小泉八雲とセツが夫婦愛で紡いだ『怪談』の世界像
2025/10/09朝ドラ「ばけばけ」で注目! 逆境を乗り越え、未来を拓いた小泉八雲と妻・セツ。二人の原動力とは? 小泉八雲の曾孫であり、小泉八雲記念館館長を務める小泉凡さんへのスペシャルインタビュー。
(月刊『潮』2025年11月号より転載)
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互いに偏見がなかった八雲とセツ
私は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の曾孫にあたり、現在は小泉八雲記念館の館長を務めています。当館は島根県松江市にあり、八雲の直筆原稿や遺品、著書、妻セツの品々など約1500点の収蔵品を展示しています。
記念館の隣には、八雲がセツと新婚生活を送った旧居もあります。この屋敷はもともと旧松江藩士・根岸家の武家屋敷で、八雲は美しい庭をとくに気に入っていました。
新聞記者だった小泉八雲は、日本が急速な近代化を進めていた1890(明治23)年に来日し、島根県松江市で旧制中学校と師範学校の英語教師になりました。そこで小泉セツと出会い、結婚します。当時、多くの欧米人は黒人や東洋人に差別意識をもっていましたが、八雲にはそのような偏見はまったくありませんでした。
セツと八雲がいかに出会い、結婚するに至ったか、正確なところはよくわかっていません。ただ、独り身で不自由していた八雲のために、周囲の人が住み込み女中としてセツを紹介したようです。
当時、日本滞在中に"仮初めの妻"と同棲する西洋人は多くいました。西洋人相手の遊女や妾は「洋妾(ラシャメン)」と呼ばれ、さげすまれていました。普通の女性だったら八雲のもとに行くことを断っていたでしょう。にもかかわらずセツが受け入れたのは、世間体や常識を気にしないおおらかな性格ゆえだと思います。
こんなエピソードがあります。セツが3歳の頃、フランス軍軍事顧問団の一員として来日した下士官ヴァレットによる軍事教練を観ていました。教練が終わり、ヴァレットが近づいてくると、他の子どもは泣いて逃げ出しました。しかしセツだけは逃げずに、彼をじっと見つめていました。ヴァレットはそんな彼女の頭を撫で、虫眼鏡をくれたのです。
その時、セツは西洋人も自分たちと同じ温かい心をもった人間であることに気づいたのかもしれません。セツは「私がもしヴァレットから小さい虫眼鏡をもらっていなかったら、後年、ラフカヂオ・へルンと夫婦になることも、或いはむずかしかったかも知れぬ」と手記に記しています。
妻セツの人生の全容が明らかに
セツと八雲が惹かれ合っていった背景には、二人の人生に共通点が多かったことも影響していると思います。二人とも物語を愛し、文学の素養がありました。ともに極貧生活を経験し、結婚の破綻という苦難を乗り越えています。二人とも苦しい状況のなかで物語を聞くことを至福の時間としていました。そんな共通点が、二人を深く結びつけたのだと私は思っています。
小泉八雲は伴侶となったセツを通じて日本文化を深く理解し、やがてセツという最高のアシスタントの力を得て『怪談』などの再話文学や紀行文の名作を生み出します。彼女は常に八雲の執筆の素材となる物語を探し求め、自ら夫に語り聞かせる創作の助手(リテラリー・アシスタント)だったのです。
八雲の文学作品はセツの存在なしにはありえず、ほとんど合作といって良いほどです。そのようなセツの功績は、これまでも八雲関連の書籍などで紹介されてきました。しかしセツの人生のなかで、八雲と暮らした時期は「二割強」ほど。その前後のセツの人生の全貌は、これまで明らかになっていませんでした。
そんなセツの生涯を一次資料に基づいて綴った唯一無二の評伝が、長谷川洋二氏が2014年に刊行した『八雲の妻 小泉セツの生涯』でした。歴史家である長谷川氏はセツの幼少期の資料を松江に通って調べ、一次資料を徹底的に調査したうえで、これまでよくわかっていなかったセツの生涯の全容を明らかにしています。

日常の中に伝承や怪談話が根づく土地
