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幸福になりたい――「負けない人生」の歩き方――【書籍セレクション】

2022年刊行のロングセラーエッセイ「負けない人生」。
古川智映子さんの波乱万丈の人生とすべてを幸福に転換しゆく生き方は、刊行以来多くの共感と支持を集めています。

「いま悩み苦しんでいる人がいたら、奮起して宿命と取り組んでいただきたい。何としても幸福になっていただきたい。負けない人生を歩んでいただきたいと思う。そういう願いを込めて、このつたない文章を綴った。」(あとがきより)
という古川智映子さんの思いが込められた「負けない人生」の一部を抜粋してご紹介します。

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1 私の生きていくテーマ

 手元に1冊の本がある。本の題名は『幸福』、作家宇野千代が女流文学賞を受賞(1971年)した表題作を含む短編集である。

 ずい分と前のこと、私は『大白蓮華』の依頼で、この作品の書評を書いた。本には7つの短編が収録してあって、「幸福」はその冒頭にあげられている作品である。

 主人公の名前は一枝(かずえ)、姓は書かれていない。筆者は一枝の幸福を、いや不幸を、さらさらとした文章で綴っている。

 一枝は、夫が愛人と暮らすために家を出ていったことを不幸と思わないようにした。人が不幸だと思うようなことでも、人から見たらおかしいと思われるようなことでも、不幸だとは思わないようにして生きている。自ら幸福のかけらを拾い集め、身の周りにきらきらさせながら暮らしている。

宇野千代〈1897-1996〉(写真提供:国会図書館)


 そしてこの作品の極めつけは、「愉しい。それが一枝の生きていくテーマである」という一文である。

 人生半ばにして、私も一枝と同じ目に遭わねばならなかった。東京都内の有名私立大学で教えていた夫が女子学生と恋愛関係になり、一緒に住むために家を出て行った。でも私は一枝のように不幸と思わないようにはできずに、苦しみ抜いた。夫の薄給時代を共働きで支え、助教授(准教授)になり、有名設計家による家を建てることもできた。商店以外のサラリーマンなど町内では誰ひとり車を持っていない時代に、日産のブルーバードを買うこともできた。努力し、願いのほとんどが叶ったのに、そして近隣では仲睦まじい夫婦と言われていたのに、どうしてこんなことになってしまったのであろう。

 いくら考えても結論は出ず、昼も雨戸を閉めたまま、食事もろくにせずに、家の中で息をひそめていた。そのときからもう60年近くが経過している。しかし当時の苦しみは、いまも鮮明に記憶に残っている。

「愉しい。それが一枝の生きていくテーマである」という文章を置き換え、「幸福になりたい。それが私の生きていくテーマである」というのが、当時の私の心境であった。この苦しみから早く脱したいと願った。

 

2 わたしがいたらないから……

 家を出て女子学生と一緒に暮らし始めた夫は、勤務先の大学にはそのことを伏せていた。家を新築して日が浅く、家には電話がまだついていなかった。当時は電話を引くための申し込みをしても、電話がつくまでにはかなりの時間がかかる時代であった。そのために、大学からの緊急連絡があるときには、電報が使われた。

 春休み中に、大学から緊急の会議がある旨の電報がきたことがあった。しかし夫は、家にはいない。会議のことを知らなければ、当然無断欠席をすることになる。

 いま考えると、なんというお人好しと思うのだけれど、夫に恥をかかせまいと、私はその電報を持って夫のいるマンションまで行き、郵便受けに電報用紙を投函して帰ったこともあった。

 一人っ子で大切に育てられ、人に裏切られたこともなく、人に意地悪をすることも知らないほど大様(おおよう)に育てられた私。突然自分に降りかかってきた人災にただうろたえ、なすすべを知らなかった。

 夫は家を出るとき、ほんのわずかな身の周りのものしか持っていかなかった。本棚などはそのまま、そのために本が必要になったときには、書名をメモした紙をその女子学生に渡し、自分が来ずに彼女に家に取りに来させた。気の強い妻なら、おそらく玄関から彼女を追い返したことであろう。でも気が弱くて意気地なしだった私は、それができずに彼女を家の中に入れ、書斎に隣接したリビングにうなだれて座っていた。帰るとき、書斎から玄関に行くのには、どうしてもリビングを通らなければならない。

