京屋の女房 ためし読み
2025/01/05蔦屋重三郎に見出されたマルチクリエイター・山東京伝を主人公に、江戸出版界の黎明期を彩った人々を描く「京屋の女房」。
冒頭部分を公開します。
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第一章 朱塗りの煙管
一
軒先から下がる暖簾が、ぱたぱたと風に揺れている。年が明け、寛政十二年(一八〇〇)の春を迎えたが、吹く風は変わらず冷たい。気の早い江戸っ子は、鶯の初音はまだかと痺れを切らすも、昨年末に降った雪が解けきらず、路地裏や陽の当たらぬ陰にまだ残っていた。
京橋一丁目、間口三間の、煙管、煙草入れ屋『京屋』。店先の置き看板には『御紙煙草入 京屋伝蔵』とある。
ゆりは、襷掛けに姉さん被りをして、色鮮やかな煙草入れの並ぶ棚を一心に拭いていた。その横には、煙管がずらりと並んだ引き出しがある。
雪化粧をした江戸の町は本当にきれいだったと、ゆりは思った。雪は醜いものも汚ないものも、なんでも覆い隠してしまう。町の喧騒すらも吸い込んで静寂を運んでくる。降る雪はどこも同じと思っていたが、明らかに一昨年見た雪景色とは違っていた。
四角い囲いの中にいただけじゃ、見えないものがたくさんあった。どこまでも空は果てなく続いているけれど、目の前にはいつも塀があった。女たちがひしめき合う町。美しい衣装も百目蠟燭(ひゃくめろうそく)の下で映える化粧も、現(うつつ)のようで現でない。けれど夢でもまやかしでもない。あたしたちは、確かにそこにいて、懸命に生きていた。
浅草田圃(たんぼ)には、夜通し光を放つ場所がある。江戸の町の灯(あかり)がほとんど消えても、そこだけぼうっと明るく闇の中に浮かんで見える。
新吉原と呼ばれる、遊郭だ。
ゆりは家の事情で、二十歳になってすぐ『玉屋』という見世(みせ)に入った。
吉原で最高位の花魁を張るのは、幼いころから読み書き、芸事を仕込まれ、さらに容姿に恵まれている者がほとんどだ。花魁の側につき、遊女としての仕事を学ぶ禿(かむろ)となるのも、女童のうち、やはり顔立ちがきれいな子や気働きの出来る子が選ばれる。
ゆりのように、歳がいってから大門をくぐった者は、吉原での立身は望めない。自分の座敷を持って客を迎えることが出来る部屋持ちになるのが精一杯。
年季奉公は五年。二十五歳まで勤めればここを出られるというのは、勘違い。化粧品や衣装、日用品は自分持ち。それに吉原には紋日(もんび)というものがあった。正月や雛の祭りなどのような五節句には衣装を新調したり、客に贈り物をしたり――そうした出費は妓(おんな)が負担するため、妓楼への借金は減るどころか、ますます増えて、年季はさらに延びることになる。金で買った女を見世に留めて置くために、よく出来た仕組みだと、悔しいけれど感心する。
ゆりも、もう二度と大門から外には出られないものと思っていた。
見世と約束した年季が明けても借金は残ったまま。そのまま奉公を続けることがほとんどだ。よしんば、借金がきれいになったとしても、帰る家がない女もいる。同じ見世にいた妓たちの多数が、遊女と客を取り持つ遣り手になったり、格下の見世に移ったりしていた。哀れなのは、河岸見世と呼ばれる切見世で客を取らざるを得なくなること。畳二枚のあばら屋で寝起きして、客の相手をする。
吉原の遊女が唯一の出入り口である大門から出るためには、身請けされるか、冷たい骸にならなきゃいけない。二度と再び町場の暮らしは望めないと絶望した。もう、これでおしまいなのだと、本気で思っていた。小さい頃から廓しか知らずに育った娘なら、生きる世界はここだけと達観出来るのかもしれない。けれど、ゆりは二十歳まで町場にいた。
