『八雲の妻』ためし読み
2025/09/26NHK朝ドラ「ばけばけ」で注目を集める小泉八雲とその妻・セツ。
伴侶であり、怪談などの再話文学の創作における最高のアシスタントでもあった小泉セツの生涯を描いた評伝『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の第1章「セツの生い立ち」から一部を抜粋してご紹介する。
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ヴァレットとセツ
さらに中央政府は各知藩事に命じて、石高に応じた数の歩兵小隊と砲兵隊とから成る新規の軍を編成させ、松江藩は士族から成る軍隊をフランス式で調練することに決した。そして、セツが二歳となった明治三年四月十五日、ヴァレットという三十六歳のフランス人下士官が着任し、翌年の七月初めまで、松江あげての注目のうちに近代的砲術を教え、フランス式調練が行われたのである。
松江で「ワレット」と呼ばれたこのフランス人のことで、セツは小さな冒険をした。調練は三の丸御殿裏の「御花畑」や、城下町東の郊外にある向島の調練場で行われ、「金ボタン付マンテル服」・「金ボタン付シャケツ(長袖毛糸編みの上着)」・「黒ボタン付シャケツ」と、それぞれ位階に応じた制服姿で――ただし「下駄ばき」で――進軍太鼓を打ち鳴らし鉄砲を担いでの、勇ましい行進が行われた。セツの実父で番頭を務めた小泉湊も、中心的な歩兵小隊長として、ヴァレットの下で大声(たいせい)を発しての号令を下していたのであった。
この光景を見ようと続々と押しかけた人々には、指導教官のフランス人がとてつもなく変ったものに見え、自然とこの「唐人・異人」に注意が向かった。背も高ければ鼻も高く、肌が赤みを帯びた西洋人というものを、初めて目にしたからである。
三歳になったある日、セツも「母上」に連れられ、親戚ともども見物に行った。そして、勇ましい進軍と珍しい「異人」に目を輝かせたのである。セツは「小泉様のおじさま」も見たいと思って捜したが、非番だったか、ついに見当たらなかった。さて、ヴァレットは、ふと、好奇心一途に見つめている子供たちの黒い瞳に気づき、微笑みながら歩み寄ったのだが、子供たちは「異人」恐さから怖け、セツと並んでいた親戚の信喜代(のぶきよ)などは、四歳も年上なのに、わっと泣き出し祖母にしがみつく始末だった。なぜかセツは恐いと思われず目を見張ったままでいると、ヴァレットは近づいて来て言葉をかけ、微笑みながら髪をなでて、年齢は幾つかと、指を二本、三本と広げて尋ねたのである。「母上」に促されるままに指で年齢を示すと、彼の大きな手が伸びて来て、彼女の小さな手に虫眼鏡を握らせた。それは、折りたたみ式の懐中顕微鏡ともいうべきもので、セツの心を嬉しさで一杯にし、立ち去って行く異人を「非常に良い人」と思わせもする。日本にない珍奇な物と聞いて、セツは両親の保管の申し出を拒み、宝物として大切にしまっておいたのである。
フランス軍事顧問団
ヴァレット(Frédéric Valette)は、幕府が招聘し慶応三年(一八六七)に来日した、フランス軍事顧問団(団長シャノアーヌ大尉)の一員(軍曹)である。彼がベリゼール(Alexandre Bélisaire)とともに、藩校の修道館でフランス語を教えたことは、『雲藩職制』に表われている。傍ら砲術を講じ、新編成の軍隊の調練に当たった。
松江着任時に三十六歳とする『松平定安公伝』の記述は、ローヌ河畔なる出生地(Saint-Vallier-sur-Rhône)の市役所に保管されている出生証明書と一致し、彼のサイン入りで、「軍務図書」という朱印が押してあるフランス語書籍三冊が、島根県立図書館の「雲藩図書」(藩所蔵図書)の中に見い出される。
「セツの原稿」で詳述されている彼女の記憶は、主要な事実について、疑いを入れる余地なしと考えられ、また、ヴァレット在任の二年目でセツ満三歳の年――秋の「帯直しの祝い」の前――と見るのが妥当として記述した。
旧侍たちが「だぶだぶの団袋」を着て「下駄ばき」でというセツの記憶は、先述の制服が、あるいは規定にとどまったかとの疑いを抱かしめる。
小隊長の小泉湊
