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故郷を想って綴る作品に込めた葛藤と希望

東日本大震災で妹を失った映画監督・佐藤そのみ氏と、「Love Letter」「スワロウテイル」の岩井俊二監督との対談。
震災の記憶を受け止めながら、フィクションとドキュメンタリーで伝えたい想いとは――。創作への葛藤と故郷への想いが交差する対話をお届けします。
(月刊『潮』2025年4月号より転載)

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東日本大震災発生時の記憶

佐藤 本日はお目にかかれて光栄です。私が生まれた1996年に公開された「スワロウテイル」をはじめ、「Love Letter」や「リリイ・シュシュのすべて」など、岩井監督の作品は大好きなものばかりです。

岩井 ありがとうございます。佐藤さんは日本大学芸術学部在学中に、東日本大震災をテーマにしたフィクション映画「春をかさねて」とドキュメンタリー映画「あなたの瞳に話せたら」を制作されたと伺っています。

佐藤 私は石巻市の大川地区で生まれ育ちました。2011年当時は14歳の中学2年生で、3月11日は3年生の卒業式があったんです。

 卒業式が終わったあと、自宅に帰ってギターの練習をしていたところ、午後2時46分に震災が発生しました。ドドドッ! と地鳴りが始まったときは、まるで爆発が起きたかと思うほどの衝撃でした。その後、家具がどんどん倒れ始め、「世界が終わってしまう」と恐怖感に襲われたのを今でも鮮明に覚えています。

岩井 ご家族はどのような状況だったんですか。

佐藤 当時、両親は二人とも教師をしており、父は女川町にある中学校、母は石巻市内の内陸側の中学校で勤務中でした。2歳下の12歳の妹は大川小学校に通っていて、先生たちと避難しているだろうと思っていました。我が家では祖父母と曾祖母同居しており、大学入学を控えていた兄も春休みで家にいたので、揺れが収まったあと、5人で車に乗って近くの高台に避難しました。

 岩井監督は宮城県仙台市出身でいらっしゃいますが、3月11日当日はどのような状況でしたか。

岩井 あの日はアメリカ西海岸のロサンゼルスにいました。地震があった瞬間は、東京にいるスタッフの相談を電話で受けている真っ最中でした。スタッフが突然「揺れている。揺れている」と言うので、僕はスタッフの「心」が揺れているのかと思った矢先、「こんなに大きい地震は初めてです」と。すぐにテレビをつけると、震源は「宮城県沖」。東京でもかなり揺れているのであれば、かつてないことが起きているのではと、時間を忘れて、津波と震災の中継を延々と見続けていました。

津波がのみ込んだ故郷の景色

佐藤 仙台にいらっしゃった岩井監督のご家族はご無事でしたか。

岩井 実家は仙台駅に近い場所にあるので、被害は地震の揺れだけです。妹が勤める会社が仙台市若林区にあるので、会社の手前まで津波が押し寄せたようですが、妹は幸いにも無事でした。

 昔、僕の兄は若林区にある幼稚園に通っていて、若林区は僕にとっても馴染み深いホームタウンです。自分の故郷が津波にのみ込まれていく映像を、胸が張り裂ける思いで見ていました。

 高台に避難されたあと、石巻市大川地区にある佐藤さんのご実家はどのような状況でしたか。

佐藤 大川地区にある私の実家は地区内では最も内陸寄りの集落にあったため、津波の被害は隣の集落の手前まででギリギリ免れました。そこから先の川沿いのエリアはほぼ全滅です。近くを流れる川は真っ黒になっていましたが、私の集落へはぎりぎり水が上がってきませんでした。

 「家に戻っても大丈夫そうだ」と判断して3月11日中に家に戻り、真っ暗な部屋でラジオを聴きながら状況を確認する夜を過ごしました。

 12日の午前には「大川小学校で孤立している児童や先生たちは、ヘリコプターで救助されてこちらの集落に輸送されてくる」という情報があり、地域のお母さんたちとおにぎり、お味噌汁を作って妹を待っていました。しかし13日になっても状況が分からず、耐えきれなくなって、母と一緒に大川小学校の方向まで車で様子を見に行ったんです。

 道路は地割れがすごく、あたりは津波にのまれて、私が好きだった大川の風景はそこにありませんでした。大川小の方向を眺めていたところ、地域の男性一人が歩いてきて、私と母の顔を見てこう言いました。

「妹さん、上がったよ」

 その瞬間、妹との別れが来てしまったことを知りました。そこからが私の"震災後"のはじまりでした。

震災と向き合う創作との葛藤

岩井 僕は震災から2カ月後の5月、塩竈市の親戚や石巻市の友人を訪ねたあと、一人でずっと沿岸を歩きました。一応カメラを持ち、写真や動画を撮ったわけですが、部屋の中が剝き出しの家だらけで、あたりはシーンとする中、自衛隊の作業音だけが聞こえてきました。

