【特別寄稿】池田・トインビー対談の現代的意義

Ａ・トインビーとの出会い 私は1965年4月、最初のイギリス留学から帰国し、大学教師の職につきましたが、その年の6月、英国文化振興会の東京本部長Ｆ・Ｗ・トムリン氏から電話があり、歴史家アーノルド・トインビーが来日するが会食をしないかという誘いがありました。 この協会は1934年にイギリスの議会立法で設立された組織で、学者や芸術家、留学生などの国際交流の推進、ひいては国際平和の一助にしようという目的がありました。私の最初の英国留学はこの組織から奨学金を得て可能になりました。トインビーの来日中の日程作りもこの組織が担当していたようです。私はこのお誘いを喜んで受け、東京の麹町にある、しゃぶしゃぶ料理店で会うことになりました。 これは後で述べることですが、その頃のイギリスではトインビーの評判はあまり芳しくなく、それに対してその頃のアメリカでは極めて高いことを知っていました。 トムリン氏は事務官僚ではなく、フランス哲学思想史の専門家で、いわば歴史家でありました。電話口でとっさに思いついて「しゃぶしゃぶは純粋の日本料理ではなく和洋折衷だけれどもそれで良いでしょうか」と言ったら、トムリン氏は笑って「トインビーは折衷主義者だから、ちょうど良いだろう」と応えて電話を切りました。私は、彼も熱心なトインビー支持者でないという見当をつけたことを覚えています。 B・ウィルソンから渡された一冊の本 私は比較政治という日本で最初の講座を担当したばかりの時で、トインビーの12巻から成る大著『歴史の研究』を一冊にまとめた縮刷版を読んでおり、彼の研究方法――一国の社会と歴史はその一国を取り巻く時々の国際関係の中ではじめて十分に理解できるという姿勢――には大いに共感しておりました。 会食の席では、まずトインビーが口を切り「国体思想は今、どうなっているか」と尋ねました。 次の話題は創価学会のことでした。トインビーは先に大阪で「折伏」という熱心な布教の仕方について、多少聞いていた様子でした。「創価学会はファシストであるか」というのが第二の質問でした。創価学会は戦中には弾圧を受けており、旧体制の復活を望んでいない。創価学会の会員は、戦後の復興、高度経済成長で興隆しつつある新しい中間層に根差しているというのが私の答えでした。トインビーからの質問はこの二つで終わり、太平洋戦争の勃発の寸前、どのような戦争回避の道があったかなどのいわば雑談に移りました。 トインビーと私の会食の結果として池田・トインビー対談（以下、トインビー対談と略す）が実現したという説があるようですが、これは全く根拠のない話です。当時はトインビー対談の計画があることなど全く知りませんでしたし、私が対談について知ったのは、それから10年後、オックスフォード大学オールソウルズ・カレッジ訪問研究員に選出され、そのカレッジの同僚の一人であるブライアン・ウィルソン（宗教社会学者）と知り合いになってからのことでした。 トインビーの存命中か死後か記憶は定かではありませんが、このウィルソンは池田会長の相談によくあずかっていたようです。私が帰国してからも彼と池田会長との対談の後で彼と会い、東京・信濃町のそば屋の座敷で何度か話をしました。池田会長が俗人教団について強い関心をお持ちでいるのを知ったのはこの時のことでした。 産業革命期のイギリスの工業地帯では労働者階級の居住地区にある教会のすべての役員を信徒の投票で選ぶということがありました。 これは私の推測ですが、池田会長は、いわば、坊さんとお寺のない創価学会を模索していらしたのかもしれません。キリスト教の無教会派と並んで日本の宗教史上の稀な事例と言えるでしょう。 オールソウルズ・カレッジでの、ある日のこと、カレッジに近いオックスフォード大学出版局から、出来上がったばかりの英語版のトインビー対談（原題『生への選択』）をウィルソンが運んできて、昼食後のコーヒーに集っていた20名ばかりの同僚に配ったことがありました。 イギリスの学者の中には「電光のような速さ」で本を読む人がいますが、対談集を夕食の時までに読み上げた人も何人かいました。私の哲学の師匠アイザイア・バーリン（欧米では二十世紀最高の自由主義哲学者と評されています）もその一人で、「イケダのほうがトインビーよりもセンシブル（思慮深い）だ」と愉快そうに笑っていたのを記憶しています。