父親は、醤油屋の番頭を務めていた。幼い頃は日々のお稽古事に、花見やお芝居、船遊び、大川の花火――。人並み以上の暮らしをしてきたから、「なぜこんなことに」と、余計に悲しく、辛かった。富くじに夢中になった父親が店の金を使い込み、悪い奴らから借金をして、勝手に死んでしまった。ゆりが十八のときだ。父親を恨んだ。まとまり掛かけていた縁談も反故になった。なんて運が悪いのだろうと思ったから、覚悟も出来たのかもしれない。
ここで生きて、死んでいくのだと―。
別の見世には、夫の借金の返済のために身を売った女がいた。子もふたりいるといっていた。亭主がちゃんと育ててくれればいいがと、毎日泣き暮らしていた。けれど、冬に患って、あっという間に逝ってしまった。亭主が亡骸を引き取りに来ただけ、幸せだと他の妓がぽつんといった。
親も亭主も親戚も迎えになんか来やしない。たいていは、巣鴨の西方寺や三ノ輪の浄閑寺が死んだ妓の行き着く先だ。
あたしは運が悪い中でも、良いほうだった。妓楼が玉屋であったことも幸いした。妓楼にも格があって、玉屋は大見世。だから、客層も悪くない。でもなにより、馴染みになってくれた夫には感謝しきれない。ましてや、妻として迎えてくれるなんて思ってもみなかった。
そのうえ、年季が明ける二年も前だ。
玉屋の主人からは、「旦那さんに感謝しなさいよ」といわれ、送り出された。
だからこの幸せをしっかりと嚙み締めて、この家を守っていかなければと思っている。
でも――。
ひとつだけ、心に引っかかっていることがある。
妹だ。父親が死んで、結局はその二年後に、吉原に行くことになるなんて思いもしなかったその年に、生まれた妹だ。父親はすでに亡くなっていたから、妹の父親はどこの誰かも知らない。母親は酌婦をしていたから、店で知り合った男だろう。二十も離れていたから、まるで自分が母になったように妹の世話をした。しかし、その半年後に結局、借金の形(かた)に、ゆりは身を売った。
生まれたばかりの妹のためでもあった。借金がきれいになって、少しまとまった銭が手元に残れば、と。そう思ってのことだ。ほんのわずかな間でも、自分が育てた。そんな情も湧いていたのだと思う。
けれど、ふたりが今どうしているのか。その行方も知らない。同じ江戸の空の下にいるのかもわからない。たとえ、どこにいても健やかにいてくれればいい――でも、いつか。会って姉妹の名乗りをしたい。玉屋にいた頃はそう思っていた。それが、ここを出るための力にもなったからだ。だけど、あたしのことなど、覚えているはずもない。母親が、父の違う姉が吉原で女郎をしているなんて話もしない。そもそも、姉がいることすら知らされていないかもしれない。
だからもう――。
はあ、とゆりは、ため息をついたが、すぐに首を横に振った。
いけない、いけない。ため息をひとつつくと、良いことがひとつ逃げていくよ、と幼い頃祖母にいわれたのを思い出す。いまだに、それを信じている自分がおかしいけれど。
ここに嫁いでようやく三月。舅はすでに亡くなっていて、姑もあまり息子夫婦にはかかわらない人なので、ほっとしている。ただ、あまり歓迎されていないことはなんとなく感じた。初めは吉原勤めだったせいかと思ったが、そうではなかった。夫には病死した先妻がいる。とてもよく舅姑に仕え、夫を支えていたと、姑がいつだったかさりげなくいった。夫も先妻を亡くした後、縁談は降るようにあったのに首を縦に振らなかったというから、良妻だったに違いない。先妻と比べられているのは、姑が意識せずとも視線や言葉の端々から窺い知れるものだ。
夫は四十歳。ゆりとは十七歳差の夫婦だ。姑は、歳の差が心配だといいつつも、若いのだから、子を成して、孫を抱かせてほしいといってくる。先妻との間に子が出来なかったからだ。
とはいえ、このくらいはほんの些細なこと。世の中にはもっと意地悪で、厳しい姑もいるだろうし。ゆりは、せっせと棚を拭く。
おや、こっちにも埃が、と爪先立って、腕を伸ばしたとき、
