民族の対立を超えて音楽で一つになれた奇跡のコンサート
2024/11/08国家間や民族間の緊張が高まる今、音楽が持つソフトパワーが果たす役割とは。(月刊『潮』2024年12月号より転載)
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ウィーン・フィルと小澤征爾との出会い
国立音楽大学でトロンボーンを専攻していた私は、もともとオーケストラの指揮者になろうとはまったく考えていませんでした。人生が転換したきっかけは、1996年に初めて海外の地を踏んだことです。オーストリアのウィーンに到着すると、その日にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートがあることを知りました。指揮を務めていたのは小澤征爾さんです。
ウィーン・フィルの生演奏を聴くのも、小澤征爾さんの指揮を見るのも人生初でした。
リヒャルト・シュトラウス作曲の「アルプス交響曲」が演奏されていたのですが、それまで聴いたことのない凄まじい音に圧倒されました。そして日本人である小澤征爾さんが世界最高峰の楽団であるウィーン・フィルの楽団員を一人でまとめている姿にいたく感動したのを今でも鮮明に覚えています。そしてコンサートホールから出てきたときには「指揮者になりたい」と思っていました。私の人生の分岐点となる大きな出来事です。
その後、1カ月間のウィーン滞在中、コンサートを聴いたりオペラを鑑賞したり音楽三昧の日々を過ごしました。ある日オペラの当日券を買おうと思ってチケットセンターで並んでいたときです。隣にいた15歳ぐらいの少女が日本語の教科書を熱心に読んでいました。「日本語を勉強しているんですか」と英語で声をかけ、待ち時間を利用していろいろ話をしました。
その子はルーマニアからウィーンの学校にやってきて、ピアノを勉強していると言います。彼女はこんな話をしてくれました。
「ウィーンの隣のユーゴスラヴィアでは、アイスクリーム型の爆弾を拾った子どもが死んでいる。お人形の中にも爆弾が入っていて、それを拾った子も死んでいる」
陸続きのルーマニアからウィーンに留学してきたその少女は、隣国で起きている悲惨な内戦に心を痛めていました。日本から1カ月来ているだけの平和ボケした私にとっては、ユーゴの内戦と言われてもピンと来なかったのです。戦争を対岸の火事ととらえている自分を恥ずかしく思いました。
マケドニアに移住 旧ユーゴで指揮を振る
ウィーンから日本に帰国した私は、佐渡裕(さどゆたか)さんのもとに飛びこんで弟子入りします。佐渡さんは当時フランスのパリでラムルー管弦楽団の指揮者を務めていたため、佐渡さんの近くでアシスタントを務めつつ、パリのエコール・ノルマル音楽院指揮科で99年から指揮の勉強を始めました。
同級生にはベオグラード(セルビアの首都)からやって来た留学生がいて、次のように故郷のことを話してくれました。
「今私の国は大変なことになっている。コソボ紛争を終結させるために、NATO(北大西洋条約機構)がまさに空爆を始めるところだ。故郷の家族が心配でしょうがない」。家族の安否を心配する同級生は、ベオグラードに頻繁に国際電話をかけていました。
NATO空爆によってコソボ紛争が停戦すると、コソボはUNMIK(国連コソボ暫定行政ミッション)、さらにESDP(欧州安全保障防衛政策)の暫定政権下に入ります。当時私はセルビアという国もユーゴスラヴィアのこともよく分かっていませんでした。
しかし2004年、たまたま縁あってコソボの隣にあるマケドニアを初めて訪れ、プッチーニ作曲のオペラ「トスカ」の指揮者を務めました。オペラの大成功をきっかけに、私はマケドニア旧ユーゴスラヴィア国立歌劇場の首席指揮者を務めることになります。マケドニアで生活するようになってから、かつてウィーンで出会った少女や、ベオグラード出身の同級生から聞いた内戦の話がまるで伏線を回収するように繋がりました。
「自分はユーゴスラヴィアの地に来るべくして来たのだ」と運命的なものを感じました。
日本とはまったく文化が違うマケドニアでは、苦労の連続です。朝10時からリハーサルの予定なのに、10時には私一人しか練習場にいなかったりします。ポツポツと集まり始め、ようやくリハーサルを始められるかと思いきや、クラリネット奏者の男性が指揮台を占拠して「我々はこんな安い給料で働いていていいのか!」と演説を始めたりします。日本との文化のギャップがあまりにも大きすぎて、団員とケンカをしながら音楽に取り組む日々でした。
