江戸のメディア王「蔦重」に学ぶ新たな道を切り開く力
2025/01/03NHK大河ドラマで大きく注目を集める蔦屋重三郎。
江戸のメディア王はどのように誕生し、私たちは彼からどんなことが学べるのでしょうか。
『蔦屋重三郎 浮世を「穿つ」眼を持つ男』を上梓した作家の髙橋直樹さんと、「蔦屋重三郎と田沼時代の謎」の著者であり歴史家の安藤優一郎さんに語っていただきました。
(月刊『潮』2025年1月号より転載)
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武器は吉原で生まれ育ったこと
髙橋 安藤さんの『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP新書)、たいへん興味深く拝読しました。
安藤 どうもありがとうございます。
髙橋 「江戸のメディア王」と呼ばれる蔦屋重三郎(1750~1797年。以下、蔦重)ですが、彼に関しては父親の職業や、兄弟姉妹がいたかなど、わからないことが多いですね。
安藤 ええ。ただ少なくとも吉原で生まれ、7歳のときに両親と生き別れになり、吉原の茶屋の養子になった。そのことは文献からも確かです。
髙橋 彼が吉原で生まれ育ったことは、その後の成功の大きな要因になったのではないでしょうか。
安藤 そうですね。吉原は江戸で唯一公認された遊郭です。同時に一流の文化人が集う、文化サロンの役割も果たしていました。
蔦重は吉原で生まれ育ったことを武器に、文化人との人脈を広げ、本の企画編集やイベント開催を行い、事業を拡大していったのです。
髙橋 彼は吉原のガイドブックである『吉原細見(さいけん)』を出すことから、本格的な出版事業を始めます。
安藤 蔦重は、義兄が吉原で茶屋を経営していたこともあり、遊郭の事情に詳しかったんです。その知見を活かして、一般の人にも見やすくわかりやすい「吉原細見」を売り出し、成功します。その後、遊女評判記など吉原関連の本の出版で、経営基盤を固めていきます。
髙橋 吉原あっての蔦重だったわけですね。ただ当時の吉原が文化サロン的な役割を果たしていたとはいえ、一般の人にはハードルの高い場所だったのではないでしょうか。人間の下世話な欲望が渦巻く世界、といった側面も強かったと思います。
安藤 遊郭ですから、そういった側面はもちろんあったでしょう。でも江戸時代の吉原は、遊郭だけがあったわけではありません。周辺には飲食店や土産物屋が並ぶ、江戸の一大観光地でもありました。地方から江戸にやってくれば、男も女も物見遊山で見物に行くような場所だったと思います。
髙橋 なるほど。必ずしも遊女目当てではない人も集まってくる場所だったんですね。
安藤 当時は性的なものと、エンタメや文化との境界が今より曖昧でした。幕末に日本を訪れた外国人は、日本人の性的なものへのおおらかさに驚いています。
髙橋 江戸時代の人たちの風俗を、現代の価値観で簡単に判断できない、ということですね。
安藤 吉原で生まれ育った蔦重は、当時の平均的な日本人とは別次元の文化的素養を持っていたのではないでしょうか。
また吉原はある意味で現実社会と隔絶された、浮世離れした世界です。そんな世界で育ったことも、蔦重の圧倒的な前向きさと打たれ強さ、しなやかさにつながっている気がします。
貸本屋からメディア王へ
髙橋 なるほど。ところで蔦重は出版業を始める足がかりとして、最初に貸本屋(料金を取って本を貸し出す商売)を始めますよね。このことも彼の成功の大きな要因になったのではないでしょうか。
安藤 そう思います。貸本屋は日常的に顧客と直接関わる商売です。日々の商売を通して、人々がどんなことに興味を持っているか、どんな本を欲しているのかといったことがわかってきます。
髙橋 貸本屋の仕事を通して、マーケティング力を養ったわけですね。
安藤 蔦重は33歳のとき、江戸の出版界の中心地だった日本橋通油町に進出し、幅広い事業を展開し、一代で江戸のメディア王にのしあがります。そんなことができたのは、貸本屋という助走期間のなかで人々の興味関心や時流を読み取る力をつけ、人脈や販路を築いたからこそだと思います。
大事な顧客だった大名屋敷の藩士
髙橋 貸本屋にとっては、参勤交代で江戸にやってくる藩士たちも大事な顧客だったようですね。
安藤 江戸の大名屋敷には、単身赴任でやってきた藩士がたくさん住んでいました。彼らは慣れない江戸で問題を起こさぬよう、外出が制限されていました。だから貸本を読むことが、一番の楽しみだったんですよ。
