「特攻隊」の史実を知ることで、新たにする平和への誓い
2024/07/25戦後生まれが人口の87%を占めるようになり、戦争の記憶を若い世代はどうとらえているのか。知覧特攻平和会館で勤務する羽場恵理子さんは、特攻隊の歴史を伝えている。
(月刊『潮』2024年8月号より転載)
鹿児島で歴史を残す知覧特攻平和会館
太平洋戦争末期、日本陸軍の知覧飛行場(鹿児島県南九州市知覧町)は特別攻撃隊の基地として使われました。アメリカ軍が沖縄の慶良間列島に上陸した1945年3月26日以降、陸軍は飛行機ごと艦船に体当たり攻撃を加える特攻作戦を展開しています。沖縄戦で亡くなった1036人の特攻隊員のうち、439人が知覧飛行場から出撃しました。
敗戦した日本は戦後に厳しい食糧難に陥ったため、知覧飛行場は田んぼや畑に作り変えられていきました。現在は住宅地や耕作地になっていますが、広大な敷地が飛行場跡であることを伝えています。
特攻隊の歴史を後世に伝えるため、75年4月に知覧特攻遺品館が開館します。その後、特攻隊員の遺書や遺影など遺品の寄贈が相次いだこともあり、87年2月には知覧特攻平和会館が開館しました。
館内には、鹿児島の沖合から引き揚げられた零戦(海軍零式艦上戦闘機)の実物や、250kgの爆薬を搭載してアメリカ軍の揚陸部隊に体当たり攻撃した海軍水上特攻「震洋」(小型の特攻ボート)も展示してあります。
97年2月からは、陸軍四式戦闘機「疾風」の一般公開も始まりました。これらを目にした来館者は「ここに生身の人間が乗りこんで出撃していったのか」と大きなショックを受けることと思います。
書簡に記録された特攻隊員の実像
埼玉県出身である私は、知覧や特攻隊にもともと縁があるわけではありませんでしたが、中学生の頃から歴史が好きだったこともあり、博物館で働ける「学芸員」になりたいという夢がありました。
しかし正規の学芸員の枠は非常に少ないため、日本女子大学と大学院で近代日本史と日本海軍の歴史を学んだ後は、東京都の自治体で1年間、市史編さん室に勤めました。そのような中、大学の恩師より「知覧特攻平和会館が学芸員を募集している」との情報を教えていただき、このチャンスを逃すまいと採用試験を受けて、2020年4月より、鹿児島に引っ越して学芸員として働き始めました。
平和会館には、陸軍沖縄特攻作戦で戦死した特攻隊員の書簡がたくさん保管されています。特攻隊員が生まれ育った出身地も家族構成も千差万別です。彼らの手紙や日記をひもといていると、一人ひとりの人間像が見えてきます。
故郷に妹を残して出征したあと、手紙のやり取りを通じて妹が足に怪我をしたことを知った特攻隊員は、手紙の中で何度も「足の具合は大丈夫か」と心配していました。また、ある隊員は弟に向けて「疎開先ではよくやっているか」「勉強に励めよ」としたためるなど、優しさが滲む手紙の数々に胸が熱くなります。
特攻隊員になったということは、ひとたび出撃を命令された瞬間、その先の命はないことを意味します。片道切符の戦闘機で出撃する運命が待ち受けていながら、特攻隊員は家族や大切な人への思いやりを最期まで忘れませんでした。
特攻隊員が小学生時代にもらった賞状や卒業証書を見ると、幼い頃に一生懸命勉強をがんばっていた様子が想像できます。また日記も多く収蔵されており、「今日は失敗して教官に怒られてしまった」という失敗談を記した文章を読むと、現代を生きる学生や若者も「自分たちと同じだな」と共感を覚えるのではないでしょうか。
羽場恵理子さん
戦艦ミズーリと沖縄戦の特攻隊
1945年4月11日、アメリカ軍の戦艦ミズーリは鹿児島県喜界島沖で特攻隊の攻撃を受けました。現在戦艦はハワイ・オアフ島の真珠湾(パール ハーバー)に係留されており、「戦艦ミズーリ記念館」で公開されています。
戦艦ミズーリに特攻隊が攻撃を仕掛けたとき、船の甲板に特攻隊員の遺体が投げ出されたそうです。するとミズーリの艦長は、敵国である日本の特攻隊員を、海軍式の水葬の儀式で丁重に葬りました。こうした歴史を紹介しつつ、知覧特攻平和会館から貸し出された特攻隊員の遺書や書簡が展示されています。
終戦75年後の2020年8月15日には、戦艦ミズーリ記念館と知覧特攻平和会館が姉妹館の提携を結びました。
特攻隊員は、ただアメリカへの憎しみに駆られて戦場へ向かったわけではありません。隊員が家族に宛てた手紙を読めば、家族を大切に思う気持ち、家族の命を守りたい気持ちが根底にあることがよくわかります。その気持ちはアメリカの軍人も同じでしょう。
