「ユネスコ憲章」を体現した池田SGI会長の平和外交
2024/09/03アジア人として初のユネスコ事務局長を務めた松浦晃一郎氏。
香港総領事時代から池田先生と交流を結び、その行動と信念に共感をされているお一人です。
心に〝平和のとりで〟を築く挑戦はユネスコ憲章の精神であり、池田先生が体現された平和外交の在り方であると語られます。
(月刊『潮』2024年9月号より転載)
戦後秩序の第三期 多極化と混沌の時代
――ロシア・ウクライナ戦争やガザ地区の紛争をはじめ、世界各地で今も戦争や紛争が絶えません。
松浦 第二次世界大戦後の世界秩序を、第一期から第三期に分けて考えてみましょう。まず第一期は東西冷戦です。アメリカを中心とした西側の同盟国と、ソ連を中心とした東側の同盟国は緊張感をもって対峙したものの、武力行使をなんとか避けてきました。ただしこの間、東西冷戦の代理戦争といった様相で、朝鮮戦争やベトナム戦争などが起きています。
第二期は東西冷戦終了以降です。1989年から91年にかけて東西冷戦が終わり、さらにはソ連が解体され、ロシア連邦(以下ロシアと呼ぶ)及び11の国が誕生しました。また、かつての東側の同盟国であった東欧諸国の大半はアメリカと並んで西側の中核をなすEUに加盟しました。そういう中でアメリカが引き続き国際的に一番重要な地位を占め、アメリカ一強時代が始まり、世界はそれなりの秩序を維持してきました。
第三期の2010年代からはアメリカの一強時代が終わり、多極化時代が始まっています。中国は日本のGDP(国内総生産)を追い越すと同時に、大陸国家から海洋国家へと変貌し、急速に軍備を拡張していきました。また、ロシアは東側諸国のリーダーとしての地位は失ったものの、引き続きアメリカ、中国などと並んで安全保障理事会の常任理事国でもあり、国際的にかなりの重みを持った国として続いています。と同時にオバマ政権のアメリカは「世界の警察」としての役割から手を引き始め、トランプ大統領の時代にはますますその流れが加速しました。
今は世界の秩序作りを主導する大国が不在となった多極化時代です。今のところ世界的規模の戦争(第三次世界大戦)は起こってはいないものの、油断はできません。プーチン大統領のもと、ロシアはウクライナに侵攻し、簡単に核兵器の使用には踏み切らないでしょうけれども、何度も戦術核の使用をちらつかせてウクライナを恫喝しています。ロシアのウクライナ侵攻とガザにおけるイスラエルのハマスとの厳しい戦いは、当分停戦合意には至りそうにありません。イラン対イスラエルの対立も穏やかではありません。あまり報道されていませんが、イラクやシリア、イエメンの情勢も深刻です。
東アジアでまったく予測不可能なのは、北朝鮮の動きです。いよいよ本当に追いこまれたとき、北朝鮮は核兵器を使用する可能性がありうると私は見ています。
ユネスコ(国連教育科学文化機関)、国連及びWHO(世界保健機関)、WTO(世界貿易機関)、FAO(国連食糧農業機関)、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、UNDP(国連開発計画)、など31のグローバルな「国連ファミリー」の国際機関が役割を果たし、国連ファミリーを中心に平和な国際社会をもう一度作り直していかなければなりません。
香港で出会った池田SGI会長
――外務省で香港総領事を務めていた当時、池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長との出会いがあったそうですね。
松浦 1988年1月27日、SGI香港総会と第9回世界青年平和文化祭に出席するために香港を訪れた池田会長を、私は啓徳(カイタック)国際空港でお出迎えしました。このときが初めての出会いです。
お出迎えするにあたり、池田会長の著作を一生懸命読んで勉強しました。香港SGIの本部に事前に打ち合わせに出かけたところ「香港SGIを訪ねてくれた日本の総領事は初めてだ」とおおいに喜ばれたものです。
池田会長の香港滞在中に同行しながら食事をご一緒させていただき、一対一でずいぶん長い時間お話をさせていただきました。驚くほど謙虚で気さくな方であり、「学会員でもない年下の私に対して、ここまで温かく接してくださるのか」と深い感銘を受けたものです。
池田会長は1928年生まれ、私は1937年生まれですから、10年近い年長者です。SGIの最高指導者として重責と激務を担いながら、香港での池田会長の振る舞いは見事でした。すぐそばでずっと拝見していたところ、威張った態度は文字どおり「ゼロ」です。若輩者の私にさまざまなご質問を投げかけられ、終始真摯な態度で話を聞いてくださいました。
