【スペシャルインタビュー】アグネス・チャンさん 母・リタさんと池田先生の思い出を語る
2024/05/20アグネス・チャンさんのお母様、リタさんは、今年の11月には「紀寿」(100歳の祝い)を迎えます。
今は介護を通じてあらためてお母様と向き合っているというアグネスさんに、思い出を語っていただきました。
(『パンプキン』2024年5月号より転載。撮影=後藤さくら)
アグネスさんのお母様、リタ・チャンさんは現在99歳。今年の11月には100歳の佳節を迎える。
90歳を越えたころに認知症を発症したが、お元気だという。
高齢の母のため、耳元で歌う
「もちろん、高齢ですから誤嚥性肺炎などの危険はあって、香港の介護施設でスタッフの方々に見守られながら暮らしています。
最近の私は、日本・香港・アメリカの3拠点生活です。母に会いに行くため頻繁に香港に帰りますし、3人の息子たちが暮らしているアメリカにもたびたび行っていますから」
認知症の進行で、もうアグネスさんのこともほとんどわからないというリタさん。だが不思議なことに、耳元で歌を歌ってあげると、その歌には敏感に反応するという。
「でも、CDなどで歌を流しても、まったく無反応。私の生歌にしか反応しないんです。母が若いころに香港で流行った歌を歌ってあげると喜んで、歌をやめると私の袖を引っ張って『もっと歌って』と催促します。子守歌を歌うと、スヤスヤ眠ります。
なので、私が香港で過ごしている間は、毎日母のためにミニコンサートですよ(笑)。
『歌手になってよかったなぁ。おかげで親孝行ができる』としみじみ思います」
リタさんは大地主の村長の娘として生まれ、恵まれた幼少期を過ごした。しかし、青春時代には日中戦争などの戦争続きであった。一時期はナイチンゲールのように従軍看護師として働き、そのころに軍人であったお父様と出会ったという。
今も心を律する母の言葉
「今の私たちなら、"戦争中は恋愛どころじゃない"という感覚ですが、両親は戦火の下で大恋愛したんです。むしろ、命の危険があるからこそ恋心が燃え上がったのかもしれませんね(笑)」
戦乱の時代を乗り越える過程でたくましくなったリタさんは、母となってから、子どもたちに「運命を自力で切り拓くことの大切さ」を教えた。
アグネスさんが心に深く刻んでいる母の口癖がある。それは、「打鐵還需本身硬」という中国のことわざ。「いい鉄を打つには、素材が硬く良質でないといけない」――つまり「自分が強くなることが何より大切だ」という意味だ。
「今でも、困難にくじけそうになったときとか、他人のせいにしたくなったときに、私の心にその言葉がフッと浮かびます。ずっと私を律している言葉です」
「身を粉にして働く」のが当たり前
「若いころの母のイメージは、『厳しい人』というより『忙しい人』でしたね。子どもが多かったこともあって、毎日朝から晩まで忙しく働きづめ。でも、そのことを愚痴ることなんてまったくなくて、いつも身を粉にして働くのが当たり前、という感じでした」
アグネスさんの下の弟さんを身ごもっていたとき、臨月の大きなお腹のまま洗濯していたリタさんは、陣痛がくると、自分一人で歩いて病院へ行ったという。まさに「強き母」であった。
「母が特別というより、あの時代のお母さんって、みんな働き者でしたよね」
日本デビュー後、香港におけるアグネスさんの芸能活動を、リタさんがマネージャー的役割となって仕切っていた時期がある。
「母は働くことが苦にならない人なので、私の仕事も詰め込めるだけ詰め込んでしまうんです。香港に2か月いる間、すごい過密スケジュールで、ドラマ1本、映画2本を撮影して、アルバム2枚を作ったこともありました。『お母さんにマネージャー役をやらせていたら、アグネスが過労死しちゃう』と姉たちが騒いで、その役割から外れたんです」
デビューで母の心配を払拭できた
それでもアグネスさんは、一時期リタさんと二人三脚で芸能活動ができたことを、「母と一緒に過ごす時間もできたので、とてもよかった」と感じているという。