物事とは、一方向だけでなく別の角度から眺めてみると多様な視点が生まれるものです。日米の垣根を取り払い、多くの人々に特攻隊の実像を広く知っていただきたいと願っています。
クルーズ船に乗って鹿児島へ旅行に来られる外国人観光客もおり、知覧特攻平和会館にいらっしゃる外国人がずいぶん増えました。
平和会館に来るまでは「カミカゼ・アタックなんてやる日本人は狂信的だ」と眉をひそめていた人もいるかもしれません。しかし隊員たちの手紙や日記を目にし、語り部の証言に耳を傾け、資料映像を見るうちに、外国人観光客の方も「特攻隊員も自分たちと同じ、家族を愛する人間だ」と心で深く感じ取られていると思います。
女学生の視点から見た特攻隊員
2024年3〜7月には、知覧特攻平和会館で「女学生が見た戦争―知覧高女生と特攻隊員―」という企画展を開催しています。特攻隊員をすぐそばで見ていた当時の女学生の視点から、特攻隊員と特攻作戦に新しい光を当てたいという思いから企画したのです。
当時の知覧飛行場では「なでしこ隊」と呼ばれた14〜15歳の女学生が特攻隊員の食事の用意や裁縫をしていました。戦後79年となる今、多くの元女学生はすでに鬼籍に入られています。
2003年から知覧特攻平和会館に勤務している八巻聡学芸員は、今まで200名近くの聞き取り調査を映像記録に収めてきました。この貴重な映像記録を「女学生が見た戦争」展におおいに活用しています。まだご存命の元なでしこ隊の方もいらっしゃるため、私も直接お目にかかってお話を聞いてきました。
14〜15歳の「なでしこ隊」から見れば、若い少年兵とはいえ、特攻隊員は年上のたくましいお兄さんに見えたそうです。
元女学生だったご婦人は、ご家族とともに来館され「ここにおばあちゃんの写真があるよ」と、当時を思い出すような視線で展示を熱心にご覧になっていました。
女学生と特攻隊員の日常的な交流に焦点を当てることで、これまでは見えてこなかった、特攻隊員の新たな側面が浮かび上がる企画展になりました。
知覧特攻平和会館では常設展とは別に、年3回ペースで企画展を開催しています。八巻聡学芸員と私が交替で企画を考えながら、これからもさまざまな視点を提示する、新たな企画展を作っていきます。ぜひご期待ください。
特攻隊員の記録を後世につなげたい
知覧特攻平和会館の学芸員として勤務しながら「ここでしかできないありがたい経験だ」と思うのは、特攻隊員の遺族や関係者と直接お話ししながら交流できることです。証言を聞くたびに、貴重な歴史を記録し、ご遺族や関係者の気持ちを預かる責任を痛感します。
甥や姪、孫の世代の遺族から、「特攻隊員だった家族の記録をいつまでも保存することが難しくなりました。知覧特攻平和会館でお預かりしてもらえませんか」と相談を受ける機会が最近増えました。
戦後79年という長い年月が過ぎる中、歴史の記録を決して散失させてはなりません。ご遺族が信頼して預けてくださる遺品を大切に保管しながら、今後の研究と企画展に生かしていきたいと思っています。
学生時代、私はくずし字や古文書を読み解く授業を熱心に受講していました。ちょうどNHKの朝ドラ「あさが来た」で広岡浅子(日本女子大学創立の発起人)の話を放送していた時期でもあり、広岡浅子や成瀬仁蔵(日本女子大学創立者)、新一万円札に採用された渋沢栄一(同、第三代校長)の手紙も原文で読んでいました。
昔の人は、現代人が使わない漢語調の単語を頻繁に使ったり、一読しただけでは読みにくいくずし字も多用しています。特攻隊員の中にも癖字やくずし字を使って手紙や日記を書く人がいるため、学生時代に勉強した知識が今になって生きています。
遺族からお預かりした中に読みにくい書簡があったとしても、展示の補足説明で現代文の読み下しを添えたり、翻訳を併記したりと、国内外問わず一人でも多くの方々に、特攻隊員が遺した書簡の中身を知っていただきたいと思っています。
知覧特攻平和会館外観
特攻隊員が暮らした半地下の三角兵舎
小中学生や高校生が修学旅行や平和学習で選ぶ場所は、広島や長崎、沖縄が中心です。世界で唯一原子爆弾が投下された広島と長崎、そして日本列島の中で激しい地上戦が展開された沖縄が、平和学習のために重要な地であることは間違いありません。そのうえで、知覧だからこそ学べる歴史もあります。
前述のように、沖縄戦で亡くなった1036人の特攻隊員のうち、4割に及ぶ439人が知覧飛行場から出撃して戦死しました。隊員たちは出撃する前の最後の時間を知覧で過ごし、「明日出撃せよ」と命令を受けてから大切な人に向けて手紙や遺書を書いている隊員もいます。