「あなたがいたらないから、先生がわたしのほうに来るのよ」

 彼女は帰り際にそんな捨て台詞を残し、勝ち誇ったような表情で出ていった。

 何というふがいなさ、当時の私は弱虫の泣き虫、気弱で言い返すこともできずに涙を流した。そして「わたしがいたらないから、わたしがいたらないから」とつぶやいて自分を責めた。

 

3「絶対に幸せになれます」

 夫がいなくなって、一番困ったのは生活費のことであった。前の教員の職は長く勤めていなかったので、退職金がそう多くはなかったが、それがいつの間にか夫に持ち出されていた。ほかにもあったはずの貯金もなくなっていた。年金がつくほどの年数は勤めておらず、私には収入がない。近所の野原の野草などを摘んで食べたが、そうした生活を長く続けるわけにもいかず、働かなくてはならないと思った。教員の仕事は学年の途中で見つからず、履歴書には大学卒業と書かずに、カレー工場の作業員やビルの清掃員などをして糊口(ここう)をしのいだ。

 幸せになりたいと思った。そう願えば願うほど、幸せから遠い自分を感じなければならなかった。

 そんなある日、知り合いの母娘から、信心の話を聞いた。

「この信心をすれば、宿命転換できて、絶対に幸せになれます」

 32歳になるまで、私は創価学会のことを聞いたこともなかったし、何ひとつ知らなかった。

「この世の中に、人は必ず死ぬという以外、絶対と言えることなどあるのでしょうか」

「この信心だけは絶対なのです。必ず幸せになれます。幸せになりましょう」

 初めて聞く話には戸惑いがあった。反対はしなかったけれど、少し考え込んでしまった。

 母娘が繰り返し語った「必ず幸せになれます」という言葉が心に響いた。

 私はこれまでいい家庭を築こうと努力を惜しまなかった。それが最後にどんでん返しになってしまった。これからは、その幸せになれるという信心を基準にして生きてみよう。そんな気持ちが萌(きざ)して、私はその日のうちに入会を決意した。

 1965年(昭和40年)2月23日、私の新生の、蘇生の1ページが開かれる記念すべき日となった。

 悲しかったので、母娘から言われるとおりに信心に励んだ。勤行をし、題目をあげた。

 題目をあげると、沈んでいた心が明るくなる。爽やかな気持ちになり、しかも生きようという勇気が湧いた。題目には力があると実感した。誰に教えられたわけでもなく、自分でつかんだ体験であった。それからは、題目をあげて、あげて、またあげた。夏は汗をかく。仏壇の前の畳に両ひざの跡がつき、畳にくぼみが出来るほどに座って題目をあげ抜いた。

 

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※当記事は『負けない人生』から抜粋をしたものです。

 

続きが気になった方はこちらもご覧ください。

 

聖教新聞紙上に掲載され大好評を博した「古川智映子の負けない人生」の内容に著者自ら大幅に加筆し、1冊のエッセイ集に。
最愛の夫の裏切り、次々に襲いかかる病魔、NHK朝ドラ「あさが来た」の原案本『小説 土佐堀川』創作秘話まで。
日々を生きていくなかで著者が常に心に留めていたのは、「幸福になりたい」「負けない」という2つの言葉でした。

『負けない人生』 古川智映子著、定価:880円、発行年月:2022年10月、判型/造本:B6判並製/136ページ

商品詳細はコチラ

【目次】
1 私の生きていくテーマ
2 わたしがいたらないから……
3 「絶対に幸せになれます」
4 「ひとりを大切に」
5 前夫が入会!
6 「あなたはペンの道で、結果を出せる人です」
7 「やはり小説が書きたい」
8 広岡浅子との出会い
9 見え始めた浅子像
10 次第に明らかになる 浅子を取り巻く人物や環境
11 失明の危機を越えて
12 母を引き取りたい
13 上京した母が入会
14 『小説 土佐堀川』の発刊
15 「負けない、負けない、頑張れ」
16 母との突然の別れ
17 次々襲う病気の宿業
18 思わぬ人物とのつながり
19 人の意志ではどうにもならないこと
20 「あさが来た」の誕生
21 人との関係によってもたらされる幸福
22 何十年がかりで出せた結果
23 告げられた病名
24 大きな戦いをした後に最も大きな宿業が
25 信心を貫けば「きっと幸せの朝が来る」
あとがき

 

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