベートの空間が一切確保できません。しかも、私たちのスペースは吹き抜けになっていて、2階や3階から丸見えなのです。せめて通行人の視線を避けようと自分で仕切りを高くしたところ、他の避難者から「邪魔だ」と苦情を言われました。被災直後だったので、避難所の雰囲気はとても殺伐としていたのです。

「邪魔だ」と言われても、プライベートは何とか確保したい。そこで考え付いたのがダンボール・アートでした。皆の心が和むのではないかと思い、ちょうど五月の端午の節句の時期だったので、廃棄用のダンボールを使って赤と青の〝こいのぼり〟を作り、仕切りの壁の外側に貼ってみたのです。すると、私が予想していた以上に多くの方が足を止め、大変に喜んでくださいました。

 避難所では、仕切りだけでなく食事のトレーにも毛布の代わりにもダンボールが使われていました。どこを見てもダンボールの茶色なのです。私のダンボール・アートは彩色しますので、色が付けられたことで皆さんの目に留まり、喜んでくださったのです。その日から、夜9時の消灯後に黙々と制作する日々が始まりました。

 

全国各地で展覧会を開催

 あるときに、一人の避難者から「猫の絵を描いてほしい」と頼まれました。話を聞くと、数日のうちに自宅に戻るつもりだったから、家に飼い猫を置いてきてしまったというのです。多くの避難者がその方と同じようにペットを自宅に置いたままの長期避難となっていました。猫を描いたことはなかったので、決して上手ではありませんでしたが、その方はとても喜んでくださいました。

 しばらくすると、インターネット上に迷い猫の情報が出回ります。なんと、その方の猫が家から脱走して保護されていたのです。その情報は奇跡的に飼い主に伝わり、その方はまた飼い猫との生活を再開することができたのです。このエピソードに着想を得て、私のオリジナルキャラクター「まけんニャー」が誕生します。

 私自身も自宅で金魚を1匹飼っていました。一時帰宅をすると、金魚鉢の水はほとんどなくなっており、金魚は死にかけていました。何とか薬缶(やかん)に水を張って連れ出し、避難所での3カ月の生活を終えて復興住宅に住み始めたときから、再び飼うことができました。人間以外にも生命があり、それらは同じように大切にされなければならない。そんな思いを込めて、猫や金魚をはじめとした動物の作品も数多く手がけました。

 そのほかにも、津波で流されてしまった富岡駅の駅舎や、震災前から観光地として有名だった「夜の森桜トンネル」など、地元の風景などもダンボールで描きました。2011年6月に避難所を出たあとも制作を続け、ありがたいことに、これまでに全国各地で展覧会を開催することができました。また、震災翌年にはニューヨークでも作品を展示していただきました。

 

震災前に味わった人生のどん底

 避難所でダンボール・アートを始めたころのことです。県外から慰問のために避難所を訪れてくださったある方からこんなふうに言われました。「避難所には暗い顔をした人が多いなかで、遠藤さんは違う。ニコニコしているのは遠藤さんだけだ」と。そう言って、大変ななかで前向きに頑張ろうとしていた私のことを励ましてくださったのです。

 確かに当時の私は、ダンボール・アートの制作に励むだけでなく、避難所で顔を合わせる人に積極的に挨拶をしたり、知り合った人たちに新聞を届けたりと、与えられた環境のなかで、自分なりの取り組みを行っていました。なかには意地悪な反応をする人もいましたが、相手にどう思われるかは関係ない。あくまで自分自身の挑戦のつもりだったのです。そんな私の心がけが、表情に出ていたのでしょう。

 とはいえ、私は何も以前から周囲のことを思いやって何かをするような人間ではありませんでした。むしろ、震災前は人生のどん底にいて、自ら命を絶とうとしたこともあったのです。

 震災前の私は原発内にあった食堂で働いていたのですが、上司からの酷いパワハラに悩んでいました。なんとか耐えていたものの、ハラスメントは延々と続き、とうとううつ病と十二指腸潰瘍を発症してしまいました。さらには、「うつ病の人間は使えないから」との理由で雇い止めをされてしまいます。その頃、妻は葛尾(かつらお)村にある実家と富岡町を行ったり来たりの生活をしており、長いときには、1週間ほど家を空けることもありました。ですから私はまともに話をする相手もいなかったのです。

 うつ病と十二指腸潰瘍を発症し、仕事もクビになった。もう生きていても仕方ないと思い、あるときに妻が服用していた処方薬を大量に飲んでしまったのです。病院に運ばれ、3日間は意識がなかったようですが、何とか一命はとりとめました。妻には本当に悲しい思いをさせてしまいましたし、いま思えばなんて馬鹿な真似をしてしまったんだろうと思います。