音楽が動かした戦争遺族の心
そんな中、2006年12月、コソボフィルハーモニー交響楽団で音楽監督を務められているバキ・ヤシャリさんにお会いする機会がありました。「2007年3月25日にEUの礎を築いたローマ条約50周年記念の大きなイベントがコソボで開催されるので、そこで指揮をしてくれませんか」との依頼を受け、喜んでお引き受けしました。
当時マケドニアに住んでいた私は、式典の直前にコソボに入ってリハーサルに臨んでいました。休憩中のことです。音楽監督のバキさんが衝撃的な言葉を私に投げかけたのです。
「トシオには悪いけど、今セルビアがコソボに攻めこんできたら、私は楽器を捨てて、銃を持って戦場に行く」
コソボ紛争中、バキさんは二人の身内を亡くしていたのでした。99年5月、アルバニアの民間人が乗っていたバスにNATOの誤爆ロケット弾が直撃しました。身内の一人は遺体がバラバラになったそうです。バキさんの妻の弟はその時は辛うじて生き延びたものの、全身の70%に火傷を負って亡くなられました。私はバキさんに対して何も言葉をかけられませんでした。
そして2007年3月25日、無事コンサートは開催されました。会場の客席、前2列には迷彩服を着た軍人が銃を持って座り、その後ろに民間人や国連職員、そして後ろの2列も軍人が銃を持って座るという物々しい警備です。
メインのベートーヴェン交響曲第7番が終わった瞬間、指揮を務める私の背後からものすごい拍手が飛んできました。後ろを振り返ると、軍人も民間人も国連職員も、みんな立ち上がって笑顔で拍手しています。感極まったバキさんが涙ながらに駆け寄ってきて、私にこう言いました。
「この間はあんなことを言って悪かった。音楽家はあんなことを言うべきじゃない。音楽に国境があってはならない。これから私は人に優しく生きていきたい」
家族を突然失った人の気持ちは、他人には容易に推し量れるものではありません。しかし「楽器を捨て、銃を持って戦場に行く」とまで追い込こまれていたバキさんの心は、確かに変化していました。
この劇的なコンサートの成功をきっかけに「コソボフィルで首席指揮者を務めてほしい」と依頼があり、私はマケドニアからコソボに移住して住みこみで指揮者の仕事に取り組むことになったのです。
死を覚悟して出国 コソボでの単身赴任
コソボに仕事の拠点を移す前から、マケドニアの人たちからは「コソボは危険だ」と聞いていました。民族対立が戦争にまで発展したわけですから、マケドニアではコソボに関する良い情報はまったく流れていません。でも実際にコソボで会った人たちは、心優しい親切な人ばかりでした。
ただし、治安が悪かったことは事実です。お昼ご飯を食べようとレストランに入ると、私以外の客は全員KFOR(コソボ治安維持部隊)の多国籍軍ということも珍しくありませんでした。迷彩服を着た軍人が床に機関銃をダーッと置き、機関銃だらけの食堂で軍人と一緒にご飯を食べるのです。
コソボに移り住んだとき、国連職員からこう言われました。
「何かあったときには、とにかく銃弾をよけてUNDP(国連開発計画)の建物まで走って逃げてきてください。そこまで来てくれれば、国連職員と同じ扱いで特殊車両に乗せ、戦車を護衛につけてマケドニアへ脱出させてあげます」
ただし脱出の条件は「一家族一人まで」です。そのため、マケドニアでは一緒に暮らしていた妻と幼い息子は日本へ帰国することとなりました。コソボから日本に一時帰国して再出国するときは、いつも成田空港で「もう日本の地を踏めないかもしれないな」と覚悟したものです。
悲劇のコソボで実現 奇跡的なコンサート
コソボフィルはアルバニア人だけで構成されています。私はバキさんの「音楽に国境があってはならない」との言葉が忘れられず「いつか民族対立を乗り越えるバルカン室内管弦楽団を立ち上げたい」と考えていました。そこでアルバニア人の楽団員を一人ずつ呼び出して「民族混合のオーケストラを作りたい」と提案しました。私は「それは難しい」と言下に却下されると思っていました。しかし意外なことに楽団員は「自分のいとこはセルビア人だ」「私は今セルビア人が住んでいるところで生まれた」などと話してくれ、交流が再開することは素晴らしいと賛成してくれたのです。