謙虚な態度は、SGIの会員とお話をされるときも同様です。香港の女性メンバーの話に真剣に耳を傾け、折々に指導をされていました。あまりにも謙虚なものですから、何も知らない人は目の前にいる人がSGI会長だとは気づかず、「立派な学者だな」くらいに感心したのではないでしょうか。
香港総領事の任務を終えて日本に帰還したときには、池田会長から「信濃町の創価学会本部にぜひいらっしゃってください」とお招きを受け、二、三度参上しました。また、ご自宅での池田会長との昼食会にご招待していただきました。私のような者と気さくにお話してくださる池田会長のお姿は、終生忘れることができません。
ユネスコ憲章と小説『新・人間革命』
――1999年11月から2009年11月まで、松浦さんはアジア人として初めてユネスコ事務局長を務めました。ユネスコ憲章前文には〈戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない〉と崇高な理念が掲げられています。
松浦 第二次世界大戦終結直後の1945年11月16日、米英仏の三国が中心になって開いたロンドンでの国際会議でユネスコ憲章を採択しました。現在ユネスコには世界194カ国・地域が加盟しており、世界中の国がユネスコ憲章の理念に賛同しています。
トランプ政権時代の2018年末にアメリカが脱退したものの、バイデン大統領に政権交代してから23年7月、アメリカは再びユネスコに加盟しました。
ユネスコ憲章が言うところの「戦争」を、私は国家間の物理的な衝突だけだとは考えていません。戦争に至る国と国とのいざこざも含め、広く「戦争状態」だと捉えています。そうしたすべてのいざこざは〈人の心の中で生れる〉。だから根本的には〈人の心の中に平和のとりでを築かなければならない〉のです。
――そのユネスコ憲章の一節を、池田SGI会長は「『SGIの日』記念提言」や著作、スピーチで何度も紹介されてきました。池田会長の小説『人間革命』と『新・人間革命』の主題は、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」というものです。ユネスコ憲章と通底する理念ではないでしょうか。
松浦 まったく同感です。今こそユネスコ憲章前文と池田会長の精神に、世界中の人々が立ち返るべきではないでしょうか。
池田会長は日蓮仏法の信仰をベースとしつつ、自らが信奉するイデオロギーを相手に押しつけることなく、極めて広い見地から宗教間対話を進めてこられました。キリスト教やイスラム教、ユダヤ教といった差異をポンと飛び越え、世界の指導者や有識者と民間外交を進めてこられたのです。
池田会長の行動は〈人の心の中に平和のとりでを築かなければならない〉というユネスコ憲章を体現した生き方でした。
平和を構築する宗教間対話
――松浦さんが外交官を志望した動機について教えてください。
松浦 私は山口県の田舎で育ちました。戦時中の幼少期は、空襲の被害をほとんど受けませんでしたが、田畑が豊かな田舎ですら、食べ物が乏しく苦労したものです。戦争で深く傷ついた状況から、いかに立ち上がるか。苦難の1940年代後半と50年代に私は学生時代を過ごしました。
「苦しい生活を立て直すためには、経済的に日本の国力を強化しなければならない。そのためには、何よりも国際交流をしっかり進めることが重要だ」と考えた私は外交官試験に挑戦し、外務省に入省して働く道を選択します。
ユネスコ事務局長時代には、宗教間対話の仕事にも取り組みました。カザフスタンではキリスト教やイスラム教、仏教などの指導者を招いて国際会議を開催しました。一口に「イスラム教」と言ってもスンニ派とシーア派があり、スンニ派のアラブ諸国とシーア派のイランは激しく対立しています。キリスト教の中にもカトリックとプロテスタント、ロシア正教といった違いがあり、一枚岩ではありません。従ってそれぞれの宗教の中の異なる宗派にも配慮して指導者を選択しました。いずれにしてもおのおのの宗教指導者は自分の団体内で凝り固まり、ほかの宗教指導者と対話しようとはしません。
アフガニスタンのタリバンの「バーミヤンの大仏」への対応に危機感を抱いた私は、イスラム教の宗教指導者数名を集め首都のカブールに送り込み、タリバンの宗教指導者と対話する国際会議を開きました。イスラム教徒の穏健派や中立派と対外的な交流を深め、過激派タリバンの動きを封じこめようと考えたのです。