「お内儀(かみ)さん、そんなことは、おいらがやります。番頭さんに𠮟られちまいますよう」
表通りを掃きに出て来た奉公人の杉吉(すぎきち)が竹箒を放り投げ、慌てて店座敷に上がって来た。
「いいのよ。あたしはまだお店に出ても役に立ちやしないんだもの。こんなことぐらいしか出来ないから。拭き掃除以外にはなにかある? なんでもいってちょうだい」
ゆりは手を休めず、杉吉を振り返っていった。
杉吉は、ゆりの背後に立つと、
「駄目です、駄目です。掃除はおいらの仕事なんです」
そういいながら、べそをかいている。ゆりは驚いて、手を止めた。まだ十になったばかりの童だ。この子がこの店の奉公人の中で一番幼い。ゆりはついつい生き別れの妹を思う。男児と女児と違っていても。
「ああ、ごめんなさいね。そうね、あんたの仕事を取っちゃいけないわね」
杉吉がぐすりぐすりとしゃくり上げ始める。
「これ、杉吉。箒を放り出して何をしているんだい」
店と母屋とを分ける間仕切り暖簾から、番頭の重蔵(しげぞう)が姿を現した。
「あたしが余計なことをしたんです。杉吉はちっとも悪くありません。𠮟らないでくださいましな」
ゆりは杉吉を守るように腕を摑んで引き寄せた。重蔵は肉厚の唇をむうっと歪める。
「お内儀さん、前にもいったでしょう? お内儀さんは店に出て、時々常連やお武家のお相手をしていただければいいんです。掃除は、杉吉や他の小僧の仕事なんです。旦那さまもそのおつもりなんですから。勝手にされるとこちらが困るのですよ」
「ええ、わかっていますけど」
ゆりはずんぐりした重蔵を振り仰ぐ。重蔵は、どこかゆりを持て余すような眼を向ける。決して悪い人ではないのだけれど、どこか窮屈な男だ――やはり自分を受け入れていないのだろうと、つい考えてしまう。
「なんだか、じっとしていられなくて。動きたくなってしまうの」
ゆりが上眼遣いに窺うと、重蔵は、わざとらしく咳払いをして、
「ともかく、掃除は小僧にやらせてくださいよ。ほら、杉吉。ぐずぐずしていないで、さっさと通りを掃いてしまいなさい。そろそろ、お客さまも来る時分だ。五助(ごすけ)と太市(たいち)はどうした? また怠けているのかい。ああ、しょうもない。今日も忙しくなるというのに」
早口で捲くし立てると、帳場に向かって行く。
「ごめんね、杉吉。通りのお掃除をお願いね」
ゆりは杉吉の小さな手を握り締めると、にこりと笑いかけた。杉吉は眼をはっと見開いたが、すぐ恥ずかしげに顔を伏せる。ゆりが手を解くや、くるりと背を向け、小走りに表に出て行った。
「これ、店の中を走るんじゃないよ。埃が立つ」
重蔵の不機嫌な声が飛んだ。
店を開いて、半刻(約一時間)もせぬうちに次々お客がやって来た。三坪ほどの三和土はたちまち人でいっぱいになる。すでに店座敷に上がって、手代の太市からあれこれと新作の煙草入れを勧められる者が幾人もいる。
五助と杉吉は、通りにまで溢れるお客に、脇に寄って並ぶよう声を上げていた。
『京屋』では、正月二日の初売りから連日、この状態が続いている。
ゆりは、評判以上だと、間仕切り暖簾をわずかに開けて、お店の様子を窺っていた。
番頭の重蔵から「今日も忙しいので、お内儀さんのお世話まで手が回りません」といわれ、棚の掃除を終えたあとは、母屋に戻って針を運んでいたが、店がどうにも騒がしいのが気になってこっそり覗きに来たのだ。
年明けは藪入り頃まで特に忙しい、と夫から聞かされてはいたが、まさにその通り。すでに鏡開きも終わったというのに、客は引きも切らずに訪れる。
実は、皆、煙草入れや煙管を求めに来るだけではない。真の目当てが他にある。特に正月明けのこの時期は、なおさらなのだそうだ。
品物を買った客はもちろん、冷やかし半分の客たちもそれを今か今かと首を長くしている。
すると、ゆりの後ろに足音が響いて、
「お内儀さん、脇にどいてくださいよ」
