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政界にメスを入れる 外科医の使命

2025年夏の参議院選挙に公明党から立候補予定の川村雄大さん。消化器外科専門医から政界に挑戦する。
(月刊『潮』2025年5月号より転載。)

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運動が得意な少年時代

 2024年12月、公明党青年局次長に就任した川村雄大。これまで都内の病院で勤務していた外科医だ。コロナ禍をはじめ医療の最前線で経験を積むなかで、政治の力を痛感し、「いのちを守る政治」の実現を掲げて挑戦を開始したという。生い立ちから現在までの歩みを辿りながら、川村雄大の信念とビジョンに迫る。

 1984年、川村雄大は北海道帯広市に生まれた。父は市役所職員を務め、母は病院で医療事務の仕事をしていた。帯広の公営団地で幼少期を過ごし、小学3年生のときに隣町の音更町に引っ越す。運動が得意な少年だった。

 駆けっこ、縄跳び、ドッジボール、とりわけ野球が大好きだった。小中学生時代は野球に熱中し、学校が終わるとすぐに練習や試合に明け暮れた。

「運動が得意だった半面、小さなころは病気ばかりしていました。アトピー性皮膚炎、アレルギー性鼻炎、喘息に次々とかかってしまい、しょっちゅう病院に通ったものです。季節の変わり目に風邪をひいたことを引き金に、喘息の発作を起こして学校を休んでしまうこともよくありました。皆勤賞なんてもらったことがありません。耳に水分が溜まる滲出性中耳炎にかかり、鼓膜を切開する手術を受けたこともありました」

 そんな川村少年にとって病院は身近な場所だった。今でも印象に残っているのは、小学1年生のときにウイルス性の髄膜炎だと診断され、一週間入院したときのことだ。

「小児科の先生から診断を受け『入院だね』と言われたあと、その先生が私を抱っこしてグッと体をもち上げてくれたんです。そのとき『ああ、僕は今守られているんだな』と思って、一気に安心したことを覚えています」

 十勝の大地で、伸び伸びと成長していた川村少年だったが、小学6年生のとき、恐ろしい出来事が起きる。旅行先のプールで、妹が溺れてしまったのだ。幸い、他の旅行者が気づいて引き上げてくれ、プールサイドで速やかに救命処置を施された。自発呼吸を取り戻したものの意識が戻らず、救急搬送。救急車に同乗することになった川村は「妹はこのまま死んでしまうかもしれない」と、恐怖で涙が止まらなかった。

 担当した医師は、MRI画像を示しながら「記憶障害が残るかもしれません」と告げた。不安に押しつぶされそうな中、家族で懸命に祈った。その夜、妹は意識を取り戻し、家族は安堵の涙を流した。一週間ほど記憶障害の症状が残ったものの徐々に回復し、今は看護師として元気に勤務している。

「妹が死んでしまうかもしれないという状況の中、家族ではどうしようもないときに、救命の手を差し伸べられるのが医師である、と強く思いました。この経験が後に、医師を志す大きなきっかけになりました」

創価高校への進学

 中学生時代、生徒会長や野球部のキャプテンを務めるなど、仲間をまとめる機会が多かった。野球部では同学年のチームメイトだけでなく、後輩にも気配りしなければならない。学校の人間関係で悩んだとき、創価学園の創立者である池田先生が、青少年に向けて書いた書籍『青春対話』『希望対話』に励まされたという。

「父はことあるごとに、『池田先生はすごい!』と熱っぽく語ってくれていました」

 川村は小さいころから、全力で庶民を励まし、宗教や文化の違いを超えて世界的な指導者とも対話を重ね、平和のために行動する池田先生の姿に触れていった。

「池田先生は、私たち子どもに向けて『君たちには使命があるんだよ』と語りかけてくださっていました。『青春対話』や『希望対話』は10代の時の愛読書です。悩んだときにはいつもひもといていました」

 中学三年生のとき、池田先生がイタリアのサッカー選手ロベルト・バッジョとともに、東京の創価学園を訪れる映像を見た。バッジョはサッカーワールドカップのイタリア大会(90年)、アメリカ大会(94年)、フランス大会(98年)に三大会連続出場したイタリアサッカー界のスーパースターだ。とりわけ94年には決勝戦まで進出し、ブラジルを相手にPK戦までもつれこみ世界を熱狂させた。(バッジョは右足を負傷しながら決勝戦に出場し、PK戦で最後の一発を蹴った)

「その映像では、在校生一同が集う式典に池田先生とともに出席したバッジョが、感動して涙を流す姿が映し出されていました。その光景があまりに輝いて見え、『僕もこの学園で学びたい!』と思ったのです」

 創価高校の受験を決意したものの、ときはすでに中学3年の年末。川村は元々、地元・北海道の高校への進学を考えていて、すでに進路を決める三者面談も終わり、学校は冬季休業に入るころでもあった。

