日本美術の巨匠たちに流れる法華経と日蓮思想
2025/05/02 日本美術の巨匠たちが傾倒した法華経と日蓮思想。その多様性と包摂性は、自然観や世界観に深く関わり、仏像や絵画を超えて、日本文化や芸術の本質を形づくってきた。
時代を越え、共生と調和を掲げるその精神が、現代社会に与えている示唆とは――。
(月刊『潮』2025年5月号より転載。写真=水田修)
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法華経の持つ多様性と包摂性
東 大乗仏教の代表的な経典に法華経があります。日本の文化芸術は人々が思っている以上に、法華経の大きな影響を受けてきたと私は考えています。
とりわけ日本美術史上に輝く巨匠たちには、法華経なかんずく日蓮の教えを信奉した者が目を引きます。狩野正信に始まる狩野派、長谷川等伯、俵屋宗達、本阿弥光悦、樂家の歴代、尾形光琳・乾山、歌川国芳、葛飾北斎と、世界に知られる名前ばかりです。さらには「江戸のメディア王」として大河ドラマで話題の蔦屋重三郎の墓所も日蓮宗の寺院にあります。
そもそも、なぜ法華経は国や民族を越えて、多くの地域で愛され信仰されてきたのでしょうか。
佐藤 私たち人類の世界観というものは、時代や地域によってかなり異なります。一方にあるのは、人間を中心に、人間を最上位に置いて世界を捉える考え方です。それに対して、人間も含めて世界は多様なもので成り立っているという考え方があります。そこには虫や草木や国土、死者や神仏まで含まれます。この「多様な世界」から「人間中心の世界」へ移っていったのが近代化への流れでしょう。
仏教というのは、世界は多様な存在で成り立っているという世界観をめざし、論理化・哲学化していったものです。その究極の形として完成されたのが法華経だと言えます。だから、多様な文化と親和性が高いんだと思います。
東 法華経の持つ多様性と包摂性ですね。そして「誰もが仏になれる」という希望のメッセージ。さらにストーリーテリングの巧みさとスケールの壮大さが民衆を魅了したのではないでしょうか。
佐藤 研究資料として読んでいても、ときどき背中がざわっとするような場面があるんですよ。たとえば空中に巨大な宝塔が出現して「虚空会(こくうえ)」に移るような場面とか、大地の底から「地涌(じゆ)の菩薩」が現れる場面とかですね。あるいは、釈迦が自分はインドで仏になったのではなく、遠い過去から仏だったのだと語る場面であるとか。単に面白いだけではなく、非常に深いところを掻き立てられる、よく出来た経典なんです。
東 この法華経の受容と信仰の中から、さまざまな文化・芸術が生まれてくるわけですが、ターニングポイントとなるのが、やはり日蓮の登場だと私は思います。
それまでの「法華芸術」は、主に法華経の教説を表現した仏像や絵画でした。また関わった人たちも支配層が中心でした。ところが日蓮以降、法華経の受持が万人に開かれたことで、言わば法華経を土壌として創造の営みがなされていきます。しかも、そこから生まれた芸術の多くは、特定の宗派性に引きずられないのです。
佐藤 「法華芸術」の歴史において日蓮がターニングポイントだというのは、おっしゃるとおりだと思います。実は日蓮が登場する少し前、11世紀から12世紀くらい、平安時代の後半あたりから世界観が大きく変わるんですよね。
それ以前の人々にとっては「目に見える世界」がすべてでした。わかりやすく言うと「仏」といえば目の前の仏像しかないわけです。『日本霊異記』などでも、霊験を起こすという場合の仏は仏像なんです。ところが平安の終わり頃になると「目に見えない世界」に対するイマジネーションが膨らんできます。むしろ「こっちの世界」は仮のものであって、本当の世界は認識を超えた「目に見えない世界」だと考えられるようになった。その後に、日蓮や親鸞、道元なんかが登場してくるんです。
その見えない真実の聖なる世界が、今度はあらゆるものの中に現れている。つまり、真実の聖なる世界が"外在化"されると同時に"内在化"されていきます。
東 たしかに菅原道真が天神となって、落雷はその天神の仕業だと考えられたりするようになりますね。この世界観の変化は、どういう理由で生じたのでしょうか。
佐藤 私は、これは洋の東西を問わず人類に普遍的なものだろうと考えています。そして、この世界の背後に「見えない聖なる世界」を感じていたのが、ニュートンなんかが登場すると科学で説明されていくわけですね。それが近代であって、今度は背後の見えない世界が縮小していくのです。

風神雷神図屛風 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
更新される日蓮の実像
東 2500年の仏教史の中で、日蓮の登場はどのような意味を持ったと先生は考えられますか。