 周囲の支えもあり、何とか持ち直して就職活動を始めたころに震災が起きました。職業安定所に行った帰りに、海辺を散歩し、自宅への帰路で地震が発生したのです。自殺未遂をしながら死にきれなかった自分には、生きる意味があるのかもしれない。そんなことを考えるようになった矢先の避難生活だったからこそ、ダンボール・アートが生まれたのかもしれません。

 特に福島の浜通りは、地震と津波だけでなく原発事故という複合災害に見舞われた地域です。多くの人が大変な思いをしたわけですが、私個人としては震災前の地獄のような日々を思えば、避難生活を大変だとは思いませんでした。むしろ、これほど大変な出来事が起きたのだから、これを機に大きく変わろうと思えたのです。

 

富岡町の砂浜にて。東日本大震災の津波によって海沿いの町は壊滅。当時、津波で打ち上げられた船が今もなお残っている(写真=編集部)

誰かを励ましたい災害を伝えたい

 この13年間を振り返って思うのは、本当に楽しかったということです。全国各地での展示など、震災以前には想像もしなかったことを経験できたのは、何よりの財産です。震災があったからこそ巡り会えた人たちがたくさんいますし、13年間ずっと応援し続けてくださった方も少なくありません。人生はかくも変わるものかと実感しています。

 応援し続けてくださった方々には感謝の思いしかありません。いまも震災のことを思い出すと、ときどき涙が出るのですが、それは悲しみの涙ではなく、周囲の人々への感謝の涙です。

 2019年からは語り部としての活動も始めました。ダンボール・アートにしろ、語り部の活動にしろ、自分自身が周囲を励ますために始めた取り組みですが、むしろこちらが励まされることのほうが多いような気がします。

 ダンボール・アートの展示会を行う際には、常に私が会場にいられるわけではありませんので、来場者に感想を書き込んでいただくノートを置くようにしています。そのノートに書いてくださった感想を見ると、私のほうこそ心が動かされることがあるのです。また、直接お話をした方のなかには、涙を流しながら感想を言ってくださる人も少なくありません。来場者のそうした反応を見るたびに、今後もダンボール・アートを続けなければならないと強く思います。

 制作を始めたころには、まだまだ私のスキルも未熟で、まったく見向きもされなかったときもあります。とても辛かったですが、「今度は立ち止まらせてやろう」という思いで、技術を磨いてきました。

 震災直後はさまざまな取材を受けましたが、時間の経過とともにそうした機会は減っていきました。

 でも、私はアートがやりたくてやっているわけではなく、自己満足や自分の利益のためにやっているわけでもありません。目立ちたいわけでもない。ただ、誰かを励ましたい、未曽有の災害を伝えたい、といった思いで制作に励んできました。その思いが皆さんに伝わっていくのだと思います。

 

仮設住宅に移り、初めて迎えた結婚記念日を記念して作成した作品。右のキャラクターが「まけんニャー」(写真=筆者提供)

何があっても困難に負けない

 元日に起きた能登半島地震の犠牲者の方々のご冥福と、いまなお避難生活を余儀なくされている方々の1日も早い生活再建を日々祈っています。

 被災者の皆さんはきっと、先行きが見えず、未来に対しての大きな不安に苛まれていると思います。13年前の私もそうでしたが、先のことを考えれば考えるほど、不安は大きくなってしまいます。振り返ってみると、未来のことではなくいま目の前のことに一生懸命に生きようとすればおのずと未来は開けていくものです。必要以上に先のことを考えてしまうと、どうしても諦めが先立ってしまうような気がします。

 諦めないためにも、いま目の前のことに懸命になる。生かされた命を大切にして、決して諦めることなく、まわりにあるものや人を大事にしながら、一歩ずつでよいので前に進んでいただきたいと思います。決して「自分は一人だ」なんて思わないでください。

 数年前に葛尾村にある妻の実家を解体し、そこに一面のヒマワリを植えました。今年も植えようと思っていたのですが、じつは先日、前立腺腫の宣告を受けてしまい、これから手術や治療をしなければなりません。私自身も決して諦めることなく、なんとか乗り越えてもう一度ヒマワリを植えたいと思っています。

 生まれてきたからには諦めてはいけない。何があっても困難に負けてはいけない。ダンボール・アートや語り部の活動では、そんな思いも伝えてきました。そうしたメッセージを発している以上は、私自身も、がん患者や被災者としてではなく、挑戦者としてこの人生を最後まで生き切っていきたいと思っています。

 

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ダンボールアーティスト
遠藤昭三(えんどう・しょうぞう)
1955年福島県生まれ。2011年に東日本大震災で被災。当時、福島県双葉郡富岡町に居住していたが、東京電力福島第一原発事故で富岡町から避難。現在は、東日本大震災・原子力災害伝承館(双葉町)で語り部としても活動中。

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