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生物学から読み解く人間の「幸せ」の条件

生物学者・小林武彦が問う「幸せ」の再定義――それは〈死からの距離が保てている状態〉。快楽との混同や、狩猟採集に適応した遺伝子と現代環境の不適合が、孤独や格差を増幅する。承認欲求がSNSに流れる今、コミュニティ再構築と賢いAI利用、シニアの知恵で“生き延びる力”を取り戻す。
(月刊『潮』2025年10月号より転載)

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そもそもなぜヒトは生きているのか?

 私はこれまでの著書(『生物はなぜ死ぬのか』『なぜヒトだけが老いるのか』)で、ヒトの「死」と「老い」の意味を生物学的に説明しようと試みました。そして死は進化のために必要なものであり、生命全体にとってはプラスに働く。老いも、人類が社会を維持するうえで不可欠なものである――このように死と老いを、肯定的なものとして説明したのです。

 でもそもそもヒトが老いたり、死んだりするのは「生きている」からです。ではヒトはなぜ生きているのでしょうか。そう問われても、生物学的には、偶然だとしか答えられません。生物学では現在、地球上に存在する生き物は、38億年前に誕生した一つの細胞が進化した結果だと捉えています。生物には生きる目的などなく、たまたま環境に適応したものが子孫を残し、今日まで生き残ってきたと考えます。

 とはいえ人間は子どもが生まれれば、「この子が幸せでありますように」と誰もが祈ります。あるいは子どもがいない人も、「幸せになりたい」と祈る。多くの人が「幸せ」を祈っているということは、普通に考えて、人が生きる目的は「幸せになるため」と言っていいでしょう。

生物学的に「幸せ」を定義すると

 では「幸せ」とは何なのでしょうか。

 何を幸せと感じるかは人それぞれ異なり、多様です。趣味に没頭することが幸せな人もいれば、人のために貢献できることが幸せ、と感じている人もいます。おいしいものを食べている時が一番幸せ、という人もいるでしょう。

 私は生物学者として、あらゆる生きものに共通の「幸せ」の定義はないかと考え、近著『なぜヒトだけが幸せになれないのか』の中で考察しました。そして「幸せ」=「死からの距離が保てている状態」と定義づけました。生命の目的は生きることそのものであり、逆にいえば今日、生き延びられたことこそが、あらゆる生物共通の幸せなのではないかと考えたのです。

 このように定義すると、私たちが普段、「幸せ」だと思っていることが、生物学的な幸せなのかどうかを見極めることができます。

 たとえばおいしいラーメンを食べた時、私たちは幸せを感じます。でもそのラーメンを食べなかったからといって、私たちの死からの距離がすぐに縮まるわけではありません。おいしいラーメンを食べることは、私の定義によれば「快楽」です。快楽も幸せの一部ではありますが、イコールではありません。

 実は我々人間が普段、幸せだと感じていることの多くは快楽にすぎないのです。快楽とは脳内ホルモンの放出による生理作用で、生物学的には本能を助長する働きがあります。食欲も性欲も睡眠欲も、本能を助長するため、人が生きていくうえでは必要です。でも快楽だけを追い求めていても、人は幸せにはなれません。ラーメンがおいしいからといって、毎日3食食べ続けていれば、おそらく体調を崩し、死からの距離は縮むでしょう。

 このように、快楽と幸せを混同しているところが、現代人が幸せから遠ざかっている一つの要因です。現代人は快楽ばかり追い求める暮らしのなかで、生物学的な幸せを見失っている面があるのではないでしょうか。

「今さえ楽しければいい」という快楽主義的な生き方は、死との距離を近づける可能性があります。その逆に、今は苦しいことが結果的に死を遠ざける、つまり幸せにつながっていることもあります。たとえば勉強は多くの人にとって、快楽とはいえないでしょう。でも苦労して学び、知識を身につければ、それだけ将来、長く生き延びる確率は高まります。

 このように我々にとって本当の幸せとは何なのかを考えることで、人類がこれから何を大切にすべきかが見えてきます。自我をもち、欲望が肥大した人間は、生物としての幸せという観点からはマイナスなことを一生懸命やってしまう生き物であることを、忘れてはいけないと思います。

「死からの距離」は延びているのか?