「父が頭を下げて、急遽の対応をお願いし、先生方も快く応援してくれました」

 過去問もなく、市販の問題集を購入して、勉強を開始したものの、中学校の学習範囲を超えた入試問題に四苦八苦。数学の先生が、自宅に招いて、受験勉強を指導してくれた。

 そうしてなんとか創価高校の受験を終え、いよいよ合格発表の当日。中学校で校内放送が流れた。

「川村雄大君、職員室にきてください」

 職員室で保留になっていた電話を取ると、うわずった声で父が合格を教えてくれた。

「父はインターネットで先に結果を知って、すぐに担任の先生宛に連絡をくれたのです。本当に嬉しかったですね。人生で一番嬉しかったときかもしれません」

「最後の一歩まで断じて退くな」

 創価高校入学直前の2000年2月6日、池田先生の長編詩「大空を見つめて」が発表された。「愛する学園の わが子に贈る」という副題に目がくぎづけになった。「これは自分に贈られた長編詩だ」と背筋が伸びた。

 〈最後の一歩まで
  断じて退くな!
  幸福は 前にあるからだ
  後ろに引き下がる青春は
  自らの宝を
  捨て去ってしまうからだ
  

  断じて 前へ進め!
  断じて 前へ歩め!
  断じて 前へ行け!
  必ず そこには
  希望と金の汗と
  勝ちゆく鼓動と
  満足の魂の輝きがある……〉

「この長編詩は、全編を通して何度も何度も読みこんできました。なかでも冒頭の『最後の一歩まで断じて退くな! 幸福は 前にあるからだ』との一節は私のその後の人生において、幾度となく困難を乗り越える大きな力となった原点です」

 2000年4月8日、創価高校の入学式で池田先生との初めての出会いが実現した。創立者が会場に入ってきた瞬間、会場の空気が一遍に変わり、川村は身も心も熱くなったことを覚えている。

 入学式の席上、池田先生は新入生に向けて次のようなスピーチを送った。

〈新しい千年へ、「希望」を広げ、「未来」をつくりゆく、わが創価の新入生の皆さん! 皆さんには、「二十一世紀」という世界的舞台が待っています。その舞台の主役が、皆さんです〉
〈皆さんも先輩たちのあとに続いていただきたい。そのためには「勉強」である。徹して学ぶことである。〝千匹の羊〟よりも、一匹の獅子〟である。学園生は、力ある「獅子」となっていただきたい。創価学園は、「世界の指導者」となりゆく人々の集まりです。皆さんの「未来の可能性」を祝して「自分自身、万歳!」をしましょう!〉(『池田大作全集』第58巻)

 創立者の期待を胸に、創価高校での生活が始まった。

東京医科歯科大学合格と医師への道

 川村にとって、創価高校で出会った友達や教師は一生の宝物だという。

「楽しかったですね。えらいストイックな人もいればゆるい人もいて(笑)。遅くまで友達と様々なことを熱く語り合ったことは最高の思い出です」

 川村は軟式野球部で汗を流し、男子寮「栄光寮」で仲間と寝食をともにする充実した学生生活を送っていた。栄光寮には悩み事や相談事があるときに宿直の教師に何でも相談できる雰囲気があった。そして、現役の大学生である寮のOBが栄光寮をことあるごとに訪れ、夕食を一緒にとったあと、勉強の相談や進路相談に乗ってくれた。そうした環境のなかで、川村は様々な触発をされていく。

「私の両親をはじめ、近しい親戚の方にも大学に行った人はほとんどいませんでしたので、ぼんやりと進学しようと思ってはいたものの、具体的なイメージが湧かなかったのです。それで、医学部への進学を目指す同級生の姿であったり、難関大学へ進学した先輩たちと様々な話をするなかで、わたしも医師への憧れが明確になっていきました」

 大学受験の中でも医学部は最難関であり、とりわけ国立大学医学部は狭き門だ。高校三年生時の大学受験には失敗し、一浪を余儀なくされる。孤独な戦いで心が折れそうになったとき、支えて励ましてくれたのが高校時代の仲間や先生たちだった。そして、創価高校入学式での創立者のスピーチを読み直して心を奮い立たせた。

〈何度もつまずいて、それでも立ち上がって、「前へ」と進んでいく。大事なのは「忍耐」です。「粘り強さ」です。「勉学第一」が、学園魂だからであります。一ミリでも二ミリでも、努力して前進していこうという心が大切なのです〉(同)

