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「だれかのために」の原点は、不登校と闘った日々

 今年3月まで、創価大学駅伝部で主務を務めた吉田正城さん。マネージャー陣をまとめ上げ、選手たちのスケジュールを管理し、マスコミ対応もするなど、八面六臂の活躍で部を支えてきた。

 彼は小学4年生からの約2年間、不登校を経験している。それを乗り越えた経験が、今にどう生きているのか? 母・智子さんとご家族が語る蘇生の物語――。
(月刊『パンプキン』2024年11月号より転載。取材・文=前原政之 撮影=水野真澄)

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 創価大学駅伝部では、12人のマネージャーが選手のサポートに当たる(2024年度)。そのマネージャー陣をまとめ上げる役割が「主務」だ。今年卒業した吉田正城さんは、2年生から主務に就任。最上級生が主務になるのが通例であり、異例の抜擢であった。

駅伝部の激動期を「主務」として支えた

 正城さんは卒業まで主務を務め上げ、2年次から4年次の3大会では、箱根駅伝で榎木和貴監督と共に運営管理車(監督車)に乗った。監督からの絶大な信頼が、そこに見て取れる。
 
 彼が大学生活を過ごした時期は、駅伝部にとって激動の4年間だった。コロナ禍、箱根駅伝での往路優勝・総合2位、新・白馬寮(駅伝部の学生寮)落成、出雲駅伝と全日本大学駅伝への初出場など、かつてない出来事が次々と起きたからだ。
 
 その激動期に、舞台裏で駅伝部を支える中心者となった正城さん。彼を育て上げた母・智子さんに、お話を伺った――。

長男の不登校と夫の失職が重なり……

 正城さんは、関西創価小学校の4年生から6年生にかけて、約2年間にわたって不登校を経験した。
 
 正城さんが小学校3年生のころ、父・一城さんが勤め先の事業縮小でリストラに遭い、失職した。追い打ちをかけるように、正城さんの不登校が始まったのだ。一家にとって、宿命の嵐が一度に襲ってきた日々であった。

「小学校4年生の2学期の初めから、『学校に行きたくない』と言いだすことが増えました。最初は『夏休みボケかな』と思っていたのですが、そのうち『頭が痛い』『おなかが痛い』と言っては休むようになって……。『足の甲が痛い』『腕が痛い』と言う日もあり、コロコロ変わるので、夫と『次はどこが痛くなるんやろ?』なんて言っていたくらいです。

 病院に連れていっても、どこも悪くないと言われました。でも、正城にとっては本当に痛かったのだと思います」(智子さん)

 いじめに遭うなどの原因があったわけではない。正城さんは今でも、「あのころ、どうして学校に行けなくなったのか、自分でもわからない」と言っている。

 不登校が始まったころは、無理やり学校に連れていった。だが、信頼する創価小の先生に相談すると、「お母さんと一緒に過ごせる大事な機会だと思って、休ませてあげてください」と言われた。それで安心し、無理に登校させることはなくなった。

「当時は私も仕事を持っていなかったので、正城と過ごすことを最優先しました。学校の時間割に合わせて、『何時から国語、10分休憩して、次は算数ね』というふうに、2人で勉強しました。家庭科の時間には一緒に料理をしたり、体育の時間には公園で運動をさせたり、時には美術館に連れていったり……」

 担任の先生は、授業を終えたあと、大阪の学校から京都の吉田家を頻繁に訪ねては、正城さんに勉強を教えてくれた。
 
 また、学校の友人たちは、授業内容をまとめたルーズリーフを届け続けてくれた。正城さんは、そのときのルーズリーフの束を、今も宝物のように保管しているという。
 
 そうした支えと励ましのおかげで、正城さんは少しずつ立ち直っていった。

「『薄紙をはぐように』という言い方がピッタリでした。授業には出られなくても学校の門まで行ってみるとか、先生に挨拶して宿題だけ渡して帰ってくるとか、少しずつ学校との接点を増やしていったのです」
 
 6年生になると、教室には行けなくても別室登校ができるようになった。

「空いている教室に私と2人で入って、先生が用意してくださったプリントで勉強をしました。そこに、休み時間にクラスの友人が顔を見に来てくれたり、給食を運んできてくれたり……。先生も児童も温かくて、ありがたかったですね」
 
 一方、夫の失業状態は長引き、経済的な苦境は続いていた。

「保険を解約して生活費に充てたこともありますし、1000円未満しか入っていない銀行口座に、小銭を足して1000円にしてから引き出して使ったこともあります」
 
 子どもたちの前では明るく振る舞っていた智子さんだが、夫と2人のときには不安をあらわにすることもあった。

「家に2人でいたら妻が突然泣きだして、『こんなことがいつまで続くの?』と言ったことがありました」(一城さん)

「家計の苦しさもそうですが、『正城がこのまま引きこもりになったらどうしよう』という不安がありました。出口の見えないトンネルをずっと歩いているようで……」(智子さん)
 
