「外部」と見た創価学会の現場 特別対談【佐藤 優×開沼 博】
2024/07/01聖教新聞で2022年3月から23年12月まで連載した企画「SOKAの現場」の全編を収録した書籍『「外部」と見た創価学会の現場』が発売されました。書籍化に際して収録した対談を特別公開します。
【記事のポイント】
●創価学会の内部と外部の境界の曖昧さと多様性
開沼氏は、創価学会の内部と外部の境界が非常にゆるく、多様性があることを強調。ヘビーユーザーからライトユーザーまでのグラデーションが存在し、一様な集団ではないと述べています
●創価学会の秩序の持続可能性
創価学会の秩序がどのようにして持続可能なのか、開沼氏はそのメカニズムについて深く探求しています。特に、学会員が「日蓮大聖人」や「三代会長」との師弟関係を真剣に感じていることが、集団意識を再生産し続ける鍵であると述べています。
●テキストの背後にある重要性
佐藤氏は、創価学会の信仰の中心にあるテキストの背後に存在する人物や教えの重要性を強調しています。これは、プロテスタントの信仰者が聖書を読みながらイエス・キリストを思い浮かべるのと同様であり、学会員が池田先生を思い浮かべることで信仰が深まると述べています。
創価学会のなかの「秩序」に迫りたい
開沼 私は、2022年から23年にかけて、「聖教新聞」紙上の連載で、かねて関心のあった創価学会の内実に迫るため、100名以上の創価学会員に話を聞きました。インフォーマルな出会いも含めると、この間にさらに多くの人に会い、日常の習慣を見せてもらい、参与観察(調査対象とする社会や集団のなかに身を置く調査方法)を進めてきました。
公称800万世帯という巨大組織が、どのような秩序によって成り立っているのか――。これが、私が創価学会の研究を始めるにあたって立てた問いです。そして、なぜ研究を始めたのか。それは、創価学会が不思議だったからです。これは多くの「外部」=非学会員にとってもそうでしょう。無関心を装っている人の中でも相当な興味をもっている人は多い。そして、分かった部分が増えるほど、不思議な部分も増えていくなという感覚で見ています。
佐藤 なるほど。具体的には何が分かったことで、何がまだ不思議に思っていることですか。
開沼 まず、私自身、生きてきた中で、創価学会員との接点は皆無でした。周囲では折伏されたという話とか、あの人は学会員だろうという人もいた。でも、「学会員と学会について話す機会」は一度もありませんでした。「外部」から創価学会を見る人の中には、他の宗教も含めてですが、「全体主義的な組織」「非科学的な思考をする人の集団」という紋切り型のイメージを持つ人は多い。
直近の旧統一教会問題、30年ほど前のオウム真理教事件、あるいは創価学会自体がという意味では半世紀以上前の言論出版妨害事件などと、メディアで流布される言説がその大衆意識を支えています。
佐藤 創価学会について正視眼で捉え、虚心坦懐に語る人があまりに少ないからと思います。
開沼 選挙の数字をみれば、少なくとも600万人以上の(創価学会が支持母体の公明党を支持する)人がその中や近くにいる。その全員が同質で思考停止して、例えば医者も弁護士も科学者も含まれる中で、非科学的盲信をしているわけではなかろうとも考えていました。
佐藤 実際に内部を見てどうでしたか。
開沼 時代によって変遷はあったのかもしれませんが、内部と外部の境目がこんなにゆるい、曖昧なものなんだ、とか、内部にもヘビーユーザーとライトユーザーのグラデーションがあるんだとか、意外な細部が見えてきました。折伏が激しいイメージもありましたが、時代や世代の中で変わってきていて、人によるとは思いますが、かなりふわっとしてきている。ただ、そんな曖昧でゆるい、多様性がある集団だとすれば、まとまるべきときにまとまらなくなるはずで、そこはどういうメカニズムで集団意識を再生産し続けているのかまだ良く分からない。特に学会員=内部の人が「日蓮大聖人」「三代会長」との師弟関係を真剣に感じている。そういう人が本当に多いのは、なぜそうなり得るのか、外部の私からは理解しきれません。
他方で、創価学会については、佐藤さんや田原総一朗さんが外部の人々にも読める本を書かれています。改めて本を読むことで、自分の理解の濃淡を認識できました。
佐藤 理解できた部分と理解できていない部分の境界線はどのあたりにありますか。