それからセルビア人の音楽家を集め、第三国のマケドニアにマケドニア人、アルバニア人、セルビア人の音楽家が集まりバルカン室内管弦楽団が結成されました。最初に集まったときはやはり緊張感や距離感がありました。しかし敵同士であっても隣に座り、弓を合わせていかなければならない。なにより気持ちを合わせないと演奏はできません。練習を重ねる中で、アルバニア人の音楽家が、本来口にするのも抵抗があるセルビア語を使って、セルビア人の音楽家とコミュニケーションをとるなど徐々に打ち解けていったのです。
そして2009年5月17日、コソボ北部のミトロビッツァという町でコンサートが実現します。
ミトロビッツァでの公演①
ミトロビッツァという町にはイバル川という川が流れており、川を挟んで北側にはセルビア人が住み、南側にはアルバニア人が住んでいます。イバル川には南北を繋ぐ橋が架かっているのですが、わずか10年前までお互い戦争をしていたわけですから、誰も渡らない「分断の橋」と呼ばれていました。民族対立の象徴である場所だからこそ、この「分断の橋」で演奏会を開きたいと私は考えました。
北側(セルビア人側)の市長、南側(アルバニア人側)の市長に国連職員と一緒に会いに行って「演奏会を開きたい」と提案したところ、戦争の当事者がコンサートを主催するのは難しいが、日本人の私が指揮者を務める楽団であれば構わないと言うのです。
ただし条件がありました。民族が分かると、石や銃弾が飛んでくる可能性があるため、参加者の名前は公表せずに伏せること。そして演奏会の告知は、爆弾などを仕掛ける時間を与えないためにも3日前までは行わないこと。長い曲は避け、休憩なしで50分の短いコンサートにすること。「栁澤さん、いざというときのために燕尾服の下に防弾チョッキを着なくて大丈夫ですか」とも聞かれました。私は「その時はその時で仕方ないでしょう。自分だけ助かってもしょうがないですから」。そう言いながら「分断の橋」の北側と南側で1回ずつ演奏会を開いたのです。対立している民族が共演するという奇跡的なコンサートでした。
演奏後、バルカン室内管弦楽団のメンバーは「ここは『分断の橋』と呼ばれているけど、自分たちぐらいは『再会の橋』と呼びましょう」と言いながらメールアドレスなどを交換し、民族を超えた音楽家としての絆を見せてくれました。
民族分断の地に鳴り響いた「第九」
2014年は、第一次世界大戦勃発の引き金となったサラエボ事件からちょうど100年の節目でした。そこで2014年7月5日、サラエボ国立劇場でバルカン室内管弦楽団が平和祈念コンサートを開くことになりました。コンサートで披露するのはベートーヴェンの交響曲第九番です。
戦争のせいで難民が逃げ回っていた地で「すべての人々は兄弟となる」と歌われる様子は、それは感動的なものでした。2019年には、コソボの野外コンサートでも第九の初演が実現しました。
「音楽の力によって平和が実現するはずだ」と軽々(けいけい)に言うつもりはありません。平和への道はあまりにも迂遠であり、永遠に戦争はなくならないのではないかと悲観しそうになることもあります。
ミトロビッツァでの公演②
今年は第九初演から200年の節目の年ですが、「人類みな兄弟」と願われながら200年ものあいだ演奏が続いているのは、ある意味で世界から争いがなくなっていないことを表しているといえます。
現在もウクライナやパレスチナのガザ地区をはじめ、世界各地において紛争が長期化し、国家間や民族間の緊張が高まっています。バルカン室内管弦楽団のメンバーは、ワールド・シチズン(世界市民)であろうと心がけてきました。地球上で生きるすべての人たちが国籍や民族、宗教の違いにとらわれず「自分たちは地球市民だ。世界市民だ」ととらえていけば、少なくともお互い殺し合いをすることはなくなるはずです。
バルカン室内管弦楽団を通して、争い合った旧ユーゴスラヴィア諸国の音楽家や観客が一堂に会し、コンサートを楽しむ。また戦争を対岸の火事だととらえてきた国の人々が、音楽を聴いた体験をきっかけに隣人との共存共栄について考え始める。これこそ平和を築くための確実な第一歩だと堅く信じています。
これからも音楽が持つソフトパワーで、人類の共存共栄を体現する演奏を一人でも多くの方々にお届けしていきたいと願っています。
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指揮者
栁澤寿男(やなぎさわ・としお)
1971年長野県出身。パリ・エコール・ノルマル音楽院オーケストラ指揮科で学ぶ。2000年東京国際音楽コンクール(指揮)第2位受賞。現在、バルカン室内管弦楽団音楽監督、コソボフィルハーモニー交響楽団首席指揮者。