佐藤 初期の仏教は、人間以外のものにあまり興味がないという意味で「人間中心主義」でした。それが東アジアへと伝播していく中で、非常に多様なものを視野に入れていくようになります。心を持たない存在の成仏を示した「草木成仏」という概念も、中国で初めて出てきます。それらがやがて天台の「一念三千」というような思想へと結実して、日本に入ってくるわけです。
ただ天台の思想はやはり哲学・学問なんです。一般の人が生活に取り入れたり、芸術に昇華させたりということには行きにくい。そこに現実と結びつける道筋を初めて示したのが日蓮だと思います。
東 凡夫が自身の心を凝視して、「十界互具(じっかいごぐ)」「三千世間」を見出すというのが天台の「観心(かんじん)の修行」ですね。瞑想によって、自分が本来は仏であると感得していく。これに対して日蓮は、文字曼荼羅の本尊を信じて南無妙法蓮華経を唱えるという、万人に開かれた「唱題行」を確立しました。日蓮にとっての成仏とは、唱題によって現実のわが身の上に「人界所具(にんかいしょぐ)の仏界」を顕すことでした。
佐藤 見えない「聖なる真実の世界」を表現するのに、文字曼荼羅というのは最適ですね。仏像ではなかなか表現できませんから。
日蓮の思想というのは、究極は曼荼羅がなくても成立するのですが、やはり真実の世界と接続するものとしてはあったほうがいい。当時は、金をかけて大きな仏を作るほど救いや悟りが近づいてくるという考え方が一般的でした。日蓮は多くの曼荼羅本尊を門下に授与しているのですが、身分によってその大きさを変えていないんですね。平等なんです。
東 日蓮については教科書や歴史の本でも、非常に独善的で排他的な人物像として記されています。こうした旧来の日蓮のイメージに対し佐藤先生は、たとえば日蓮の『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』は、伝統仏教側の融和主義の立場から、浄土三部経と阿弥陀仏以外の諸経諸仏を排斥する法然の選択主義の独善性と排他性を批判したのだと指摘されています。むろん成仏の教えとしての高低浅深はあるとしても、仏教の教理体系としての諸経典を日蓮は肯定しているわけですね。
佐藤 日蓮は多様性というものを非常に大事にしています。『立正安国論』には自然災害などの要因として"鬼神乱るるが故"とあります。平たく言えば疫病神です。それら鬼神なんかも含めた万物の調和する姿が、日蓮の言う「立正安国」の姿でしょう。そこにあるのは、多様なものが共生し調和していくという法華経の思想ですね。この共生・調和というのは固定的な姿ではなく、東さんも『蓮の暗号』に書かれていたように、刻々と変化しゆく動的なものです。
自然描写と法華経思想
東 日本美術の中で、自然の風景を主題とした絵画が本格的に登場するのは室町時代以降です。平安期から絵巻などはありましたが、それらは漢詩や和歌の情景、経典や物語を絵画化したものでした。
室町時代になると日明貿易なども盛んになり、足利将軍家は中国の文人文化を積極的に受容していきます。中国の水墨画に描かれた自然描写の画題や画面構成が日本の「やまと絵」に取り入れられていったことは事実です。
とはいえ、なぜこの時期から日本人が自然の事物を美の対象として認識し、しかも見事に表現できるようになったのかは、ずっと気になっていました。
佐藤 たしかにそれは気になりますよねえ(笑)。実は12、3世紀頃の鎌倉時代に描かれた浄土信仰の「来迎図」を見ると、きわめて写実的に描かれた山の稜線の向こうから阿弥陀如来が姿を現しています。紅葉の山に鹿が遊んでいたりね。浄土教ではこの世界は穢土(穢れた国土)のはずなのに、きれいに描かれている。
ところが同時代の朝鮮半島の「来迎図」には仏しか描かれていない。中国の「来迎図」も非常に人工的な描写です。つまり日本だけの特徴として、既に鎌倉時代から宗教的な救済の意味の中で美しい風景が扱われてきたのですね。その「宗教的な救済」がやがて後景に退いて、自然そのものの中に聖なるものを見出していくのが室町時代なんだろうと思います。
先ほど11、2世紀に世界観の転換が起きたと言いましたが、2度目の転換は14、5世紀の室町期で、まさに法華衆の芸術が生まれてくる時代なんです。天台宗の「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」の論理が完成するのも室町時代で、これは能の謡いや茶の湯、立花(のちの生け花)にも取り入れられていきます。
東 室町時代に日本人が「自然」の中に美を見出していく背景として、「草木成仏」の思想が枠組みを提供していたわけですね。
佐藤 そう考えています。宗教色は表に出ないけれども、創作そのものが「聖なる世界」を再現していく作業になっていくんです。
松林図屏風 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