セツの実父の小泉湊は、慶応四年七月から番頭(ばんがしら)を務めていたが(『列士録』)、新編成の軍隊で中心的な小隊長となったことが、『明治三年御給帳』で確認される。彼は「二等列上」の格式─二等列以上は朝廷宣下の任命であった─で、職米七十俵を給せられる一等小隊長の筆頭に名が見えるからである。また、その後、小隊数が八、続いて四に縮小された時でも、元中老の石原市之進とともに、小隊長の地位を保ってもいる(『松平定安公伝』)。
もて囃された彼の指揮振りを、セツは「原稿」に、「小泉様の号令で軍隊がピシッと引きしまる……家のお祖父さんは……『どうしてああいふ声が出るのか、三里四方に響く』といふておられた」と記す。
調練場で「小泉様」を捜したと思われる年、秋の「帯直し」の祝宴に、セツからも招かれた客の皆からも「えらい」と思われたのも道理であった。
セツがもらった折りたたみ式虫眼鏡は、ハーンが懐中顕微鏡と呼んで、その逸事を『知られぬ日本の面影』で語り、現在、松江の小泉八雲記念館に展示されている。
ヴァレットは着任後の四月二十八日、松江郊外の古志原で行われた最初の砲撃演習では、参観した藩の重役たち一同に、演習開始前には葡萄酒を、昼には洋食の午餐を饗している(『松平定安公伝』)。セツが語っているところからすれば、ともに、南フランス人の気前の良さから来ていると、見るべきであろう。
松江来住の異人
ヴァレットの身長は一七六センチ(または一七四センチ)だったとのことで、当時の日本人には、随分と高く見えたであろう。セツの述懐は、「赤い髪の毛で丈が高いので驚いて見上げていた」であった。ハーンは『知られぬ日本の面影』の中で、身体的相違がいかに途方もなく感じられたかを述べ、「小さな子供などは、往来を通る異人を見ると、恐ろしがって泣き出したものである」と書いている。ハーンは二人のフランス人に遅れること二十年にして松江に来住したが、その間、幾人かの西洋人が松江に住んだ。そのうち、カナダ人の宣教師で中学校・師範学校でのハーンの前任者であったタトル(M. R. Tuttle)は、その動向が『山陰新聞』にたびたび報ぜられた(『へるん』四六号)。また、ハーンの松江在住時に、イギリス人宣教師バクストン(B. H. Buxton)が家族三人と召使い数人とともに松江に住んでいたことが、『松江市誌』に記され、新聞には、ハーン着任の前年の十月に、タトルと聖餐式に列した別の西洋人三名の名が見える。それでも、ハーンが裸になれば、獣のように毛で覆われているだろうと、入浴姿を覗き見する者が多く、閉口させられた話まで伝えられた(田代三千稔『愛と孤独と漂泊と 小泉八雲』等)。
後年、セツは回顧して、「ワレットは出雲に来た初めての異国人であったであろう。その人から、小さい私が特に見出されて進物を受け、私が西洋人に対して深い厚意を持った因縁になったのは、不思議であったと今も思われる。私がもしもワレットから小さい虫眼鏡をもらっていなかったら、後年ラフカヂオ・ヘルンと夫婦になることも、或いはむずかしかったかも知れぬ。(ワレットは)あの時の出来心の小さい進物、小さい子供への愛情の影響が、かなり大きかった事を知らずに世を去ったに相違ない」(句読点とカッコ書き・筆者)
奇しき縁
ヴァレットはフランス語の教授によっても、セツとハーンの物語に関わった。彼とベリゼールは、玉木十之助(じゅうのすけ)と梅謙次郎(けんじろう)を教えているが、この二人こそ、後年、夫婦の生活に幾重にも絡むことになるからである。
玉木十之助は、『明治三年御給帳』に「語学修行」として氏名が記載されており、明らかに、六歳年少の梅謙次郎と同様、二人に師事してフランス語を学んだ。さらに「辛未皇漢学校日誌」には、十之助が二人が去った翌年の九月に、安達梅三郎という者とともに、「学校付属」で「仏学引受申付」られたとあり、修道館でフランス語を教えたことが分かる(桃裕行「松江藩の洋学と洋医学」『日本医史学雑誌』一三三三~五号所収)。この十之助がたまたま塩見小兵衛(宅富家老増右衛門の嫡男)の娘の鍊(れん)を妻としたが、この鍊はセツが親戚の中でも最も親密であった従姉である。一方、この玉木十之助の姪のかねが、フランス留学から帰朝した梅謙次郎に嫁したのであった。