 1年の浪人生活を経て、川村は東京医科歯科大学(現・東京科学大学)医学部に合格を果たした。

新型コロナの現場で感じた政治の力

 研修医2年目のとき、どこの科を専門に選ぶか決めあぐねていた。都立豊島病院の外科部長・安藤昌之医師(現・同名誉院長)の言葉が印象に残った。

「外科医にとって手術は日常の出来事だ。だが患者にとって、手術は一生に一度の重大事だ。外科医はそのことを忘れるな」

 安藤医師との出会いをきっかけに、川村は外科医の道を選ぶ。豊島病院だけでなく、新渡戸記念中野総合病院や東京科学大学病院など、様々な病院で命の現場と向き合ってきた。

「特に私は消化器がんを専門にしてきました。一般に、外科医は、患者さんの症状をきいて、検査を行い、診断をつけるところからはじまり、ご家族を交えての病状告知、そして手術を行います。病状によっては、放射線治療や化学療法などが必要になる場合もあります。残念ながらがんが再発してしまうこともあります。予測される予後をお伝えし、残りの人生をどう生きたいかを、話し合うことも大切です。時に最期の瞬間に立ち会わせていただくこともあります。その方の人生の総仕上げの時期に寄り添い伴走する外科医の厳粛な使命と責任に悩みながらも、常に真剣勝負で臨んできました」

 2020年に新型コロナウイルスのパンデミックが発生すると、豊島病院でコロナ患者の診療に当たった。人類がこれまで経験したことのない未知のウイルスの脅威にさらされる中、最前線で奮闘を続けた。

「コロナ禍は私が政治の力を実感する大きな出来事でした。私も一緒に最前線で診療に当たっていたある先輩医師が、ホテル療養の現場でのパルスオキシメーターの活用を思いつきました。その現場の小さな声を、公明党が拾い上げたのですが、驚いたのはその後、迅速なスピードで、医療現場に配備されたことです。現場の声をダイレクトに政治に届け、現場が切実に求めている政策を迅速に実行する。ネットワーク政党・公明党の実行力を実感しました」

 パルスオキシメーターとは、指先を挟みこんで血液中の酸素飽和度を計測する機械のことだ。

 2020年4月7日、第1回目の緊急事態宣言が発出された。4月3日、「パルスオキシメーターを現場で活用してはどうか」という意見が同じく医師である公明党の秋野議員に寄せられる。秋野議員と当時の稲津厚生労働副大臣(公明党)が4月6日に要請すると、4月7日に厚生労働省がパルスオキシメーターの活用を全国の自治体に打診している。こうして川村医師が働くコロナ医療の現場にもパルスオキシメーターが入ってきたのだ。

「『息が苦しいです』と言う患者さんの中には、恐怖と不安から過呼吸になった方もいます。Zoom(ビデオ通話のアプリ)で通話しながらパルスオキシメーターを指先につけてもらい、98〜99㌫の数値があれば当面は心配ありません。患者さんの不安を和らげることに大いに寄与しました。一方、91㌫あたりまで数値が下がっていれば、重症化の予兆です。数値を見ながら患者さんの容態を見極めることができました」

医師として、現役世代として

 川村は東京科学大学食道外科助教を経て、このほど第二の人生へ一歩を踏み出す決意を固めた。今年7月に実施される参議院議員選挙(東京選挙区)に出馬するのだ。来る夏の選挙へ向けて、都内をひた走る日々が続く。医師ならではの視点で「いのち守る力、無限大」をスローガンに「ゆうだいビジョン」を掲げる。

「『人生100年時代』と言われるこれからの高齢社会を幸齢社会にするため、誰もが安心して医療・介護サービスを受けられる社会を構築します。具体的には、医療従事者の処遇改善によって医師不足を解消します。診療科の偏在状況を解消することも喫緊の課題です。またデジタル技術を利用した医療DX(デジタル・トランスフォーメーション)を進め、医薬品の安定供給も進めていきます」

 二子の父である川村にとって、子育て支援は他人事ではない。

「男性の家事・育児参加の促進とともに、『こども誰でも通園制度』を実施する自治体数を拡充します。大学までの授業料無償化、幼稚園から小中学校まで一貫した学校給食の無償化も進めなければなりません。また民主党政権下で、15歳以下の扶養親族がいる場合の年少扶養控除が廃止されました。この復活も求めていきます」

 40歳の若さである川村は、現役世代まっただ中だ。

「現役世代が将来に希望をもてる社会を構築していきます。テレワーク(在宅勤務)やフレックスタイム制(労働時間を自分で決められる裁量労働制)を導入し、多様な働き方を認める社会を作ります。結婚を望む人への相談支援や住宅補助など、単身者への目配りも充実させていきます。心の問題や出産・育児によっていったん仕事から離れた人が復職したいとき、政治の力によってサポートを強化しなければいけません」

 川村の父の口ぐせは「お世話になった人のことを忘れてはいけない」であるという。実際、川村の言葉には幼少期から、医師時代に至るまで出会った人たちに対する感謝の思いが通底していた。

 取材を終え、足早に次の現場へと駆け出す川村。若い力で政治のアップデートを目指すその挑戦はひたすらに前へ、前へと続いていく。 (文中敬称略)

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医師/公明党青局次長
川村雄大(かわむら・ゆうだい)
1984年北海道帯広市生まれ。創価高校を経て東京医科歯科大学(現・東京科学大学)卒、同大学院修了。医学博士。日本内視鏡外科学会技術認定医。消化器外科専門医として、都立豊島病院、新渡戸記念中野総合病院、東京科学大学病院などで診療に従事。東京都北区在住。