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長年学んできた科学の力を生かし、安心・安全な社会を!

島根県の小さな村から、中学生のとき一人で広島へ。
高校時代に出会った生涯の師との“青春の誓い”を果たそうと、科学技術の世界、政治の世界で奮闘し続けてきた斉藤鉄夫さん。
その間断なき歩みを辿りました。
(月刊『パンプキン』2024年10月号より転載。取材・文=増沢京子、写真=雨宮薫)

 

集落ぐるみで育てられた少年時代

 1993年に衆議院議員初当選以来31年間、公明党の要として、また2008年には環境大臣、現在は国土交通大臣として政治の表舞台に立ってきた斉藤鉄夫さん。その間、軽減税率の導入や新型コロナ禍での一人一律10万円の特別定額給付金の実現、広島土砂災害や西日本豪雨では被災者支援に奔走してきた。包み込まれるような優しい笑顔と穏やかな人柄には、相手の心を開かせる力がある。
 
 斉藤少年は、広島県との県境に位置する島根県邑智(おおち)郡羽須美(はすみ)村(現在の邑南町(おおなんちょう))で農家の二男として生まれた。

「山と山が迫り川の流れに沿って10数軒の集落がある、そんな山村で生まれました。よく“子どもは社会で育てよう”といいますが、私はまさに集落全体で育ててもらいました。

 小さな集落なのに子どもがたくさんいて、同級生が5人も。昼間は大人がみんな働いているので、年上の子が4~5歳下の子の世話をするんですが、私の面倒を見てくれたのが“けいこちゃん”というお姉さんでした。今は境港に暮らされていて時々行くんですが、ずっと彼女に背負われて育ったので、当時は彼女と同じような言葉遣いになっていました(笑)」

 山間の棚田しかないような地域で、家を継ぐ長男以外はみんな外に出ていくことがほとんど。幼い頃から「おまえは独り立ちをしていかないといけない」と父から言われて育った。「それなら一生懸命勉強しないとという意識はもっていました」

 でも両親に「勉強しろ」と言われた記憶はない。お母さんの言葉で何か印象に残っていることは? と伺うと、「母は優しくて控えめな人でしたね」。言葉より鮮明に、心に残っている情景がある。小学校低学年のとき、庭で近所の子と遊んでいて石に頭をぶつけて顔中血だらけになった。「それを見た母が縁側から裸足で駆けつけてきて、ギューッと抱きしめてくれたのが今でも忘れられません」ぬくもりから伝わる母の愛。斉藤さんの優しさの原点かもしれない。

人生の師と出会い科学者の道へ

 斉藤さんは中学3年のとき、父に頼んで広島に出た。一人になる不安と、まだ見ぬ未来への希望を抱えながら。下宿して公立中学に通い、勉強に励み、広島の進学校・修道高校に入学した。

「高校時代は本当に勉強しました。この3年間が自分の人生の基礎になったと思っています。高校で物理を勉強したとき、たとえば物を投げたときに物が落ちていく放物線を簡単な数式で表せる。“物理の世界って美しいな!”と感動し、物理を勉強したいという思いが強まりました」

 多感な高校時代の一番の思い出は、高校2年生で創価学会に入会したことだ。当時は学生運動の全盛期で、東大の安田講堂を筆頭に各大学が学校封鎖。修道高校もその最先端で、学校の中にできた全共闘が校舎を封鎖した。

「あのころの高校生は“おまえは何のために勉強するんだ”“おれたちは何のために大学に行くんだ”“自分の栄誉栄達のためなのか、そんなの学問といえるか”なんて青くさい議論をまじめにやっていました。でも答えが出ない。そんなとき、友人から創価学会の話を聞いたんです。当時は学会に対して偏見をもっている人も多かったですが、兄が先に入会していたので抵抗はなかったですね」

 そして半年後、運命の出会いが。池田大作創価学会名誉会長が広島を訪問、記念撮影に参加する。

「先生が高等部に向けて“一人も残らず、石にかじりついても勉強し抜いてほしい。この中から、やがて大政治家も、大学者も、大科学者も出てほしい”とおっしゃって、私は“よし、大科学者になる!”と誓ったんです」。斉藤さんは大きな志を胸に東京工業大学に入学した。

科学者から政治家へ方向転換

 だが科学者への道は険しかった。大学から大学院に進み、博士課程へと思っていたが、自分よりはるかに優秀な人が山ほどいて、大学の先生からも「君の成績では無理だ」と言われた。

 博士号を取っても就職できない人も多く、修士課程修了での就職を決意。だが当時はオイルショックの影響でひどい就職難。とにかく採用してくれるところをと清水建設に入社し、工学の勉強をし直して博士号を取得した。