 あらゆる人間の思念が拒絶され、言葉で語ることすら憚られる中、起きた「出来事」だけが厳然とそこにある。人が向き合わなければならないものにしては、あまりにも壮大で強烈すぎる体験でした。

 震災以前、僕は創作において「描けないものはない」と思っていたんです。しかし、故郷の痛ましい光景を目の前に、自分の中に諦めに近い感情が湧いてきて、人間が創作として描ける限界を知る経験をしました。

佐藤 2012年、岩井監督はドキュメンタリー映画「friends after 3.11」を発表されていますが、どのような経緯でこの作品をつくられたのですか。

岩井 震災から時間が経たない段階で、あの惨禍をフィクション作品として描くのは到底できませんでした。でも親しい友だちの話なら聞くことができる。パーソナルな形での対話を、記録として残すことなら自分にもできると思ったことから、まずはドキュメンタリー映画にまとめました。


故郷、宮城県を訪れた岩井監督 Ⓒ『friends after 3.11【劇場版】』製作委員会


佐藤 その後、2023年に「キリエのうた」が公開されますが、フィクション作品として東日本大震災を描こうと思われたきっかけがあったのですか。

岩井 NHKから復興支援ソングの作詞を依頼され、2012年に「花は咲く」という歌を発表しました。「キリエのうた」は、ちょうど「花は咲く」の歌詞を書いているのと同じ時期に書いていたんです。僕にとって「キリエのうた」は、レコードに喩えると「花は咲く」のB面にあたる表裏一体の話と言っていいかもしれません。

 深く葛藤しながら脚本を置き去りにしていましたが、12年の時を経て、ようやく作品として仕上げることができました。

佐藤 先ほど話題にあがった「花は咲く」は、私も深く励まされた曲です。この歌詞にはどのような想いを込められていたのか、ぜひお聞きしたいです。

復興支援ソング「花は咲く」誕生秘話

岩井 断るわけにはいかない。引き受けざるをえない。作詞に取り組み始めたものの「どうしよう」と頭を抱える難しい仕事でした。

 被災者が体験した記憶は一様ではありません。僕のように家族が助かった人もいれば、佐藤さんのように妹さんを津波で失った被災者の方もいます。想像を超える恐怖やトラウマは人の数だけあり、「とても自分の手に負える仕事ではない」とずいぶん苦しみました。

 その後、東北の人々の風土を考えながら「応援してもらう」よりは「寄り添う」感覚のほうが馴染みがいいのではないかと方向性を決めました。東北には「皆まで言うな」という空気があると感じています。「だべ?」「だっ」という短い一言だけで以心伝心を共有する文化がありますよね。

 傷ついた人たちに向けて「がんばれ」と直截的な詩を書くのはちょっと違うと感じたことから、あのような歌詞になりました。

佐藤 私が「花は咲く」をテレビで聴いたとき、すっと心に染み入る感覚になり「岩井監督はやっぱりすごいな」と思いました。それまでメディアを通して「がんばろう」とか「絆」という言葉が、数え切れないほど被災者にかけられてきました。一方「花は咲く」の歌詞は、そうしたアプローチとは異なるものでした。

岩井 「震災で亡くなった方々の目線で歌詞が書かれている」という解釈をしてくださる方もいらっしゃいます。僕もそこは意識しながら書いていましたが、実際のところ、震災のことや亡くなられた方の目線で描くというより、ただただ故郷を思って綴った詩なんです。それ以上のことは書きようがなかった、というのが正直なところです。

 僕は18歳のときに地元仙台を離れ、横浜の大学に進学してからずっと東京で仕事をして、震災当日はロサンゼルスにいたわけです。旅人のような人生を送る中、いつも故郷をずっと遠くから見てきました。亡くなった方たちが天国にいるのだとしたら、天国から故郷を見つめる目線と僕の目線は、そんなにかけ離れたものでもないと思ったんです。

「離れた場所から故郷を思う」という自分のパーソナルな思いを詩に紡いだ結果、佐藤さんをはじめ多くの人たちに受け入れてもらえたことは嬉しく思います。

佐藤 私は「花は咲く」を聴きながら、妹を含め亡くなった人たちが安らいだ場所にいるんだと、とても安心したんです。亡くなった人たちが、安らかな思いで私たちを見守ってくれている。あの歌詞から故人の目線を感じ、とても救われていました。

岩井 佐藤さんはいつごろから映画を作ろうと思われたんですか。

佐藤 石巻市の大川地区は、とても自然豊かな田舎です。人口が少ないおかげで、人と人との関係性が密でとても濃いんです。そこがとても魅力的に見えて、震災より前の12歳のときに「ここを舞台に映画を撮りたい」と思いました。文章を書いたり絵を描いたり、写真を撮ることも好きでしたが、映画ならそれらを全部一度にできると思ったことがきっかけです。