 科学技術や文明の発展によって、人類の寿命は確実に延びています。食料がいきわたり、住環境や公衆衛生、医療が充実し、福祉制度なども整ってきたからです。その意味では「死からの距離」は、時代とともに延びているともいえます。

 であるなら当然、現代人は昔の人より「幸せ」であるはずですが、果たして現実はどうでしょうか。日々の生活に不安やストレスを抱えている人や、精神疾患を患ったり自ら命を絶ってしまう人が、あまりにも多い。現代人が幸せに満ち足りているとはとても思えないのです。

 それはなぜなのでしょうか。確かに現代人は、肉体的な死からの距離は昔より着実に延びています。でも私たち人間は、肉体だけで生きているわけではありません。人間は精神的な生き物です。心の問題を考えた時、我々の死からの距離は必ずしも延びていないのではないか。むしろ文明の発展とともに、死からの距離は縮まっているのではないかと思わざるを得ません。

 また人間とペットなどの動物を比べると、人間のほうが明らかに長生きです。では人間はペットより死からの距離が遠く、幸せだといえるのでしょうか。

 ほとんどの動物は、自分が死ぬことなど意識せずに日々を生きています。死ぬ直前まで何も心配せずに生き、死ぬだけです。いっぽう人間には自意識や共感力があり、将来を予測できる分、死を常に意識せざるを得ません。

 健康状態が悪いと病気になるのではないかと心配し、周りの人が亡くなると、自分もいつ死んでもおかしくないと不安に駆られる。人間は日頃から死を意識している分、死からの距離感が近くなりやすいのです。

 とくに人間は年をとるほど死を意識するようになり、子どもの頃のように毎日を幸福感に満ちて生きることは難しくなっていきます。

遺伝子に刻まれた公平や平等の観念

 現代人は寿命の長さとは裏腹に、死からの距離が遠いとはいえないし、幸せも感じづらい――その最大の要因は、700万年もかけてつくられてきた私たちの心と体が、現代社会のありようと合わなくなっているからであると、私は考えています。生物学的にいえば、ヒトの遺伝子と環境が適合していないことに、最大の要因があるのです。

 人類は700万年前にチンパンジーと共通の祖先から分かれました。その後、699万年ほどは狩猟採集、つまり日々、移動する生活を送ってきました。皆で協力して狩りをし、獲物を平等に分け合う暮らしを長年、続けてきたわけです。

 遺伝子というものは何十年、何百年といった短い時間で変化するものではありません。我々、現代人がもっている遺伝子は、このような699万年の暮らしのなかで培われたものです。長い年月のなかで生き残るために必要な資質が、遺伝子というかたちで受け継がれてきたのです。

 たとえば、現代の我々が本能的にもっている嘘や不正に対する不快感や怒り、公平や平等、他者への貢献を重視する道徳的な観念は、長い長い時間をかけて遺伝子に刻まれ、受け継がれてきたものです。だからこそ幼児は不正やズルいことを許さない正義感を、生まれながらにもっているのです。

 ではなぜ、このような本能が脈々と受け継がれてきたのでしょうか。それは、このような本能をもっているほうが、生き延びやすかったからです。狩猟生活においては、皆でとった獲物を公平に分けていた集団のほうが、生き延びる確率が高かったのです。不正をしたり、ズルい行為をしたりする人を許さない正義感の強い人、そのような遺伝子をもつ人が多い集団が結果的に子孫を残し、生き残ってきたというわけです。

環境は激変したが遺伝子は原始のまま

 このように私たちは、原始の時代からつくられてきた遺伝子のままで現代社会を生きています。しかしここ数百年で、テクノロジーは飛躍的に進歩し、社会構造や生活様式は劇的に変化しました。この環境の変化に遺伝子の変化が追い付けば問題はないのですが、残念ながら遺伝子がそれほど急激に書き換えられることはあり得ません。その結果、「遺伝子」と「環境」の不適合により様々な不都合が生じ、現代人は幸せからどんどん遠ざかっているのではないかと私は考えています。

 その一つの大きな現象がコミュニティーの崩壊です。ヒトは動物としては脆弱で、決して一人では生きていけません。700万年の歴史のなかで、ヒトはずっと集団のなかで生きてきました。コミュニティーのなかで自分の役割を果たし、それを認めてもらうことで幸せを感じてきました。そのような遺伝子を我々は引き継いでいます。

 今から1500万年前、大きな気候変動により地球上の森が縮小し始めました。約700万年前に登場した人類の祖先は、森からサバンナへと生活の場を移します。その後も森に居続けたのがチンパンジーやゴリラです。

 森と違いサバンナには、凶暴な動物がたくさんいます。そのような動物から身を隠し、生き延びるために、人類は集団で協力し合うしかなかったのです。

 我々の先祖は隠れる場所を探したり、見張りをしたりと役割分担をし、互いに協力しました。そのようなことを行ったグループしか、生き残れなかったのだろうと思います。コミュニティーは運命共同体であり、そこから離れたら、ヒトは自分の身を守ることも食べ物を見つけることもできません。コミュニティーから追い出されることは、死を意味します。ヒトにとってそれは一番の恐怖だったのです。

 そのためヒトは長い歴史のなかで、皆から嫌われないよう、集団のなかでうまくやっていくことを考え、行動してきたのです。そのうえで重要なのが、コミュニティーに貢献することです。

 だからこそ現代社会を生きる我々にも、皆と協力し、コミュニティーに貢献しようと考える遺伝子が備わっています。会社を退職し、自分が貢献できるコミュニティーがなくなった人が、生き甲斐を失くすのは当然のことなのです。