「清水建設にやっと拾ってもらい、“この研究をやってみたらどうか”というので博士号を取らせてもらい、アメリカの名門プリンストン大学にも留学させてもらいました。会社には感謝が尽きません。ともかく博士号を取って、池田先生との誓いを果たそうという思いがありました」

 留学から帰国後、研究してきたことをこれから会社で役立てて恩返しをと思っていた矢先に、思いがけず公明党から衆議院議員にという話があった。学者としての限界も感じていた斉藤さんは、一大決心をして、科学者から政治家へと方向転換する。

「方向転換というのは後からの自分の言い訳ですが(笑)、議員の話があったとき、先生の“大政治家になりなさい!”という言葉が頭をよぎりました。特に小選挙区で勝つというのは大変なことですが、その言葉を常に心の真ん中に置いて、選挙を勝ち抜きました。こじつけかもしれませんが、自分自身の心の支えになっています」

若い世代に伝えたいこと

 斉藤さんの趣味は鉄道。鉄道好きになったきっかけは、村に通っていた三江線(さんこうせん)だ。2018年に廃線になったが、“おまえは独り立ちをしていかないといけない”と言われて育った斉藤少年は、そのレールを見ると「この先に都会がある、自分の未来がある」と胸が熱くなった。

 3人の娘さんの父であり、2人の孫のおじいちゃんとなった斉藤さんが、今いちばん感じているのが子育てにもっと関わりたかったということだ。

「娘のパートナーを見ていると、会社を時短にしたり休んだりして子育てに熱心に関わっています。我われの世代は“24時間働けますか”という時代で、家や子どものことを言うと“おまえ、それでも男か!”と言われるような時代でした。

 妻にも“あなたはイクメンではなかったわね”と言われますが、もっと子育てに参加したかった。それは本当に反省しています」

 自身の反省も踏まえ、若い世代は子育てにしっかり関与してほしいという。

「仕事はあとでいくらでも回復できますが、子どもが小さい時期の子育てはそのときだけしか関われません。公明党はしっかり子育てに関われる社会環境をつくっていきたいと思っています。特に国土交通省は建設業や物流業を管轄していて、この分野は非常に労働人口も多く、女性やパートナーが働いている方も多いと思います。建設業・物流業は就業時間は全産業平均よりも1~2割長いのに、給料は1~2割低い。そこに無理のしわ寄せがいって、ほかの産業が成り立っているともいえます。

エッセンシャル・ワーカーといわれる人たちが、家庭生活もしっかりできる適正な労働時間で働き、お給料も全産業の平均程度になることが、子育てを充実させ、本当の意味でいい社会を実現すると思います。先日この2つの分野の法律を改正しました。これからも生きがいのある幸せな日本を目指してがんばります」

 

政治家として31年、常に国民目線に立った政策実現に力を尽くしてきた斉藤さんの政策・実績を紹介します

ー核廃絶ー
広島から選出される議員として、あらためて戸田城聖先生の核廃絶宣言や池田先生の核に関する提言を学び直し、核廃絶を私の最も重要な政治課題にと決意しました。原爆ドームの世界遺産化を推進。被爆者援護、特に在外被爆者(被爆して海外にいる人)の支援に力を入れ、現在は日本在住者と同様の援助が受けられるようになりました。

 

ー平和ー
1989年にベルリンの壁が崩壊し、今後世界は民主主義になっていき、軍縮や平和の方向に向かうと思われましたが、現実は中国やロシア、そしてほかの多くの国も権威専制主義になっています。民主主義VS専制主義の緊張をどう緩和していくか。公明党が信頼と対話をベースに、現実と理想を往復しつつ一歩一歩平和への歩みを進めます。

 

ー環境ー
科学を深く学んだことが、環境大臣や国土交通大臣をさせていただくうえで大きな力になっています。気候変動にも科学的根拠をもって対策を立ててきました。二酸化炭素を多く排出しているのが建設・交通・住宅といった国土交通省の分野なので、脱炭素化を経済成長につなげるGX(グリーントランスフォーメーション)を推進します。

 

国土交通大臣 衆議院議員
斉藤鉄夫(さいとう・てつお)
公明党副代表、党幹事長、政調会長を歴任。税制調査会顧問、広島県本部顧問。1952年島根県生まれ。東京工業大学大学院修士課程修了後、清水建設に入社。その後工学博士の学位を取得。米国プリンストン大学にて客員研究員を3年間務め、93年に旧広島1区にて衆議院議員初当選。2008年には環境大臣、21年には国土交通大臣に就任。