カラー写真化で〝解凍〞された原爆投下前の「幸せな記憶」
2024/08/09原爆投下前の日常の写真をAI技術を使ってカラー化するプロジェクト「記憶の解凍」に取り組む庭田さん。未来へ繋ぐ戦争体験者の平和への想いを伺いました。
(月刊『潮』2024年9月号より転載)
原爆で家族を失った遺族との出会い
2001年に広島市で生まれた私は、幼稚園の年長のころに初めて平和記念資料館を訪れました。リニューアルオープンする前の平和記念資料館には皮膚が焼けただれた被爆者の蝋人形が展示されており、その日の夜は怖くて眠れませんでした。
私にとっての転機は、小学5年生のときに配布されたパンフレットを目にしたことでした。それまでは戦争の負の記憶、原爆投下の悲惨な記録ばかりを見てきたわけですが、そのパンフレットには原爆投下前の中島地区(原爆投下の爆心地、現・平和記念公園)の日常を写した白黒写真が掲載されていたのです。
かつて繁華街だった中島地区では、原爆投下前まで今と同じような平和な日常がありました。その平和な日常が原爆によって一瞬にして破壊されたことを、写真を通して初めて実感できたのです。
高校1年生のとき、平和記念公園で濵井德三(はまいとくそう)さんというおじいさんと偶然出会いました。濵井さんのご両親は、中島地区で濵井理髪館という理髪店を営んでいたそうです。疎開中だった濵井さんの命は助かったものの、別れを告げることもできず、濵井さんは原爆によって家族全員を失いました。
初めて濵井さんにお会いしたころ、「8月6日のことは話したくない」ときっぱり言われていました。「そのかわり、8月6日よりも前のことだったらどれだけでも話すよ」と言ってくださったので、私は被爆前の中島地区の日常についてお話を聞き始めました。日常の話を伺っていくと、次第に濵井さんは原爆投下前後のお話をしてくださるようになりました。
濵井さんは当時小学5年生で、市外の親戚宅に疎開されていました。8月5日、中島地区からご両親(父:当時46歳、母:35歳)とお姉さん(14歳)が会いに来てくれ、一緒にお祖母様宅へ行き、ご飯を食べたそうです。夕方、疎開先に戻ると、皆に「今日は泊まっていきなさい」と言われたそうですが、ご両親とお姉さんは「お兄さん(12歳)が建物疎開の作業から帰ってくるから、家に帰ってやらんといけん」と、その日は泊まらずに中島地区へと帰っていかれたそうです。それが濵井さんにとって家族と会う最後の日となりました。濵井さんは見送った家族の後ろ姿がずっと忘れられないと言われていました。
写真のカラー化と「記憶の解凍」
濵井さんとお話ししているうちに、被爆前の日常を写した白黒写真が約250枚現存することがわかりました。疎開先にアルバムを持っていったおかげで、写真が焼け落ちることなく残されたのです。
2016年公開のアニメ映画「この世界の片隅に」の冒頭に、濵井理髪館と濵井さんのご家族をモデルとしたシーンが登場します。あるとき濵井さんは「生きていたころの家族に会いに行くために、何十回も映画館に足を運んでるんだ」とおっしゃいました。
そのとき私は「濵井さんが持っている白黒写真をカラーにしてプレゼントしたら、いつも近くで大好きな家族を感じてもらえるんじゃないか」と思いつきました。渡邉英徳先生(現・東京大学大学院教授)から、AI(人工知能)による自動色付け技術をたまたま学校で習った私は、濵井さんの写真をお借りしてカラー化を始めました。
アルバムの中に広島のお花見の名所「長寿園」で戦前に撮影された1枚の写真がありました。はじめはAIが桜の木を自動で緑色に色づけていましたが、対話すると、「これは家族と親戚と近所の方と一緒にお花見に行ったときだから、桜色なんよ」と教えてくださいました。そして「桜の木の後ろに写っている緑色の木は杉並木で、杉の実を取って杉鉄砲の弾にして、友だちとよう遊んどった。ここの近くに弾薬庫があって、幼心に怖かったんよ」と白黒写真では思い出さなかった新たなお話を語ってくださいました。
ご家族の皆さんはどういう色の着物が好きだったのか。濵井さんの記憶に残る色を聞き取りながら、手作業で色補正を重ねて白黒写真のカラー化を進めていきます。そのため、1枚の写真のカラー化を完成させるまでには最低でも1カ月はかかります。色鮮かに生まれ変わった写真を見た濵井さんは「昨日のことのように思い出すよ。家族が今も生きとるみたいだ」と大変喜んでくださいました。