開沼 私自身の関心は、宗教の根幹にある教義や週刊誌等が好む池田大作氏や組織幹部についてではなく、なぜ・いかにその巨大な集団の秩序が持続可能なのかという点にあります。その意味では、教義に関わる部分は理解しきれず、一方、生活上の実践についてはだいぶクリアになりました。
佐藤 創価学会は2014年に、従来の教学を一部見直して、独自性を明確にし、世界宗教として新たな段階へ飛躍するために教義条項を改正しています。私はそのことが聖教新聞紙上で発表されたときに、キリスト教の神学の歴史に照らして「これは100年事業になるな」と感じました。
世界宗教の正典(キャノン、規範となる経典のこと)は閉じていなければなりません。2018年に池田氏の『新・人間革命』全30巻・31冊が完結し、『人間革命』全12巻と合わせた創価学会の「精神の正史」「信心の教科書」はこれ以上増えない形で閉じました。そして、『日蓮大聖人御書全集 新版』を、池田氏が監修する形で刊行しました。『人間革命』と『新・人間革命』、そして新版御書――この三つによって創価学会の正典は閉じたわけです。
開沼 いま教義としては一つの全体像が確立された、その直後の時期にあたると見るべきだということですね。
佐藤 私はそう考えています。創価学会のこの三つの正典の量は、おそらくキリスト教の聖書の5倍くらいはあると思います。これは、正確に暗唱することはできないけれども、「あそこにあの話があったな」という形でランダムアクセスができる量なんです。したがって、会員は自身が何かの問題に直面したときに、テキストに即しながら実践することができる。世界宗教にとっては、これがすごく重要なんです。
開沼 参与観察の中でも度々そういう体験談は聞きました。
佐藤 テキストを読んで、皆で語り合い、追体験していく。この〝テキストによって結びつく〟というのが、他の仏教系教団にはない創価学会独自の優れた点です。
重要なのは〝テキストの背後〟
開沼 宗教を類型化すると、キリスト教で言えば、パパ様(ローマ教皇)の存在に象徴されるカトリックのカリスマ支配と、プロテスタントのテキスト重視と、二つの方向があります。創価学会は前者から後者に重心を移す時期にあるとも捉えられます。
佐藤 私たちプロテスタントもカリスマ支配のもとにはいるんです。ただしそれは、イエス・キリストというカリスマによる支配です。
プロテスタントは何もテキストを崇拝しているわけではありません。重要なのは〝テキストの背後〟です。御書の背後にいる日蓮大聖人。もっと言えば、その御書を監修した池田先生。御書を読みながら池田先生のことを思い浮かべるという現実が、聖書を読みながらイエス・キリストのことを思い浮かべるプロテスタントとの共通点かもしれません。
開沼 カリスマ支配というと、私自身も含めて信仰を持っていない人たちはすぐに盲従やマインドコントロールといったことを連想しがちです。
佐藤 外部から見ればそのように見えるかもしれませんが、内部の一人一人を見ているとむしろ逆であることが分かります。学会員の人たちは池田氏のことを思い浮かべながら「池田先生に見られても恥ずかしくないか」「池田先生に喜んでいただけるか」と自問することで、わがままではない真の自由を取り戻し、自らの価値を創造し、判断しているのです。盲従やマインドコントロールとは正反対です。
開沼 これまでにも宗教学や宗教社会学、都市社会学において、創価学会など、いわゆる「新興宗教」の研究は行われてきました。ただ、改めて既往研究を俯瞰し直すと、いわゆる「葬式仏教」ではない信者のアクティブな実践が伴う現代宗教に迫る研究、中でも創価学会に関する外部からの切り込みは「浅い」と評さざるを得ません。昭和の創価学会ならそうだったけど、という話とか、近年の論考でも、10人にも満たない少数へのインタビューを元にしていたりとか。一方には、そこに触れると自分も一蓮托生になっているとみなされるなど、トラブルになるというタブー視があり、他方では、そもそもステレオタイプを超えたところに興味関心が無いんです。
佐藤 宗教学の起源は、18世紀の終わりから19世紀の初めに行われた史的イエスの探究です。史的イエスの探究を実証的かつ客観的に行うと、1世紀にイエスという青年が実在したことは実証できないという結論になります。しかし、かといって不在証明もできないので、その探究は蓋然性(がいぜんせい)のなかに入ってしまいますよね。
そんなふうにして宗教という現象を実証的かつ客観的に見ていく流れにあるわけだから、宗教学のスタンスは基本的には無神論なんです。それは、別の言い方をすれば「宗教を信じている連中は遅れている」という上から目線なんです。あるいは「迷信を信じるのは許してやるけれども、いずれは解消されないといけない」という立場設定です。