彼らが「異教徒の仏像を大事にするのはイスラムの教えに反する」と言えば、「それは違う。仏像は宗教的に拝まない人と一緒になって、文化的な遺跡として大事にしていくべきだ」と激論になり、宗教間対話は平行線のまま終わりました。そして2001年3月、ユネスコの世界遺産になるべきであった「バーミヤンの大仏」がタリバンによって破壊されてしまいます。(破壊後にも世界遺産としての価値があるものが残っていたため、03年に世界遺産に登録)
残念ながら私が取り組んだ宗教間対話は実を結ばなかったものの、あの取り組みが無駄だったとは思いません。迂遠なように見えますが、地道な宗教間対話を継続していくことこそ、平和構築のための確実な一里塚なのです。
今も輝き続けるトインビー対談
――池田SGI会長は各国の政治指導者や学者、詩人らと対話を進め、50冊を超える対談集を発刊してきました。対談集は各国語に翻訳もされています。
松浦 国際人としての池田会長の仕事ぶりは、創価学会員ではない外部の私から見ても驚異的です。歴史学者のアーノルド・トインビー博士との対談集『二十一世紀への対話』は中身が濃く、今読み返してもまったく古びていません。ここまで深く対談ができる一級の知識人は、日本では池田会長くらいではないでしょうか。
いくらこちらから「会いたい」と打診したところで、激務の相手に「ぜひ会いたい」と思ってもらえなければ、会談は実現しません。池田会長の行動が尊敬を集めたからこそ、数多の対談が実現したのでしょう。
池田会長は周恩来首相と会談し、その後も鄧小平や江沢民、胡錦濤など中国歴代のトップと知己を得ていきました。
政府同士の交流ももちろん大切ですが、国家間に鋭い緊張が張り詰めたとき、その交流はプツンと途絶えてしまいます。政治的経済的利害にとらわれず、何があろうが水が流れるように交流のチャンネルを閉ざさない。池田会長が進めてきた中国との対話路線は、民間外交のお手本です。
このところ日本の若者は内向き志向が強まり、商社に就職したのに外国で勤務するのを嫌がる人が増えていると聞きます。嘆かわしい話です。池田会長のような国際人、コスモポリタン(世界市民)が日本からもっとたくさん輩出されてほしいと期待します。
平和外交の旗頭よ 海外へ飛び出せ
――松浦さんは今も大阪大学をはじめ多くの大学で講演や講義をされ、後進の育成に尽力しています。
松浦 私が外交官試験の勉強に取り組んでいた1950年代、部屋にはエアコンも暖房もありませんでした。夏には汗みずくになり、冬は足元に毛布をまいて震えながら勉強したものです。「日本が廃墟から立ち上がるために貢献したい」という青雲の熱い情熱が、私をひたすら机に向かわせました。
1960年に池田勇人内閣が「所得倍増計画」という経済政策を掲げると、日本は高度経済成長の波に乗りすさまじい発展を続けます。やがて90年代以降に「失われた三〇年」という長期停滞期を経験するものの、国際社会と比べて日本は相対的にとても豊かな国になりました。「豊かになりすぎた」とも言えます。
分断と対立、多極化がますます進む時代に平和と安定を築く主体者は、次代を生きる若い人にほかなりません。「日本はかなり豊かになった。このまま日本の平和を維持することができればそれでいい。海外の騒擾(そうじょう)なんて自分たちの知ったことではない」と内向きに引きこもるべきではありません。
「世界で平和を構築するのは自分たちの仕事だ」と当事者意識をもって、若い人たちにはどんどん国際社会に飛び出していってほしいと思います。
池田SGI会長は創価学会の国内的な基盤をきめ細かく作る仕事に取り組まれながら、日本一国にとらわれず、同時並行で国際的な交流と対話も進められてきました。SGIと創価学会の皆さんは、その池田会長に続いていただきたい。
2023年11月15日、池田会長は95歳で逝去されました。池田会長の遺志を継いで世界に対話の波を広げるのは、後継の皆さんの使命です。ぜひ頑張ってください。期待しています。
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元ユネスコ事務局長
松浦 晃一郎(まつうら・こういちろう)
1937年山口県生まれ。東京大学法学部を経て、59年に外務省入省。香港総領事、駐フランス大使などを歴任。99年11月から2009年11月まで、第8代ユネスコ(国連教育科学文化機関)事務局長(アジア人初)。現在、アフリカ協会会長等を務める。著書『アジアから初のユネスコ事務局長 松浦晃一郎 私の履歴書』など多数。フランスからレジオン・ドヌール勲章を受章。