幸せな日常から戦争の記憶を伝える
凍りついていた家族との悲しい記憶が、カラー化写真をもとに対話することで、戦前の幸せな日常へと変わっていく様子から「記憶の解凍」と名づけました。
今生きている多くの人々が、戦争を体験していない世代です。しかし白黒写真に「記憶の色」を載せることによって、戦争を体験していない人も、かつてあった平和な日常に想像をめぐらせることができると感じています。
私は被爆直後の惨状などの写真をカラー化したいとは思っていません。戦争体験者は、悲惨なことが起きる前に撮影された日常の写真をとても大切にされています。思い起こしたくないつらい記憶を無理やり掘り返す記憶の継承の仕方ではなく、ご本人が伝えたい幸せな記憶を伝える。そのことによって「こんなに幸せな日常が突然破壊されたのだ」という戦争の恐ろしさを伝えることができると思っています。
原爆投下により家族全員を失った
心の内側から「記憶の解凍」を
2020年、共著者の渡邉先生と私がこれまでカラー化に取り組んできた約350枚の写真を『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』という一冊の本にまとめました。
この本をきっかけに、広島出身のシンガーソングライターであるHIPPYさんや、作曲家でピアニストのはらかなこさんとの出会いが生まれ、私が初めて作詞・コーラスに挑戦した「Color of Memory ~記憶の色~」という楽曲ができあがりました。楽曲のミュージックビデオは、映像作家の達富航平さんと制作し、濵井さんも登場します。さまざまな感性に響かせて、皆さんに心の内側から「記憶の解凍」を感じてもらいたいという想いから、取り組みました。
また、スマートフォンを利用した「記憶の解凍」AR(拡張現実)アプリも作りました。無料でダウンロードできるアプリを平和記念公園の中で開くと、当時の風景を白黒写真とカラー化写真の両方で見ることができます。平和記念公園を訪れて現地を歩きながら「被爆前のこの場所にはこんな日常があったんだな。こんな街並みがあったんだな」と体感できるアプリです。
座学で白黒写真とカラー化写真を見比べるのと、原爆が落とされた場所で実際に足を動かすのとでは、実感の仕方がまったく違ってきます。感性と体感で学び取る。このような体験に「記憶の解凍」ARアプリは役に立つと考えています。
自分ごととして捉える平和学習の形
昨年の7月、私が通っていた幼稚園で園児と一緒に平和学習をする機会をいただきました。1日目は幼稚園のホールでカラー化した写真を展示させていただき、年長さんに観てもらいました。園児たちは「原爆が落とされて悲しかった」「この写真が笑っていてうれしかった」などと感想を書いてくれました。
他人事として、自分の世界から一歩線引きをしている「怖かった」という言葉ではなく、「悲しかった」や「うれしかった」という言葉から、園児自身が写真の中の人と自分を純粋に重ね合わせて感じてくれているのが伝わってきて、思わず涙が溢れました。
2日目は、園児と一緒に平和記念資料館に行きました。濵井さんの理髪店に掛かっていた皿時計が常設展示されていることを前日に紹介していたので、園児たちは、皿時計を見たときに「濵井さんだ!」と言ってバーッ! と駆け寄っていました。私が年長だったときは、資料館に対して怖い場所という印象を抱いていたので、今回はカラー化した写真を事前に見せて、「この写真に写っている方が大切にされていたものに会いに行く場所が資料館なんだよ」と園児たちに伝えていました。子どもたちもそのことはすごく感じてくれていたように思います。
実はこの平和学習を行う前日に濵井さんはお亡くなりになりました。とても悲しかったのですが、不思議なことに、私が戦争を経験していない世代に平和の大切さを伝える活動ができた時期と重なっていました。このことから、私自身も戦争は経験していませんが、戦争からさらに距離が遠い子どもたちに、戦争体験者の想いを継承していく使命を改めて感じました。
若者の自由な対話で核兵器のない世界を
2018年、私は高校1年生のときにアメリカのモントレーで開催された「クリティカル・イッシューズ・フォーラム」に参加しました。ここでは、核保有国の若者と非保有国の若者、核の傘下にある国の若者が、「核兵器禁止条約」をテーマに、プレゼンテーションと議論を行いました。