東 冒頭に名前を挙あげた法華衆、つまり日蓮の教えを信奉するクリエーターたちが歴史の舞台に登場してくるのが、室町時代の後半から桃山時代、続く江戸時代です。身分でいえば町衆に過ぎない彼らが、天下人はもちろん、中には宮廷社会の文化サークルにまでファンを広げていったケースもあります。そこには平安時代から京都の宮廷社会に温存されていた法華経思想の教養を、法華衆たちが打てば響くように共有できていたことも大きかっただろうと見ています。
彼らは「諸法実相」という法華経の法門にも明るかったでしょうし、法華経の譬喩品に説かれる「三草二木の譬え」も理解していたことでしょう。この世界のあらゆるものは、ちっぽけな"部分"ではなく壮大な"全体"の現れなのであり、個々の多様性を発揮しつつ、関係を結び調和し合って豊かな世界を織りなしていくことができる――。こうした法華経の思想的骨格の上に、美しい草木国土、生きとし生けるものが描かれているのだということは、今日ともすれば見落とされがちだと思います。
法華芸術に見る「都会的な洗練」
佐藤 背後にある「聖なる世界」がだんだんこの世界に溶け込こんでくるという大きな流れの中で、やはり人間と自然という多様なものを見てきた法華経、そして日蓮思想が、新しい芸術の土壌となっていった面はあったと思いますね。たとえば日本の大きな思想の一つである浄土教の思想には、この世界を肯定的に捉えるというのは、あまりないと思うんです。この世界は"穢土"ですから。禅からもそこは出てこないでしょう。
今般、新型コロナウイルスのパンデミックを人類は経験したわけですが、ウイルス側の視点から見れば、この世界を成り立たせている多様なものの共生・調和が問われているのではないかと私は思うんです。そうした視点も「法華文化」を考えることにつながっていくような気がしますね。
東 法華経や日蓮の思想を土壌とした「法華文化」「法華芸術」を考える時、そこに一貫するのが、この多様なものの共生・調和だと思います。人々が暮らす現実の世界を徹底して肯定し、造形美に止揚していく。たとえば西洋にも大きな影響を与えた葛飾北斎の「北斎漫画」には、さまざまな職業の人物、動物や虫、植物、建築、道具、名所、天候、妖怪など数千もの図版がフラットに登場します。
障壁画から茶碗、浮世絵など、特定の様式や美学に限定されないのも「法華芸術」の特徴です。あらゆる枠組みや境界を軽々と超えていく。そして特徴と言えば「都会的な洗練」です。今風に言うとクールなんですね。2022年にマンハッタンの中心に開業したラグジュアリーホテルの「アマンニューヨーク」は、全スイートの壁が長谷川等伯の《松林図屏風》から採った図案で装飾されています。クールさが400年以上経っても古びていないのです。
佐藤 「都会的な洗練」はおっしゃるとおりだと思いますね。町衆たちが創作の担い手だったという面もありますが、それ以前の根本的な部分で「法華文化」が都会的な性格を持っているというのは、なんとなく私もわかる気がします。
東 あるいは法華の芸術は「装飾性」と「民衆性」の両面を兼ね備えているようにも思います。為政者の居城を飾った障壁画や、古典の教養に取材した華やいだ屏風など、人々が一瞬で魅了される美しさがある。"きれい"なんです。国芳や北斎の浮世絵でも、心が躍るような美しさがあります。一方でそれは、宗教色の強い仰々しいものではなく、華やかだけども常に誰しもが親しみを感じるものなのです。この荘厳で華やかな「装飾性」と民衆の心を捉える「民衆性」は、法華経そのものが備えている特徴でもありますよね。
佐藤 仏教のどの宗派も「成仏」をめざすわけですが、そのために今、自分がどういう生き方をするかという点と結びついているのが日蓮の思想だと思います。日蓮の宗教を土壌として、そこからこの世界を肯定する豊かな文化芸術が生まれてきたことは、ある種の必然だったでしょうね。
今日の世界は、声の大きな者が一方的に力を行使するような風潮があります。多様なものに目を向け、多様なものを共生・調和させていく「法華文化」は、これからますます意味を持つのではないかと私は思っています。
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文筆家/編集者
東 晋平(ひがし・しんぺい)
1963年兵庫県生まれ。主な著書に『蓮の暗号 〈法華〉から眺める日本文化』(アートダイバー)。編訳に『オーランド・セペダ自伝』(小社刊)。現代美術家・宮島達男の『芸術論』(アートダイバー)などを編集。「アジアと芸術digital」副編集長。
日本思想史家
佐藤弘夫(さとう・ひろお)
1953年宮城県生まれ。東北大学大学院文学研究科教授などを歴任し、現在は東北大学名誉教授。神仏習合、鎌倉仏教、国家と宗教、死生観などをキーワードに日本の思想を研究。主な著書に、『アマテラスの変貌』(法藏館)、『日蓮』(ミネルヴァ書房)など多数。