「 貴州省で生まれた母は、広東語が話せないんです。広東人の父と結婚したので、父方の親戚に広東語が話せないことを揶揄されて、つらい日々を過ごした時期もあったようです。
そんな母が、芸能界のきらびやかな部分にもふれることができて、喜んでいました。家事や子育てだけではない別の世界を見せてあげることができたので、親孝行にもなったと思います」
芸能界での成功が母への親孝行――そう感じている理由は、もうひとつある。
「母にとって、子どものころの私は一番の心配の種だったんです。というのも、『自分にしかない力や才能で人生を切り拓いていくべきだ』と考える母から見て、私には何の才能もないように見えたからです。
私の5歳上の姉はだれもが認める美人で、俳優になりました。学力抜群だった2歳上の姉は、医師になりました。姉妹のうち私だけが目立った取り柄がなかったのです。身体が小さかったし、照れ屋だったし、学校の成績もよくなかったし……。母はいつも『この子は大人になってからどうやって生きていくのだろう?』と、私の行く末を心配していたのです。でも、歌手デビューできたことで、やっと心配をなくしてあげることができました」
闘病を支えてくれた母のお汁粉
アグネスさんは、2000年代に乳がんと唾液腺腫瘍という2つの病気を経験した。そのときにも、リタさんの激励は大きな支えになったという。
「母はどんな苦難に出合っても弱気なところは見せない人ですから、私の病気についても激励と叱咤の嵐でしたね。『乳がんになって治った人は、私の知り合いにもたくさんいる。だから大丈夫だ。絶対に治る! 弱気になったらダメだと……。
唾液腺腫瘍では、手術後に片側が顔面麻痺になってしまった時期があったんです。その時期に香港に行ったら、『お汁粉を毎日飲めば治る』と母に言われました(笑)。
それは、日本のお汁粉よりもっとサラサラしたお汁粉なのですが、香港ではものすごく健康にいいと信じられていたんです。子どものころには『頭がよくなるから飲みなさい』とよく作ってくれましたし、神経系の病気にも効くと母は信じています。なので、香港にいた2か月ほどの間、毎日お汁粉を飲みました。母が作ってくれたのではなく、お汁粉を作って飲みなさいと私に命令するのです。母らしいですよね(笑)」
幸い、唾液腺腫瘍は後遺症を残すこともなく全快した。
「母の気持ちの中では、間違いなく、『お汁粉のおかげで治った』ということになっているでしょう。もちろん、実際はそれだけではないでしょうが、お汁粉が闘病の支えのひとつになったことは確かです」
病気に対してだけではなく、我が子が直面するあらゆる人生の苦難に対して、リタさんの姿勢は常に一貫している。「決して弱気になってはいけない。自分が負けていないと思っている限り、いつか乗り越えられる」――そんなふうに叱咤激励する母なのだ。「ああ、かわいそうに」と、自分の子どもを優しく慰めたりはしないのである。
いつか、母の人生を小説に
「母は小柄でかわいらしい女性です。でも、見た目とは裏腹に、すごく強いんです」
アグネスさんがお母様を一言で形容するとすれば、「負けない人」だという。
「彼女にとって、最終的に勝つことは決まっていて、当たり前なんです。もちろん、たまに失敗することはあるけれど。そんなときにも心が折れない。信じ続ける強さを保ち続けられる人なのです。
その背中を見つめて育ったから、私はどんな仕事もがんばることができましたし、困難にも負けませんでした。子は親の背中を見て育つんです」
アグネスさんは、いつかリタさんの人生を自らの手で小説化したいと考えている。
「母の人生は波乱万丈でドラマチックです。たとえば、すごく裕福な時代もあれば、父が友人の保証人になって大きな借金を背負った貧しく苦しい時代もありました。小説にしたらきっとおもしろいだろう……そう思ったのです。
それに、過去100年間の中国・香港の激動の歴史を、母という一人の女性の人生と重ね合わせて描けると思うんです。単なる個人の思い出話に終わらない広がりが、そこには生まれると思います」