さて、十之助はフランス語での生計が叶わず、酒類や古物の商いが「士族の商法」と化して生活が行き詰り、明治二十六年(一八九三)のことだが、一家五人で東京に出て、姪が嫁いでいた一代の法学者梅謙次郎の家に身を寄せる。こうして十代でヴァレットとベリゼールにフランス語を学んだ二人は、三十代にして一つ屋根の下に住むことになった。玉木十之助・鍊夫婦の次男は小泉家に書生として入って、一雄の兄貴分となる光栄(あきひで)である。また、梅もハーンとセツの家を訪ね、ハーンの葬儀で親族代表を務めることは、後述する。
内中原小学校
稲垣家一家の喜びの源であったセツは、昔から武家の娘たちが手習いを始める習わしの六歳になった。ちょうど当時は、政府が四年の義務教育を定めた公立学校の制度を、全国的に施行しようとしていた時期で、松江でも次から次へと小学校が開設され、セツも八歳になってからは、公立の小学校で学ぶことになった。毎日、家の前を南北に走る堀の土手の道を歩いて、途中で祖父橋(じじばし)を西側に渡り、家から五百メートルほど離れた「公立」の内中原小学校に通ったが、公立学校といっても、実際には谷口虎太郎という士族の屋敷、つまり、個人の住まいであった。
学校は朝九時に始まり、読み方・書き方・算術など、五時間の授業を受け、それが終わると、女の子だけ残って、二時間の裁縫教科の授業を受けた。この裁縫教科は、女子の就学率を高めるために、三年で修了する課程として、前年の十月に設けられたものである。セツは学校が好きであった。毎月、月末に、各級の中での席次を決める小試験があったが、頭の良いセツにとっては、友達と競って良い成績をとり、先生から改まったお褒めの詞(ことば)を頂戴したり、白紙や筆墨といった賞がもらえるのが嬉しかった。
セツの卒業証書類
明治五年(一八七二)八月に発せられた「学制」は、満六歳をもって学齢とし、四年制の小学下等教科を、八級から一級までの八つの級に分け、年二回、各級修了――当時は卒業と称した――を認定する試験を規定している。島根県は明治九年から、その進級試験を六月と十一月に実施することを決めていた(『島根県近代教育史』第一巻)。セツは各級卒業証書と下等教科全体の卒業証書、それに、並行履修した裁縫教科の卒業証書など、合計十通の証書を大切に保存し、現在、松江の小泉八雲記念館に展示されている。
その証書類で見ると、セツは明治九年(一八七六)四月(二十七日)に最初の八級を卒業し、一ケ月余り後の六月(七日)に七級を卒業している。六月の方は島根県が規定した各級卒業試験であるから、その前の四月下旬に与えられている八級の卒業証書は、セツがこの頃に入学し、その時点で、一定の学力ありと認められたことを示すと見るのが、妥当と思われる。
注 証書では、セツの年齢をそれぞれ「九年二ケ月」、「九年四ケ月」と記しているが、明らかに、九年は八年、即ち八歳の誤りである。当時、満年齢に不慣れだったからであろう。
学校生活
『内中原教育 その百年の歩み』によれば、セツが学齢の六歳に達した明治七年(一八七四)四月に、前年開校の十六番小学校を引き継ぐ内中原小学校が開設され、翌年一月に、その教場を、セツの家から遠からぬ谷口宅に移転していたが、女児の就学率は極端に低く、セツの入学が八歳になったのも自ずと理解される。
ハーンは、セツが二十八歳の時に発表した『心』の中で、セツが新聞で読んだと思われるところに基づいて、「君子」を書いた。これは、京都の御所ないし公家に仕えた上級武士の娘を描いたものだが、主人公の小学生時代の記述は、セツの小学生時代の話に基づいているという印象が強いことから、セツも、あるいは主人公と同じように、小学校に通い出す前に一二年、昔ながらの家塾に通ったものかも知れない。そして、セツもまた、年とった士族の営む家塾で、ほかの少女たちと小さな机を並べて座ったのであり、塾の行き帰りには、召使いが彼女の本やら硯箱・座蒲団・小さな机などを抱えて付き添ったということも考えられよう。島根県は、「学制」と総称される文部省の布達を背景として、明治六年五月に従来の私塾・家塾の停止を命じている。しかし、初期における実態は、「学制」の枠内に入る家塾を増やしていくことにあったと思われる。