震災遺構の大川小学校。津波により児童108名中74名・教員10名が亡くなった (佐藤監督提供)

作品で繋ぐ地元の人々の想い

岩井 震災直後、被災者にカメラやマイクを向けるマスメディアに対する批判がありました。あのときカメラを置いたドキュメンタリー作家もいれば、たとえ批判されても作品を撮り続けた作家もいて、ドキュメンタリーを本業にしていた人間には非常に大きな葛藤があったと思います。

佐藤 私は14歳のときから、妹を失った被災者としてカメラを向けられる立場でした。誰かを映像作品の被写体にすることは、時に暴力的な行為にもなり得ます。そういった実体験もあり、「傷ついた人にカメラを向けたくない」「今の私には、大川地区の人たちは写せない」と思い、フィクション作品の「春をかさねて」を最初に作りました。

 私自身、妹を亡くした悲しみは今も消えず、すぐに昇華できるものではありませんでしたが、まずは自分の思いを置き、地域の人々の悲しみをすくい取る作品を作りたいと思っていたんです。

 また、震災によって地元の環境は大きく変わり、大人も子どもも考えのすれ違いから、周囲の人との関係に亀裂が生じることも少なくありませんでした。現実では修復できなかった関係性や想いを作品の中で繋ぎ、故郷の人々に癒やしや安心感を届けたい――そういった思いも、私が作品を作る大きな動機になりました。

大川小学校でカメラを回す佐藤監督(佐藤監督提供)

創作意欲の火を灯し続ける冒険心

岩井 「春をかさねて」と「あなたの瞳に話せたら」は全国各地で公開されていますが、観客の方からはどのような反応を受け取っていますか。

佐藤 被災者の中には、短いニュース映像ですらトラウマが掘り返されて辛い人もいます。制作前は、地元の人たちの気持ちを想像できるからこそ、「私はこういう思いです」と作品で表現することで、そこからこぼれ落ちる人が嫌な思いをするのではと悩み、上映することが怖い時もありました。

 しかし、作品を鑑賞してくださった地元の方から「安心して観ることができた。『これは自分たちの話だ』としっくりきました」と言われたとき、本当に嬉しかったです。また、震災を経験していない人の中には、「田舎の風景を見て自分の子ども時代を思い出した」と、私が想像もしない形で作品を受け取ってくれる人もいました。

 各地で上映を重ねるうちに、「ああ、作品とはこうして自分の手元から離れていくのだな」と初めて実感したんです。

岩井 それはとてもいい経験ですね。僕にとって創作は、「冒険」だと思っています。作品に挑むことで、どんな景色が見られるのか、どんな体験ができるのか――それを知りたいという冒険心が、僕の創作の原動力になっています。

 今は生成AIなどが普及し、誰もが簡単に表現できてしまう時代ですが、大切なのは「自分が作る」というモチベーションを持ち続けられるかどうかだと思うんです。僕は「未知の領域」、「人智を超えた何か」を作品に残したいという思いがあります。

 観客が作品を鑑賞した際、最も共感し、喜んでくれるのは、そうした挑戦の部分なのかもしれません。世界がどのように変わっても、「冒険心」という創作意欲を持ち続けることが、これからの時代に大切なことだと思っています。

佐藤 私は今28歳で、ちょうど人生の半分が震災後という年齢になりました。これから撮りたいテーマがいくつかあり、震災や故郷からは一度離れ、新しいことにも挑戦してみたいと考えています。

 しかし作品作りの根底には、震災で得た自分自身の強さと弱さであったり、生きている人・亡くなった人への思いを残していきたいという思いがあります。私は「冒険」という意識にはまだ全然至っていなくて、どちらかというと、子ども時代から抱えてきた辛いことを、映画を通じて少しずつ昇華しているような感覚です。

 私もいつか、岩井監督のように若い世代にとって指針となり、憧れになる作品を、作れたらいいなと思っています。

岩井 共に新たな挑戦を重ねながら、創作の冒険を続けていきたいですね。佐藤さんならではの視点で、これからどんな物語が生まれるのか、楽しみにしています。

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映画監督
岩井俊二(いわい・しゅんじ)
1963年宮城県仙台市生まれ。93年、テレビドラマ「ifもしも~打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」で、日本映画監督協会新人賞を受賞。95、長編映画「Love Letter」は、アジア各国で公開され大ヒット。以降も数々の作品を手掛け、国内外で幅広く活躍。

映画監督
佐藤そのみ(さとう・そのみ)
1996年宮城県石巻市生まれ。2015年日本大学芸術学部映画学科に入学。在学中の19年に石巻市大川地区を舞台に「春をかさねて」と「あなたの瞳に話せたら」を自主制作し、24年に劇場公開。新作に短編映画「スリーピング・スワン」(ndjc2024作品)がある。