以前、その小説を書き始めたものの、ありのままを赤裸々に書くことへのためらいもあり、一度中断していた。だが、リタさんの紀寿を目前に控えた今、もう一度小説化へのチャレンジを始めているという。
「これを小説に入れたら母のイメージが悪くなるんじゃないか、と感じたエピソードについて、あらためて考えてみると、その多くは母らしさに満ちたエピソードなんですね。それを削ってしまったら、当たり障りない内容にはなっても、おもしろくはない。
私は娘だからつい"完璧な母"を求めがちですが、世の中に"完璧な母"なんて、実際にはいないですよね。短所と長所が混在している一生懸命な母を飾らずに書いたほうがおもしろいんじゃないかと、考え直しました」
リタさんの人生を一冊の小説にまとめること自体、類のない形の親孝行になるだろう。
2度にわたって池田大作先生と出会いを重ね、先生の作詞による歌も大切に歌い続けてきたアグネスさん。池田先生の思い出と、今の思いを伺いました――。
池田先生と週刊誌の対談で初めてお会いしたのは、1973年のことでした。日中国交正常化の翌年です。香港から日本に来たばかりだった私を、両国の架け橋という意味合いで、対談相手に選んでくださったのだと思います。
当時、私は大学1年生で、芸能活動と学業の両立に悩んでいたのですが、先生から「両方がんばってやりきってください。健康には十分気をつけて」と励ましていただきました。
対談の中で先生は、「歌で世界中の人が仲よしになれます」と言われました。平和のために歌い続けるという使命を託してくださったのです。当時、私はまだ18歳だったので、そんなに重い意味が込められた言葉だとはわかりませんでしたけど……。
その後、2006年に「平和の文化と子ども展」(主催/創価学会女性平和委員会)に招かれたとき、1枚の写真パネルに目が釘付けになりました。池田先生が、海外の子どもたちと微笑みを交わす写真でした。それを見たときにひとつの思いが湧き上がり、展示を案内してくださった方に「池田先生から歌詞をいただくことはできないでしょうか?」と、無我夢中でお願いしていました。幸い、先生から長編詩をいただくことができ、それをもとに3曲を作って、当時制作していた平和をテーマとしたアルバムに収録しました。
そして、そのうちの2曲――「そこには幸せがもう生まれているから」と「ピースフルワールド」を、2007年12月度の創価学会本部幹部会で、池田先生・奥様の目の前で披露させていただいたのです。どんなステージで歌うよりも緊張しました。先生とは34年ぶりの再会でした。
歌い始めると、目の前に座っていた方々は、ほとんどの方が泣いていました。私はもらい泣きしないように、込み上げる涙を必死にこらえて歌い終えました。
そのころ、私は唾液腺腫瘍と乳がんを発病し、闘病中でした。特に唾液腺腫瘍は声を失いかねない病気であり、「あと何回歌えるだろう」と、歌うたびに思ったものです。2つの病の克服に至るまで、私自身が池田先生からいただいた歌に励まされたのです。先生の思想のいちばん大切な部分が凝縮された、素晴らしい歌詞だと思います。
池田先生が亡くなられても、私の心の中に先生は生き続けています。だから、寂しいけど、寂しくないんです。先生からいただいた歌を歌うたび、平和のために歌い続けるという自分の使命を思い出すのです。
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歌手・エッセイスト・教育学博士
アグネス・チャン(Agnes Miling Chan)
1955年、香港生まれ。
72年、「ひなげしの花」で日本デビュー。
上智大学国際学部を経て、カナダのトロント大学を卒業。89年、米スタンフォード大学教育学部博士課程に留学。94年教育学博士号取得。
98年、日本ユニセフ協会大使に就任。以来、世界の紛争地、貧困地域などを視察し、その現状を広くアピールしてきた。
ペスタロッチー教育賞、第50回日本レコード大賞特別賞など、受賞多数。芸能活動のみならず、エッセイスト、日本対がん協会「ほほえみ大使」などとして、世界を舞台に活躍。