 それでも、宿命に負けない強さをもつ家族であった。

高校時代に駅伝部からスカウトを受けた

「関西創価中学に進んで、最初は私が最寄り駅まで送っていきました。でも、正城のほうから『お母さん、これからは一人で行けるから、もういいよ』と言ってくれたんです」

 悩み続けた不登校に、ピリオドが打たれた瞬間だった。それからは普通に学校に通えるようになり、正城さんは陸上競技を始めた。
 
 高校でも陸上部を続け、3年のときには短距離の部長も務めた。

「最寄り駅から関西創価高校までは長い一本道です。その道を毎日、部をまとめたり記録を伸ばしたりするための悩みを、あれこれ考えながら歩いたそうです。『あそこは"悩みの道"や』と言っていました。ああ、この子もやっと人のことで悩めるようになったんだと、うれしかったですね」
 
 一方、一城さんもハウスクリーニングの事業を起こし、失業から立ち直っていた。のちに法人化し、「明城環境株式会社」と命名。社名は息子2人の名から1字ずつ取った。

「私はずっと営業の仕事をしていたので、飛び込み営業は得意なんです。がむしゃらに営業して事業を軌道に乗せました」(一城さん)
 
 父と子は、機を一にして宿命の嵐を乗り越えたのだ。
 
 当時の正城さんは創価大駅伝部に入るつもりはなく、「大学に行ったら海外に留学したい」と言っていたという。だが、思いがけず、駅伝部の側からスカウトを受けた。
 
 瀬上雄然総監督(当時)は、駅伝部のマネージャーとなり、いずれは主務を任せられる人材を探していた。関西創価高校駅伝部の阿部一也監督(当時)に相談したところ、真っ先に名前を挙げたのが正城さんだった。短距離の部長として、だれよりも早く登校し、一人で黙々とグラウンドの整備をしていた姿を見ていたからだ。

「正城が3年生になってから、やけに早く学校に行くなぁとは思っていたんですが、グラウンド整備をしていたとは知りませんでした」
 
 部長としての責任感から、自発能動でやっていたことだった。それが決め手となって白羽の矢が立ったのだ。

「マネージャーは激務なので、アルバイトは一切できないし、留学もできない。正城に『どうしたい?』と聞いたら、『やってみたい』と二つ返事でした」

「不登校を乗り越えるまで、いろんな人に支えられたから、その恩返しがしたい」と、正城さんは常々言っていた。恩返しのひとつの形として、舞台裏で支えることを選んだのだ。

駅伝部での経験が、社会ですべて生きる

 正城さんが2年生で主務となったのは、期待の大きさの表れだった。だが、マネージャーには女子も多く、2年生が全員をまとめ上げていくのは並大抵のことではなかった。
 
 激務であることも想像以上だった。選手たちよりも早く起きて、夜も選手が寝たあとに翌日の準備をする。特に大会直前には、マスコミ対応も含め、やることがめじろ押しだ。
 
 2年生のある日、正城さんは榎木監督に「主務を辞めさせてほしい」と直訴し、慰留されたことがある。

「私はあとからそのことを知って驚きましたが、そのころは正城からよく電話がかかってきて、『主務の仕事がしんどい』と聞いていた時期だと思い出したんです」
 
 だが、正城さんはその壁を乗り越え、主務として大きく成長していった。もちろん、そこには家族の支えもあった。

「正城は駅伝部のことで悩みがあると、電話で相談してきました。女子マネージャーが多いこともあってか、母親の私にアドバイスを求めることもよくあったんです。でも、3年生になると、電話の回数がかなり減りました。そして、就職活動の時期になると、今度は夫によく電話で相談してきましたね。親の役割分担です(笑)」
 
 今年1月の箱根駅伝は、正城さんにとって現役時代最後の大会であった。夫妻はそれまで復路だけ現地で応援していたが、「最後だから、今年は往路から応援に行こう」と、前夜から夜行バスで現地に向かい、声援を送った。

「運営管理車に向かって2人で手を振って、『正城~!』と大声を上げたら向こうも気づいて、笑顔で手を振ってくれました」
 
 その姿にはチームを支えてきた自信がみなぎり、かつて不登校に苦しんだころの面影は、みじんもなかった。
 
 正城さんは、ホテルやリゾート施設を展開する会社に就職が決まった。思いがけず入社月を選ぶことができ、高校時代から希望していた留学の夢を、大学卒業後に実現することもできた。「だれかのために尽くしたい」という正城さんの願いは、今後、接客やホスピタリティを通じて叶っていくのだろう。
 
 智子さんは、これからの我が子に望むことについて、次のように言う。

「不登校などで苦労してきた分、悩んでいる人に寄り添ってあげられる人になってほしいです。そして、優しいだけではなく、しっかり芯をもって生きていってほしいと思います」

 

 

吉田正城さんのコメント
不登校になった時期、両親は僕を全力で応援してくれました。感謝しかありません。両親には与えてもらうことのほうがまだ多いけど、これから少しずつ恩返ししていきます。

学校でも支えてもらい、不登校を乗り越えた経験こそが、「人を笑顔にしていきたい」という思いの原点になりました。

駅伝部には、まだ成し遂げていない箱根総合優勝を、ぜひ達成してほしい。OBとして全力で応援していきます。

 

吉田智子(よしだ・ともこ)
1977(昭和52)年、京都府生まれ。京都府立商業高等学校(現・京都すばる高等学校)卒業。2000(平成12)年に結婚した夫・一城さんと共に、二人の子を育て上げる。長年、事務職として勤務。正城さんは長男。
二男・伸明さんは現在、創価大学文学部で学ぶ。

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