髙橋 つまり貸本屋は各藩の大名屋敷にひんぱんに出入りし、藩士たちと懇意にしていた……。
となると、お家騒動や藩の秘密の情報が自然と集まってきて、なかにはその情報を売って儲けていた貸本屋もいたのではないか。小説家としては、ついそんなことを考えてしまいます。
安藤 髙橋さんの小説『蔦屋重三郎 浮世を穿つ「眼」をもつ男』(小社刊)は、そんなモチーフをうまく駆使した壮大な歴史エンターテインメントですね。
髙橋 ええ。蔦重に関する史料が少ないのをいいことに、作家の勝手な空想を膨らませて書かせていただきました。(笑)
でも実際、貸本屋は薄利多売で、儲けなど微々たるもの。情報屋の儲けのほうが大きかったのではないかと想像しています。
安藤 その可能性もなくはないですね。ただ歴史家としては史料がない以上、絶対にそんなことは書けませんが。(笑)
髙橋さんの小説では、蔦重が秋田藩や徳島藩が絡むお家騒動にも関わっている設定です。歴史家には絶対書けない内容なので、うらやましく思いました。
髙橋 とはいえ小説家も、歴史物を書く場合、ゼロからすべてをでっちあげるわけにもいきません。想像を膨らませる最低限の史実は当然踏まえていますが、蔦重の場合、それが少ない。文献を読んでいても、面白い話に広げられそうな事実が出てきません。その点では小説を書いていて苦労しました。
田沼意次と蔦重の共通点
安藤 髙橋さんがおっしゃるとおり、蔦重に関する史料は少なくて、わからないことが多い。かといって歴史家は文献にないことは書けません。
だから歴史家が書く蔦重の本は、たいてい同じ内容になってしまうんですよ。
髙橋 歴史家には歴史家の苦労がある。(笑)
安藤 はい。そこで私の『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』では、老中・田沼意次(在職1767~1786年)の時代と絡めるかたちで、蔦重を紹介することにしたわけです。
一般的に田沼意次には、賄賂政治家といったネガティブなイメージがあります。でも彼は非常に優秀な人物で、従来の常識にとらわれない斬新な政策を推し進め、経済を活性化させました。
髙橋 世襲ではなく、実力で社会を変えたという意味では蔦重にも共通しますよね。
安藤 そうなんです。それだけに敵も多く、反感から悪評が広がった面があります。それでも田沼時代の日本社会は進取の気性に富み、自由な雰囲気のもとで豊かな文化が花開きました。
そのような時代の空気が、蔦重を生み出す土壌になったことは十分考えられます。
髙橋 ある程度の経済的余裕なしに、文化が発展することはあり得ませんからね。
安藤 社会の風紀が厳しく引き締められ、息苦しかった享保の改革と寛政の改革にはさまれた田沼時代の約20年間は、華やかで享楽的な時代でした。その象徴が「吉原」だったわけです。
改革政治への痛烈な皮肉
髙橋 田沼時代が自由だっただけに、その後の松平定信による寛政の改革の時代は、文化人にとって窮屈でつらい時期だったのではないでしょうか。
安藤 ええ。文化的には冬の時代です。質素倹約を掲げる寛政の改革では贅沢が禁じられ、社会が息苦しくなります。人々の不満も募りました。
そんな時代の空気を察知した蔦重は、寛政の改革を風刺する黄表紙(黄色い表紙の、大人向けの絵入り小説)を出版します。定信政治への痛烈な皮肉が喝采を浴び、それらは大ヒットしました。
でもその後、言論統制が強化され、人気作家が筆を折ったり、自殺に追い込まれていったりします。それでも蔦重は、定信に対抗するかのように出版を続け、最終的には罰金刑に処されました。今とは人権感覚も司法制度もまるで違う時代ですから、とても勇気のいる行動だったと思います。
髙橋 蔦重は吉原や出版業界の因習も破壊したわけですから、同業者からの反発や嫌がらせも多かったでしょう。でも彼はそんなことはまったく意に介さない。
安藤 蔦重は挫折を知らずに生涯を生き抜いた。というより、挫折を挫折と思わないところがあります。
髙橋 普通の人なら躊躇したり、遠慮したりすることを平気でやってしまうところがありますよね。
安藤 だからツッコミどころは満載です。松平定信が叩こうと思えば、いつでも叩けたわけです。
髙橋 一代であれだけ成り上がったわけだから、ダーティーな部分もあった人なのではないかと想像します。私の小説ではそのあたりを強調して描きました。
安藤 髙橋さんの小説の蔦重もそうですが、かっこいい魅力的な人である反面、一皮剝くと怖いところがあった気がします。