近代最初の教科書
なお、セツが保存した小学校の証書の一枚によれば、セツは島根県から「小学下等教科卒業候付」き『勧善訓蒙初編』を一部賞与されている。『日本教科書大系』(近代編・修身第一巻)での説明からすれば、それは、フランス人ボンヌ(Bonne)が著し一八六七年にパリで出版されたものを、箕作麟祥(みつくりりんしょう)が翻訳し、明治四年に『泰西勧善訓蒙』と題して出版された教科書に違いない。これは、その後に出た『泰西勧善訓蒙後編』(Winslow, Elements of Moral Science の訳) 及び『泰西勧善訓蒙続篇』(Hickok, System of Moral Philosophy の訳)と区別するために、普通は、「前篇」の名を付して呼ばれたものである。
『新修島根県史』には、ボンヌ著の『勧善訓蒙』が、小学下等教科七級の児童の教科書として使用されたとあるから、セツは少女時代に、この書に出て来るフランクリン・プラト(プラトン)・シセロ(キケロ)・コリヲラニュス(コリオラヌス)等の名前に接したわけである。ただ、セツが賞与された教科書を保存し、ハーンがこれを目にしたかどうかは疑問である。現にセツの『勧善訓蒙』は伝わっていないし、ハーンが日本最初の近代的教科書として説明しているものと、この『勧善訓蒙』とは、内容的に一致しない。ハーンは、あい(君子)が公立の小学校に通うようになったとした後、次のように記している。
最初の「近代的」教科書がちょうど発行されたところであった。そこには、イギリスやドイツやフランスの、名誉心や義務感や勇気を奮い立たせる物語の中から、見事に選び抜かれて日本語に訳されたものが、現実のものとはほど遠い衣装をまとった西洋人の、無邪気な小さい挿絵付きで載っている。
『泰西勧善訓蒙』は、前編・後編・続篇とも、国立教育政策研究所の教育図書館で保存されているが、そもそも、そのいずれにも挿絵を見ることができない。セツの教科書は、あいの教科書のように、貧困の生活の中で売り払われたものであろう。
世の中の変化
文明開化の波は、セツの小学生時代にも、東京を遠く離れたこの松江に押し寄せて来ていた。日付は、学校と家では違っていた。それは、セツの四歳の時に、政府が太陽暦(グレゴリオ暦)を採用していたからである。西洋の週七日制も、セツが六歳の時に、島根県の学校制度に導入されていた。セツは家でも、父や祖父をはじめ、周囲の男たちが次々と髷結いをやめるのを見てきたが、それは、県知事(権令・県令)が、セツが五歳の明治六年(一八七三)には説諭で、二年後には処罰するとの威嚇で、やめさせたものである。さらに、セツが八歳の明治九年には、中央政府から廃刀令が発せられ、封建の世の名残りの帯刀の姿も消え失せた。
松江では、セツが六歳の時、日暮れとともに戸を閉めていた店が、県令の説諭で夜の十時まで開けておくことになり、それから一年足らずして、市の大橋から天神橋に至る一番賑やかな通りに、ガス燈が点ともるようになった。十一歳ともなれば、松江城の三の丸跡に隣接した所に、堂々とした和洋折衷の県庁舎が落成する。その十一年後、彼女の夫となるハーンが、時の県知事の籠手田安定(こてだやすただ)に迎えられるのは、この県庁舎であった。
(ためし読みここまで)
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歴史家
長谷川洋二(はせがわ・ようじ)
1940年新潟市生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻、コロンビア大学のM.A. 学位(修士号1974)・ M. Ed. 学位(1978)を取得。一時期会社員、前後して高等学校教諭(世界史担当)。著書に『小泉八雲の妻』(松江今井書店、1988)のほかに、『A Walk in Kumamoto: The Life & Times of Setsu Koizumi, Lafcadio Hearn’s Japanese Wife』(Global Books, 1997) 、『わが東方見聞録─イスタンブールから西安までの177日』(朝日新聞社、2008)がある。