それと分岐したのが近代の神学です。近代の神学では、1世紀の終わりにイエスが救い主であると信じていた人たちがいて、実証はそこまでで十分だと考えます。そこから先は、信仰や言説の内容に入っていくわけですから、実証主義ではありません。人間はどのように救済されるのがよいのか。そこを追求していくのが近代の神学ですので、宗教学とはアプローチが全く異なります。したがって、私たち神学を専門とする人間は、創価学会の教学的なアプローチにまったく抵抗感を抱きません。
開沼 なるほど。とてもよく分かりました。そこが分からないと、学会員がなぜ折伏するのかが理解できないでしょうね。大半の外部の人々は、「強引な勧誘」といったレベルでしか捉えられていません。連載では、そういった点にも踏み込むことはできました。
師弟の結びつきへのプロセス
開沼 先に触れた学会員の師弟観について、キリスト教の信仰者でもある佐藤さんに伺いたい。例えば、SGI(創価学会インタナショナル)のメンバーからすれば、知らない国の知らない人であった池田氏が、ある瞬間から師匠に切り替わる。その瞬間があるらしいということは見えたのですが、そのプロセスがなかなか理解しきれなかったんです。ご本人に説明してもらっても。これはどう捉えられますか?
佐藤 19世紀初めにフリードリヒ・シュライアマハーという神学者がいました。この人は近代神学において極めて重要な役割を果たしています。コペルニクスとガリレオ以降の宇宙観では、上下の概念がなくなるわけだから〝上にいる神〟が成り立たなくなります。そこでシュライアマハーは〝神は心のなかにいる〟という画期的な発明をして、神を成り立たせたわけです。座標軸では示せないものの、神は確実にいる。神の居場所を心にすることで、シュライアマハーは宗教と自然科学との矛盾を解消したんです。
このシュライアマハーがこんなことを言っている。あらゆる優れた精神は、別の優れた精神によって触発される――と。つまり、SGIのメンバーは心のなかで池田先生と出会うことで触発を受けるんです。別の言い方をすれば感化です。何かを決断をして創価学会に入会したり、池田先生の弟子になったりしているわけではない。テキストを読んで正しいと思うから仲間に加わるというのは、どちらかと言えば日本共産党への入党の類型に近い。創価学会の場合は、もっと人格的な交わりによって感化を受けるんです。実際には、ある学会員に出会って、その人の生き方を見て自分も入会するんだけれども、その触発の原型は池田氏との出会いなんです。
開沼 正典が閉じてランダムアクセスできるからこそ、師匠からの触発や感化を受けられる。先の世界宗教化の話とも通じますね。
宗教的エネルギーをいかに維持するか
開沼 世俗化している現代社会においては、いかなる信仰集団も基本的には衰退する可能性が高い。創価学会も例外ではないですが、他と並べると、その衰退速度は遅く、海外ではむしろ拡大している。これはなぜか。佐藤さんはどのように考えていますか。
佐藤 一つは、創価学会が比較的新しい教団だからということがある。
開沼 新しいからこそ、現代人にマッチするということですか。
佐藤 そうです。例えば創価学会の場合は、戦時中に牧口常三郎先生が神札を受けなかったことで特高警察に捕まるだけでなく、そのときの尋問で真っ向から不敬罪に引っかかるような発言をしています。
ただし、時代が変われば状況も変わるし、社会における役割も変わる。いまや公明党は与党であり、創価学会は世界宗教化の段階に入っています。したがって、常に調整が必要になります。創価学会はその調整を怠っていないからこそ、エネルギーを維持できているのだと思います。
信仰を離れた人が再び戻ってくる
開沼 旧統一教会問題以降、宗教二世、三世の議論については、佐藤さんはどう見ていますか。
佐藤 キリスト教でもそうですが、危ういのは教団のなかですくすくと育った二世や三世です。信仰が形骸化していく可能性があります。少年期や青年期に信仰から離れたものの、何かしらの課題に直面して信心に励む親の姿を思い出して、再び信仰の道に戻ってくる。そういう人は強いですよ。もちろん、創価学会には、信仰が形骸化しないための様々な装置が用意されているわけですが。
開沼 一度、信仰を離れてからの再選択というパターンは、私も多くの事例を聞きました。