核保有国が条約にサインしていない現状がある中で、辿り着いた私たち若者の結論は「このまま核兵器を増やすのではなく、アメリカもロシアも核の傘下にある日本も、ステップは違えど目指すべきゴールは核兵器のない平和な世界だよね」というものでした。私の取り組みを発表すると、他国の参加者が、「カラー化した写真を観ると、原爆が遠い国の過去の出来事ではなく、身近に感じることができた」や、「広島に直接足を運びたい」などの感想を寄せてくれました。
また去年のG7広島サミットのレガシープロジェクト「若者たちのピース・キャラバン」で、英仏に派遣され、若者と交流する機会をいただきました。国家間だと難しい問題も、若者だからこそ歩み寄ることができます。国の首脳同士となるとどうしても「軍備増強をどうするのか」などという議論になるのですが、若者はそのようなしがらみがない分、自由に未来の平和を見据えた対話ができます。このプロジェクトに参加していたフランスの青年は、「フランスでは最近まで徴兵制があったけど、今の若者たちは徴兵を望んでいない。核保有国ではあるけれども、核を無くしてほしいと願っている若者のほうが多いんだ」と教えてくれました。
国家レベルではできない部分を、私たち若者が現地に足を運んで対話し、伝えていく。この地道な行動が、核兵器のない世界を作り上げる一歩なのだと強く実感しています。
広島で時間の限り対話を続ける
私は東京大学を卒業後、2024年4月に広島テレビ放送に入社しました。入社直後から早速取材であちこちを走り始め、現在は「記憶の解凍」のドキュメンタリー映画化にも挑戦中です。
4年間の大学生活を終えたあとは東京に残り、大学院へ進学して研究者の道を歩む選択肢もありましたが、研究者として書く論文は専門分野の研究者にしか読んでもらえないかもしれません。また広島と東京を行き来しながら戦争体験者への聞き取りを続けることは、時間に大きな制約が生まれることも大学4年間で痛感しました。
ならば故郷・広島に戻って働き、戦争体験者のすぐ近くで寄り添いながら、時間の限り対話を続けたいと思っています。
自分なりの方法で戦争体験を継承する
来年は原爆投下から80年となります。戦争体験者や被爆者から直接お話を伺うことは、これからますます難しくなるでしょう。
思い返せば、私は小学4年生の時、平和集会の最中に気分が悪くなり、高熱を出してしまったことがありました。そんなときに母は「大人でも恐ろしいと思うんだから、怖いと思うことは仕方がないよ。でも今、被爆された方のお話を聞かなかったら、世界で初めて原子爆弾が広島に落とされたという事実は忘れ去られてしまうよ。もし見るのが怖かったら、目を閉じてお話を聞くだけでもいいんだよ」と話してくれました。「直視しよう」とか「全部を受け止めよう」とするのではなく、「自分なりに受け止められる分だけを受け止めたらいいんだ」と意識が変わったのは私の大切な原点です。
戦争の記憶をこれから継承するとなったとき、戦争体験者や被爆者の想いと記憶をそっくりそのまま伝えていくのは非常に困難になってきます。書物や写真、インターネットやアプリなどを通じて間接的に戦争体験を学び、かつて戦争の惨禍に見舞われた現場を実際に歩き、想像してみる。教科書を読み知識として学ぶだけではなくて、自分が感じたことを、自分なりの自由な方法で周りに伝えていくことが新しい継承の形であると私は思っています。
まだ広島を訪れたことがない読者の皆さんは、ぜひ一度広島の地へいらしてください。実際にご自身の感性で体感する「記憶の解凍」が、戦争の恐ろしさ、平和の大切さを未来へ繋ぐきっかけとなることを願っています。
写真提供=

1936年、現在の原爆供養塔の東隣にあった「高橋写真館」での1枚。
写真提供=高橋久氏、カラー化=庭田杏珠

1936年5月2日、「
写真提供=

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「記憶の解凍」/peace artist
庭田杏珠(にわた・あんじゅ)
2001年広島県生まれ。東京大学教育学部卒業後、広島テレビ放送に勤務。戦前のモノクロ写真をカラー化する「記憶の解凍」に2017年から取り組む。著書に『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』(共著、光文社)で広島本大賞受賞。