髙橋 人間には誰しも両面性がありますからね。でも蔦重は史料が少ないこともあり、彼のダーティーな部分に迫った作品はほとんどありません。それもあって、私の小説では蔦重のダーティーな部分を強調してみたんです。
その意味では一般的な蔦重像をぶち壊していますので、ひと通り蔦重のことを知ったけれど、まだ物足りないという方にこそ読んでいただきたいという思いです。
歌麿と写楽の売り出し方の違い
髙橋 蔦重は葛飾北斎や山東京伝、曲亭馬琴など数多くの才能を見出しました。なかでも最大の功績は、喜多川歌麿と東洲斎写楽を世に出したことだと思います。
ただ興味深いのが、二人の売り出し方がまったく違うこと。蔦重は歌麿をとても慎重に、戦略的に売り出しましたよね。
安藤 歌麿は蔦重の秘蔵っ子でしたからね。歌麿は最初、黄表紙の挿絵の仕事から始め、錦絵に進出します。そんな歌麿に、蔦重は狂歌絵本などの挿絵をたくさん描かせることで、腕を磨かせます。
そのうえで当時、美人画で人気が高かった鳥居清長と差別化を図るために、役者絵で用いられていた「大首絵」の手法で美人画を描かせるのです。この「美人大首絵」という新しい浮世絵ジャンルが大きな反響を呼び、歌麿は美人画の第一人者となったんです。
髙橋 いわば石橋を叩いて渡るように、手順を踏んで売り出したわけですよね。いっぽう写楽の時は、無名の絵師にもかかわらず、いきなり28点もの役者絵を出版します。なぜこんなに性急に世の中に出したのか……そこが疑問なんです。
安藤 髙橋さんの小説でも、その疑問をベースにミステリーが展開していますね。
歴史家の立場から見ると、写楽が無名の絵師だっただけに、大胆なことをして話題性を狙った気もします。また写楽の売り出しには、興行的に落ち込んでいた歌舞伎界とのタイアップ企画のような側面もあったようです。
髙橋 なるほど。でもアクの強い写楽の絵の売れ行きは、けっしてよくありませんでした。役者やファンからも反感を買い、写楽は10カ月で浮世絵界から姿を消してしまいます。結局、蔦重は写楽の売り出しには失敗したわけです。
安藤 この頃の蔦重の行動には、どこか焦りを感じます。すでに体調が悪く、自分の寿命が残り少ないと感じていたのかもしれません。
また当時、経営状況が苦しかったことも事実のようです。それまでのようにじっくり時間をかけて戦略的にやる余裕がなく、博打のようなことをしてしまった可能性も考えられます。
髙橋 ただ写楽の絵はその後、ヨーロッパの美術研究家らに評価され、日本でも再評価されます。そういった意味では蔦重の感性は、時代や国を超えていたのかもしれません。
厳しい時代こそ楽観的に挑戦
安藤 ところで2025年の1月5日から蔦重を主人公にした大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」がNHKで放送されますね。
髙橋 蔦重を演じるのは横浜流星さんとのこと。私の小説とは全然違う、爽やかな蔦重になるでしょう。(笑)
安藤 私も放送を、今からとても楽しみにしています。現代は出版不況が続き、メディア環境も激変しています。社会に閉塞感が漂ういっぽう、新しいチャレンジをする若者も増えています。今は先行きの見えない時代だと言われますが、実はいつの世もそうなんだと思います。そしてどんな厳しい時代にも、新しい道を切り開く者はいます。蔦重も寛政の改革期の息苦しい時代のなかで、攻めの姿勢を決して失わず、果敢に新しい文化を生み出していきました。
髙橋 身分制度や世襲ですべてのものごとが決まっていた時代に、何の後ろ盾もなしに、一人であそこまでのしあがったことは、本当にすごいと思います。
安藤 蔦重はどんな状況になっても、楽観的にチャレンジをし続けました。窮地に陥っても諦めず、道を切り開いていきました。そんな彼の前向きな生き方から、現代の私たちが学ぶべきことは多いはずです。
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歴史家
安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士(早稲田大学)。NHKラジオ深夜便などでも活躍。『徳川時代の古都』(小社刊)など著書多数。最新刊は『田沼意次 汚名を着せられた改革者』(日経ビジネス人文庫)。
作家
髙橋直樹(たかはし・なおき)
1960年東京都生まれ。92年『尼子悲話』で第72回オール讀物新人賞受賞。95年『異形の寵児』で第114回直木賞候補。97年『鎌倉擾乱』で中山義秀文学賞受賞。ほか著書多数。最新刊は『蔦屋重三郎 浮世を穿つ「眼」をもつ男』(小社刊)。