佐藤 それをしっかりと書いてくださったから、あの連載は面白かったんです。
開沼 日本全体が少子高齢化していて、どの組織も若者不足という課題を抱えているなかで、創価学会は次世代育成に一定程度成功してもいるように見えます。
佐藤 少子高齢化は創価学会も例外ではないと思いますが、他の教団と比べれば信仰の継承に圧倒的に成功していますからね。大変だったのは、やはり旧統一教会問題以降の空気感です。一時は家庭内における信仰の継承に縛りがかかりそうになりましたからね。
そもそも「宗教二世」という表現自体が極めて危うい。子どもの権利の観点から宗教二世を取り締まれという乱暴な言説がありましたが、二世には私のようにそれを誇りにしている人だっているわけですから。
不条理に向き合い熱狂に陥らない
開沼 不条理を受け入れる余地をつくる宗教の機能は現代においても有効です。取材で福島や水俣、沖縄の学会員にお会いして、実感しました。原発事故や水俣病、沖縄戦は、地理的にも社会問題としても、日本の周縁に存在します。都会のみならず周縁部でも不条理を抱える人々を包摂し人生をトータルコーディネートするような働きを信仰が実現している。
最近は、不条理に向き合うために陰謀論や反科学を唱える小政党に熱狂する人々がいます。そこには、鉤括弧(かぎかっこ)つきの信仰心のようなものも、カリスマを求める心理みたいなものも垣間見えます。ただ、体系的思想が無い中で人を繫ぎ止め拡大しようとすると、過激化するしかなく、誰も幸福にならない。創価学会の歴史はその轍を踏むことを避け続けてきた上にある。これが強さの根本です。
佐藤 それはおっしゃる通りです。熱狂に陥りやすいことの一つにナショナリズムがある。例えば近年の日中関係の緊張もあって、政府は中国に対して、もっと強硬な姿勢を示すべきだという声が強まっています。
ここで私が注目しているのは、公明党沖縄県本部の独自路線です。2022年にまとめられた『県民とともに 公明党沖縄県本部50年の歩み』には、沖縄を二度と戦場にしないために中国との関係で断固平和を維持する旨が明言されています。公明党沖縄県本部は、対中関係のみならず、基地問題に関しても、独自路線を打ち出しています。辺野古移設に反対するだけでなく、海兵隊の海外移設を主張している。公明党の中央とは異なる路線です。沖縄県本部の独自の選択を容認しているところに公明党の底力があります。その背景にも公明党の支持母体である創価学会の寛容性がある。このように政治問題についての多様性を東京の創価学会本部や公明党本部が認めているところが偉いんです。
宗教は科学や経済と相容れないものか
開沼 外部から見ると、科学と宗教は相容れない関係にあるように見えます。つまるところは、貧しい人や悩みがある人が宗教にすがる。そんなふうに捉えている。しかし、現実には金融、学術等のグローバルエリートの学会員も分厚く存在していて、世俗での成功を収めている人たちもいる。
佐藤 創価学会の信仰をして一生懸命に働いていると福運が積み重なるから豊かになってくる。その意味においては、いまや貧しさというのは基本的には信仰の動機ではないですよね。
開沼 そうなんです。だから「心の弱い孤独な人が楽になるために宗教にハマって思考停止」みたいな捉え方では捉えきれない。その意味で、この先、世俗化がさらに進んだときに信仰の動機がどう変化するのか。今後はそこを追ってみたいと思っています。
佐藤 私は学術に従事している学会員を見ると、カンタベリーのアンセルムスを思い出すんです。
「知解を求める信仰」という考え方がある。彼ら彼女らは、信仰があるがゆえにもっと知りたいと思うんです。森羅万象に宗教は関係しているから、分野はなんだっていい。どの分野においても〝より正確に知りたい〟という動機が、信仰によって深まっていくし、知ることでさらに信仰が深まっていくんです。外から見れば、信仰とはまったく関係のない学術的な成果が積み重なっているんだけれど、本人にとっては信仰が深まっている。そういうサイクルができ上がってくるから、本人にとって科学と宗教にも矛盾がなくなっていくんです。
池田先生の期待にお応えしたい。先生に〝大科学者になったね〟と思っていただきたい。そう思うだけで、研究の意欲が湧いてくる。これもキリスト教から見れば何も意外なことじゃないんです。出世したいという動機はむしろ学術に対する向き合い方に歪みが出てくる。信仰を深めていくことが自分の学術だし、自分の仕事なんです。学術の世界だけでなく、経済の世界にも同じような競争があるので、これも同様です。