幸せを感じるためにコミュニティーが不可欠

 現代の我々が孤独であることに不安を感じるのも同様です。現代社会では、一人でも生きていける衣食住のインフラは十分に整っています。それでも多くの人が孤独を嫌います。孤独が続くとうつ病になったりもします。それは我々が長年、コミュニティーのなかで生き、その中でこそ幸せを感じる遺伝子をもっているからです。

 我々が承認欲求をもつのも同じです。長い間、人類は自分が属するコミュニティーで認められることこそが生きる術すべだったのです。にもかかわらず、現代社会では自分の承認欲求を満たしてくれるコミュニティーが急速に失われてきています。そこで皆、SNSという仮想空間への投稿を必死で行い、「いいね」をもらうことで承認欲求を満たしているのです。

 今後、我々が幸せを感じて生きていくうえで不可欠なコミュニティーをいかに再構築していくかが、現代社会の最大の課題です。孤独が寿命を縮めることは多くの研究からも明らかなので、何かしらのかたちで人とのつながりを作っていかなくてはなりません。

死からの距離を縮めた「弥生格差革命」

 もう一つの問題は「格差」です。ヒトは長い進化の歴史のなかで、コミュニティーのなかで情報やモノを平等に分け合い、助け合って生きてきました。それゆえ私たちは不平等や不公平に対して、不快感を感じやすいのです。

 格差をつくりだすきっかけとなったのは、私が「弥生格差革命」と呼ぶ農耕定住です。

 人類は今から1万年くらい前に、狩猟採集中心の生活から農耕牧畜の生活に変わりました。日本列島では縄文時代から徐々に定住が始まり、弥生時代になると本格的な稲作が始まります。人びとの生活は狩猟採集中心から安定した農耕定住へと変わりました。その結果、それまで獲物は皆で平等に分け合い、ものを所有しなかった人類が、「財産」を持つようになりました。やがて富を溜め込む人と溜め込まない人の間に差が生じ、格差社会が生まれます。

 今まですべてのものを分かち合い、協力し合っていた人たちが、財産を囲い込み、コソコソ隠し持つようになります。富を持っている人は、富が失われることに不安を抱くようになります。富を持っていない人は持っている人をねたみ、不平等感にさいなまれます。 

 こうして平等や公平を求め、死からの距離を広げていたはずの「正義の遺伝子」は、社会に「格差」が生じることで、かえって自分たちを苦しめることになり、死との距離感を短縮してしまった(幸せから遠ざけてしまった)のです。

 最後にテクノロジーと人類の「幸せ」の関係について触れておきましょう。ヒトは道具を使う生き物です。新しいテクノロジーを生み出すことは、好奇心旺盛な人類にとって本能ともいえる営みです。人類はテクノロジーを進歩させることで生産性を向上させ、健康を維持し、死からの距離を広げることに成功してきました。

 いっぽうで、人類の歴史は、テクノロジーに振り回されてきた歴史ともいえます。本来テクノロジーは人を幸せにする「道具」だったはずなのに、かなしいかな人間はテクノロジーの使い方を必ず間違えます。なぜなら、使い方までは遺伝子に刻まれていないからです。だからこそ、テクノロジーはうまく使いこなさないと、私たちと死との距離を縮めることになりかねません。

 そうした意味で今、人類が上手に使いこなす必要があるのがAI(人工知能)です。現在のままAIの進化が進むと、人間は考えることをやめ、AIの答えをそのまま鵜呑みにする人が増えていく恐れがあります。すると何が起きるか。人間はAIに振り回され、人間の尊厳が損なわれ、幸福感を感じる人が減り、生きる気力を失っていく。そのようなテクノロジーの活用は、否定しなくてはなりません。

 そのような警鐘を鳴らすことこそが、ヒトにしか存在しないシニア(高齢者)の役割です。シニアは過去に、テクノロジーに振り回されてきた経験をもっています。新しいテクノロジーに夢中な若い人に、今のAIはおかしな方向に向かっている、このままでは危険だと冷静に指摘し、間違った方向に進むことを阻止する。

 そのうえで、安心して暮らせる新しいコミュニティーと、格差なく誰もがゼロベースから成長できる環境を整え、ヒトが幸せに生きていける社会をつくる。そのためにこそ、ぜひシニアの経験と力を活かしていただきたいと思います。


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東京大学定量生命科学研究所教授
小林武彦(こばやし・たけひこ)
1963年生まれ。九州大学大学院修了(理学博士)。基礎生物学研究所、米国ロシュ分子生物学研究所、米国国立衛生研究所、国立遺伝学研究所を経て、現職。著書に『生物はなぜ死ぬのか』『なぜヒトだけが老いるのか』『なぜヒトだ
けが幸せになれないのか』など。