重蔵の声が飛んできた。紐で縛った摺り物を顔が見えないくらい抱えている。
「あら、ごめんなさい」
ゆりは身を壁に寄せて、暖簾を重蔵のためにめくり上げた。
摺物を抱えた重蔵の姿をみとめた客が、一斉にどよめく。
「お待たせいたしました。さあさ、皆さま、我が京屋の主の新物でございます」
おお、と鯨波(げいは)のような声が上がった途端、
「そっちの草色の煙草入れをくれ」
「おれは、藍色の紙子だ、右の棚にある」
「おい、小僧、おれは鯉の金具付きだ」
三和土にいた客たちが我も我もと煙草入れを求め始める。ゆりは連日のやり取りとはいえ、やはりこの瞬間はどうしても眼を瞠ってしまう。客の期待の高まりが直に伝わってくるからだ。
「皆さま、落ち着いてくださりませ。景物はたっぷりございます」
客の対応をしていた太市が声を張り、小僧の五助と杉吉も、騒ぐ客たちをなだめ始める。
「何をいっているんだい。おれは昨日も来たが、昼にはもうなくなってたぞ」
「おれは一昨日も来た」
「そうだ、そうだ」
同調する者まで現れて、店先は大騒ぎ。
「申し訳ございません。日に二百の用意はしているのですが」
重蔵が応えるも、
「言い訳は聞かねえぞ。二百といわず、その日の客の分だけ出してくれ」
客も引かない。
「それでは、数日分までが、あっという間になくなってしまいます」と、重蔵は悲痛な声を上げる。
客が求めているのは、京屋名物の、景物。つまりおまけだ。
夏場でよくあるのが、何かしら商品を買うと、役者絵入りの団扇がもれなく付いてくる、というやつだ。ひとりでも多くの客を取り込むため、色々なお店でそうしたことが行われている。
京屋では、一枚の摺物を煙草入れや煙管を買い求めた客に付けている。開店当初は、その摺物を包み紙にしていたが、開いてみると、絵と文字が摺られており、なにより書かれていることが面おも白しろい。それが噂を呼んで、客のほうから、包み紙にせずにそのまま欲しいという要望が増えた。
商品は無論のこと、包み紙にも価値があると、さらにお店の評判が上がり、今は景物となり、購入者のおまけとして配られるようになったのだ。
なにゆえ、京屋の景物を客が争うように欲しがるか―。
「ゆり、ごめんよ。通しておくれ」
背後から、ゆったりした声が響き、ゆりはびくんと身を震わせ、振り仰ぐ。細面(ほおそもて)にすっと通った高い鼻、薄い唇には笑みが浮かんでいる。目元涼しく、その視線は常に柔らかい。ゆりは、我が亭主ながら、その姿にうっかりぽうっとなる。初めて会ったのは三年前だが、とても、四十の声を聞いたとは思えないほどに若々しいが、年相応の風格もある。
「覗き見なぞして、世之介(よのすけ)かえ?」
笑いを滲ませた声に、ゆりは胸の奥がこそばゆくなる。
暖簾がふわりと上げられて、店座敷に足を踏み入いれたのは、京屋の主人。ゆりの亭主だ。紺地に黒の細縞。くすみ緑の角帯には、うっすらと雪の結晶の意匠がある。
普段はあまり店には出ない主の唐突な登場に、客たちも口をあんぐり開けて、眼をしばたたく。
「これはこれは、賑やかでありがたいことで。本日も大勢さまにおいでいただきまことにありがとうございます」
本人は、自分の声には魅力がないというが、どうしてどうして。
低くなく、高くなく、すんなり胸に沁み込む声音(こわね)だ。
ゆりは、とくとく高鳴る鼓動を抑えるように胸のあたりに手を当て、亭主の姿を眼で追った。
裾をさらりと払って、膝を落とすと、しなやかな指先をついて頭を下げた。騒いでいた客たちのほうが恐縮する。若い頃からその身に付いた鷹揚としたさまが、皆の心をたちまち摑んでしまう。
主の名は、京屋伝蔵――またの名を山東京伝(さんとうきょうでん)。
(ためし読みここまで)
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