開沼 そうした内在的論理をマスメディアが深く掘り下げることはありませんよね。
佐藤 宗教のなかに入って調査をすればおっかない目に遭うとか、おっかない目に遭わなくても面倒くさいとかって思っているんじゃないでしょうか。
開沼 そうですね。だから前例踏襲が安全だ、と、既存のイメージを再生産し続ける。
宗教に対する無意識の偏見
開沼 セクシャルマイノリティーや少数民族に対するマイクロアグレッション(軽微な攻撃)やアウティング(本人の了承を得ないままの第三者による暴露)、アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)は、様々に問題提起されているものの宗教に対するそれは、いまだに根強い。むしろ、旧統一教会の問題でさらに加速しているといえます。
佐藤 民族に関して言えば、沖縄は日本において民族として位置付けられていないから、ヘイトの対象になっていない。それだから、沖縄に対するヘイトスピーチは法的に規制できない。どうしてもそうやって抜け落ちてしまうところがあるんです。宗教も同じように抜け落ちてしまってるんでしょう。
開沼 宗教差別は現に日本社会に存在しますが、それが無いことにされている。「◯◯は◯◯の信者だ」ということが誹謗中傷と直結してしまう現状がある。「◯◯はLGBTQだ、◯◯人だ」ということではそれが許されないと認識が変わってきたのにもかかわらず。その点も外部から考えるきっかけになればと思います。
佐藤 時間はかかるかもしれませんが、必ず結果がついてくると思いますよ。これは創価学会のなかの人たちにも頑張ってもらわないといけません。
最後になりますが、開沼さんが今回の学会研究を経て、創価学会に期待を寄せていることを、ぜひ聞かせてください。
開沼 繰り返しになりますが、不条理に対する不健全な熱狂が生まれやすい時代の流れに対して、社会のバランスを保つ役割を期待しています。もともと宗教には、個人の救済だけではなく、孤立化した人々を繫ぐことなど、もっと広い役割があったはずです。創価学会には、現代社会の世俗化のなかにあっても、そうした広い役割が残されている。現に、日本で最もアクティブな宗教者を抱えているのは創価学会です。だからこそ、宗教が本来的に持つ力を創価学会には発揮してもらいたいと思っています。
佐藤 すごくいい視点だと思います。世俗化に対して防衛するのではなくて、むしろ世俗化を糧として宗教の新しい可能性を開いてほしいですね。
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『「外部」と見た創価学会の現場』
聖教新聞社編/開沼博解説、定価:1430円(税込)、発行年月:2024年7月、判型/造本:四六並製/328ページ
商品詳細はコチラ
【目次】
序章 なぜいま創価学会なのか
第1章 強さの根源「座談会」
第2章 団地を支える「調和」の生き方
第3章 農漁業――偶然を必然に
第4章 「人生の軸」探す若者たち
第5章 創価・想像の共同体
第6章 「苦海」の不条理を越えて
第7章 変化の時代の「羅針盤」
第8章 「グローバル化」の鍵
終章 創価学会研究を振り返って
作家/元外務省主任分析官
佐藤 優 (さとう・まさる)
1960年東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、専門職員として外務省に入省。在ロシア日本国大使館に勤務、帰国後は外務省国際情報局で主任分析官として活躍。著書に『国家の罠』『池田大作研究 世界宗教への道を追う』『公明党 その真価を問う』など多数。
社会学者/東京大学大学院准教授
開沼 博(かいぬま・ひろし)
1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院学際情報学府博士課程単位取得退学。立命館大学准教授等を経て、2021年4月より現職。他に、東日本大震災・原子力災害伝承館上級研究員、ふくしまFM番組審議会委員、東日本国際大学客員教授。著書に『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』『漂白される社会』『はじめての福島学』など。第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。
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