トインビーよりはるかに年少の池田大作第三代会長が、大学者のトインビーを相手に渡り合っているのが印象的だと思っていたのかもしれません。 世界ではじめての「国際関係史」講座 ここで、トインビーの受けた教育と経歴、彼の業績に対するイギリスでの評価について少しばかり触れておきます。 アーノルド・トインビーは1889年にオックスフォード大学の学者の家系の家に生まれました。トインビーはイギリス上流社会の子弟が受けた典型的な教育――5歳でラテン語、9歳でギリシャ語を学び古代ギリシャと古代ローマの歴史と哲学を学ぶこと――から始めました。そして彼自身は大学卒業後、その学問を教える教師になります。 1914年の春、彼は古代ギリシャの歴史遺跡を訪ねる徒歩旅行に出かけます。夜は村々の居酒屋で住民と酒をくみかわしました。アリストテレスとユークリッドを読むために学んだギリシャ語が立派に通用しました。特に彼を驚かせたのは新聞など読んでいるようには見えない農民たちが、イギリスの外相グレイの外交政策について正確に語り合っていたことです。 オックスフォード大学では学生たちは政府与党の閣僚、野党の影の閣僚を選んで模擬議会の討論を行う年間行事があります。しかしトインビーの『回想録』によると、そこで国際政治や外交政策は一度も論じられなかったと記されています。 1914年の夏、第一次世界大戦が始まると、学生たちはすすんで従軍し、なぜこの戦争が起こったのか、どうしたら防ぐことができたのか、全く知らないままで「祖国を守るために」死んでいきました。 一方、トインビーはギリシャの小川の水を飲んで激しい腸チフスに感染し長い療養の日々を送っていたため、徴兵を免れ生き残ることができました。戦時下のイギリスでは学者はさまざまないわゆる戦時勤務につきましたが、彼は外務省に入り、戦後のベルサイユ講和会議にも出席しています。 戦時勤務が終わると大学に戻り、ロンドン大学で国際関係史を担当しました。当時、イギリスでも世界でもこの名がついた講座は唯一で最初のものでした。 ところが戦後まもなく、トルコとギリシャの間で小さな戦争が始まり、この戦争をめぐって与野党間の政治抗争が激烈になると、世論はにわかに激昂します。そして、この唯一で最初の講座の資金を負担していた企業が恐れをなしてか降りてしまい、講座は消滅しました。 トインビーは王立国際問題研究所に移り、1年間の重要な国際問題を網羅的に記録した『国際政治年鑑』をほとんど一人で書き上げ、出版していくことになります。 現在ではおなじみの国際政治、外交史、軍事史、比較政治、そして平和研究などの科目は、ほんのわずかの例外を除いてすべて第二次大戦後に設けられています。 そして、トインビーは第二次大戦での外務省の戦時勤務を終えると、1930年代から書き始めていた野心的な全12巻の『歴史の研究』の執筆に本格的にとりかかりました。 米国で評価された『歴史の研究』 私は1960年代の前半、まだ最初のイギリス留学中のいつの頃か、アメリカから出版されている、いささか高級な政治思想専門の雑誌『フリーダム』に掲載された『歴史の研究』の書評を読みました。イギリス人の書評はこれ以外に出なかったようです。評者はまじめにこの本を読んでいないのではないかと疑わせるような酷評で、トインビーに対する揶揄と人身攻撃だけに終始していました。 読者を驚かせたのはこの書評の筆者がトレバー・ローパー、歴史家の間では最高の地位と目されているオックスフォード大学王立歴史学講座の担当者であったことでした。このことがイギリス国内でのトインビーの評価を低下させたかと思われます。 逆にアメリカでは全く対照的で、『歴史の研究』は20世紀最高の名著と称賛されていました。 1980年代のはじめ、第五次中東戦争が始まった頃、私はアメリカを訪問しましたが、いくつもの州にトインビー協会という名の組織があり、彼を講演に招いたり『歴史の研究』の読書会などが開かれたりしていることを知りました。古くはロシアのトルストイ、近くは科学者アインシュタインのように、いわば世界的な賢人とみられている人物がいましたが、トインビーもそれに近い思想的指導者とみられているように思いました。 