手紙のほとんどは、母親への感謝が述べられているものでした。また、妹や弟など、この先を生きていく家族に向けて「ちゃんとお母さんに親孝行して、勉強をがんばって、これからの日本をよろしくお願いします」という遺書が数多く残されています。また、後輩に向けて「あとは君たちに託した」と書かれたお手紙もあります。こうした思いを受け止めて、遺族や関係者は戦後79年を歩んでこられました。
知覧特攻平和会館の敷地内では、特攻隊員が出撃するまでの数日間を過ごしていた三角兵舎(屋根が三角形の兵舎)を見学することができます。三角兵舎は、当時の関係者に話を聞いて復元されたものです。
秘匿性を高くして上空から容易に見つからないように、兵舎は半地下に建設されています。兵舎の中には布団と枕が並び、ここで寝泊まりしながら特攻隊員たちは日の丸に寄せ書きを書き連ねました。気丈に振る舞う特攻隊員ですが、夜になると布団に潜り、声を押し殺しながら涙を流す隊員も多くいたそうです。
八巻聡学芸員が私に「戦争遺跡はモノ言わぬ証言者だよ」と教えてくれたことがあります。戦死していった人たちが、知覧の空気を吸いながら実際にどんな場所で暮らし、どんな気持ちで出撃までの日を送っていたのか。三角兵舎を見学すると、特攻隊員たちの暮らしぶりと気持ちに思いを馳せられると強く感じます。
全国各地に散在する戦争と平和の資料館
戦争と平和を扱う資料館は、全国各地にたくさんあります。知覧特攻平和会館は、知覧のお隣の自治体にある万世特攻平和祈念館(鹿児島県南さつま市)、大刀洗平和記念館(福岡県筑前町)と2019年4月に3館連携協定を締結しました。
東京だと、シベリア抑留を扱った平和祈念展示資料館(東京都新宿区)も有名です。首都圏には桶川飛行学校平和祈念館(埼玉県桶川市)もあります。
若い人は「戦後79年も経ち、戦争は、はるか遠い時代の話だ」と縁遠い感覚をもつかもしれません。しかし戦争や紛争は今も世界各地で進行中です。対岸の火事のように突き放すのではなく、まずはお近くにある資料館に足を運び、戦争の歴史に目を向けていただきたいと思います。人々から忘れられてしまうのが、戦没者と遺族にとって最も悲しいことです。
映画や小説、ノンフィクション作品やドキュメンタリー番組など、私たちが戦争の歴史に触れる機会はたくさんあります。近年ではアニメ映画「風立ちぬ」「この世界の片隅に」など、戦争を扱ったヒット作も話題になりました。
こうした作品をきっかけに「史実についてもっと詳しく知りたい」と関心をもっていただけるとうれしいです。資料館には私のような学芸員やスタッフがいますので、「敷居が高いな」と臆することなく、来館した折には気軽に声をかけて何でも訊ねてください。
現在29歳の私は、多くの若者と同じく戦争を直接知らない世代の一人です。直接の戦争体験がなくても、語り部の証言や映像、手紙や資料に触れることによって、戦争の歴史を学びながら、想像力をめぐらせることができます。
特攻の史実を伝えることによって、戦場で散っていった特攻隊の戦い方を美化したいわけでは決してありません。太平洋戦争末期に亡くなっていった特攻隊員の生き様に目を向けながら「こうした不幸な歴史を二度と繰り返してはならない」と平和への誓いを新たにしたいと思うのです。
戦争の記憶を次世代に継承することは、現代を生きる私たちに課せられた使命ではないでしょうか。来館者の皆さまと一緒に特攻隊の歴史について学びながら、戦争と平和、そして特攻隊員が未来に託した想いについて、共に考えていきたいと思います。
『潮』読者の皆さんも、ぜひ鹿児島の知覧特攻平和会館を訪ねてみてください。心からお待ちしています。
事は有りません
最期の又最初の孝行に
笑って征きます
泣かずによくやったと
佛前にだんごでも具へて下さい
人形は藤夫と思って下さい
兄姉一現(弟の名前)に宜しく
忙がしく此の字を見て下さい
近所の皆様にも宜しく
母様藤夫は
笑って征きます
元気で
さようなら 藤夫

若松藤夫 少尉 鹿児島県出身 19 歳
鹿児島県知覧基地から出撃
1945年6月3日戦死
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知覧特攻平和会館学芸員
羽場恵理子(はば・えりこ)
1995年埼玉県川越市生まれ。日本女子大学文学部史学科卒業。同大学大学院文学研究科(史学専攻)博士課程前期修了。2020年より知覧特攻平和会館にて学芸員として勤務し、「特攻隊」の歴史を後世に伝える。