第二次大戦後のイギリスは、かつての世界的覇権国家としての地位を失い、西欧の一国となるのか、それともアメリカとの「特別な関係」を生かして、世界的な国家としての地位を保つのか、ヨーロッパ共同体に加入するのには迷い、2019年には遂に離脱し、また再加入しようかと迷走を続けています。それに対してアメリカは、第二次大戦後には建国以来の孤立主義を捨て、否応なしに世界の警察官としての役割を果たしてきました。 トインビーの描いた古代ギリシャと古代ローマはいずれも地中海世界の覇者でありました。どちらの国でも市民は自由と民主主義を支えていましたが、ギリシャ国家のアテネはエーゲ海各地の植民地に対しては市民的自由を与えませんでした。古代ローマでは市民は義務として兵役に服しましたが、キリスト教の平和主義の影響を受けて兵役を嫌い、傭兵に頼るようになりました。その傭兵に頼るようになって、ついにはゲルマン人の傭兵にローマを破壊されました。 ギリシャとローマを偉大な帝国にしたのは自由と民主主義という市民の美徳でしたが、その美徳が衰えるとともに帝国は滅びたのです。 新しい覇権国家のアメリカは、それにふさわしい市民的美徳を養い保つことができるのか。これまで世界国家にふさわしい歴史哲学をもっていなかったアメリカにとって、トインビーの『歴史の研究』がその教科書になっているのではないかと私には思えました。 「共通の感覚」を築く対話の姿勢 私は英語版のトインビー対談をはじめて読んだとき、池田会長の提出した問題について「私はその点には全く同感です」とトインビーが何度か応じているのに気づきました。 トインビーはイギリスの歴史家、池田会長は日本の仏教教団の指導者。トインビーは若くしてキリスト教を棄教しており、二人の間には経歴や年齢においても大きな違いがあります。トインビーがその違いの空間をどうやって（感情的な共感だけでなく）論理的に埋めていくかに注目したのです。 私は創価学会の内部事情についてはほとんど知りませんが、創価学会には信仰を深め、入信に至る修練の場としての「座談会」という制度があることを聞いたことがありました。「座談会」の席で他の人びとの希望と悩みを理解し、自らの希望と悩みを表明していき、それぞれに言葉と論理を鍛えていく。そこに自他の間の相互理解が生じれば、共同行動に出る動機も生まれてくるのではないか。そしてトインビー対談はこの二人の対談者の間で行われた「座談会」であったのではないかと思うに至りました。 このような相互理解と共同行動の可能性は、現在の世界の中では大きく破壊され、弱体化されつつあります。 ヨーロッパではウクライナ戦争が続いており、ロシアの大統領プーチンは時として核兵器の行使をほのめかしています。パレスチナでは300万人以上のパレスチナ人が家を失い生命を脅かされています。 政治家や軍事専門家は国民の安全のために軍備を強化しなければならないと唱えていますが、現在、地球上に存在する核兵器は地球をいくつも破壊する力を持っています。核によって安全が保障されると想定するのは正気の沙汰とは思えません。他方でトランプ前大統領の再選を予想してか、アメリカの世界秩序を維持していく能力は世界からの信頼を失いつつあります。 また人工知能によって人間相互間の対話の可能性は飛躍的に増大しています。しかし例えばSNSでは匿名性に隠れて、誹謗中傷が飛び交い、人びとをますます深く分断し孤立させているようです。 日本語の「常識」という言葉はもともと英語の「共通の感覚（コモンセンス）」の翻訳ですが、私はトインビーと池田会長は「共通の感覚」を広げていくという元の意味でも偉大なる常識人であったと思います。 トインビーは先に逝き、池田会長も昨年に亡くなりました。二人の間に築かれた「常識」の精神はこれからどう引き継がれていくのでしょうか。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 学習院大学名誉教授河合秀和（かわい・ひでかず）1933年京都府生まれ。56年東京大学法学部政治学科を卒業。元中部大学特任教授。専門は比較政治学。著書に、『現代イギリス政治史研究』、『政党と階級』など多数。訳書に、ヴェド・メータ著『ハエとハエとり壺』などがある。

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