セツは1868(慶應4)年、城下町松江の由緒ある小泉家に生まれました。産みの親の小泉チエは馬琴物を諳じる大変な読書家でした。技芸にも秀で、三味線の名手でした。セツはそんな母親の資質を受け継いでいます。
彼女は生まれる前から、小泉家の親戚筋である稲垣家の養女になることが決まっていました。稲垣家で愛情たっぷりな、何不自由ない幼少時代を過ごしていました。しかし版籍奉還後の家禄削減により、稲垣家は没落します。その結果、成績優秀で学校が大好きだったセツは当時、義務教育と定められていた小学校下等教科以上に進むことができませんでした。
そんなセツの心の慰めとなっていたのが物語です。セツは幼少の頃から物語を聞くことが大好きで、大人を見つけては「お話ししてごしない(お話ししてください)」とせがんでいました。幸いなことに稲垣家の養父母や祖父は、セツに語って聞かせる話をたくさん知っていました。当時の松江には、神秘的な民間伝承や怪談話が生活のなかに根付いていたからです。
セツは大人たちから日常的に、出雲の神々の物語、生霊や死霊の話、狐や狸が人を化かしたり、子どもを神隠しにしたりといった話、雪女や妖怪の話をたくさん聞いていました。そんな幼少の頃に聞いて覚えていた話を八雲に語って聞かせると、彼は大喜びしました。その話がのちに、八雲の描く再話文学の作品として結実するのです。
「ヘルンさん言葉」で物語を語る
東京に移り住んだのち、セツは古書店を巡っては、八雲が好みそうな怪談や奇談の本を入手しました。それらをあらかじめ読み込んだうえで、夜になると八雲に語るのです。この語りは「へルンさん言葉」と呼ばれる、独特の言葉で行われました。日本語の能力がさほど高くない八雲は普段から、助詞を抜き、動詞や形容詞の活用を省き、語順を英語風にして話していました。一種のピジン語(混成言語)です。普通の日本語では八雲が理解できないため、セツもこの「へルンさん言葉」で物語を語ったのです。
口承文芸は、語り手の気持ちが入ったり、語り手によって語り口が変わったりするところにこそ、本質的な魅力があることを八雲は知っていました。だからこそセツにも、彼女が一度、自分で消化した物語を、自分の言葉で語ってもらうことを望んだのです。
16歳の時に片目(左目)を失明した八雲の聴覚は、一般の人より優れていたはずです。感性も鋭く、耳を澄まして人の話を聞き、想像する力は並外れたものがあったと思います。語り手のセツと聞き手の八雲の優れた力が合わさることで、八雲の名作は生まれたのです。
他方でセツは学歴がないことにコンプレックスを抱いていました。彼女は度々、「私が女子大でも卒業した学問のある女だったら、もっともっとお役に立つでしょうに」と嘆いています。すると八雲は、本箱の自分の書籍を指さし、「誰のお陰で生まれましたの本ですか? 学問のある女ならば、幽霊の話、お化けの話、前世の話、皆馬鹿らしのものといって嘲笑うでしょう」と言い、セツのことを「世界で一番良きママさん」と称賛しました。
セツも八雲への手紙に「セカイ、イチバンノ、パパサマ」と書いています。当時の夫婦で、お互いへの敬意をこのように表現することは珍しかったでしょう。こんなにピュアな愛で結ばれていた二人だったからこそ、すばらしい作品群を生み出せたのだと思います。
「周縁の文化」に目を向け続けた八雲
八雲とセツが松江でともに過ごしたのは、わずか1年3カ月ほどです。八雲が実際に怪談を書いたのは、東京で暮らしていた最晩年の時期です。でもその根っこにあるのは、やはり松江での暮らしだと思います。八雲は松江での日常生活を描いた紀行文も書いています。欧米でロングセラーになったこの紀行文には、怪談話やフォークロアがちりばめられており、都市や街というものは決して眼に見えるものだけでできているのではないことがよくわかります。
八雲はもともとフィールドワークが大好きでした。しかし熊本に引っ越して以降は、フィールドワークをしたいと思うような場所が減り、書斎に籠るようになります。その結果、セツの語りに耳を傾けることが一番楽しい時間になるのです。
都会嫌いな八雲には、東京暮らしも決して心地よいものではなかったでしょう。ただ、どうやらセツは逆だったようです。当時は外国人の妻やその子どもたちは、奇異の目で見られました。田舎ではなおさらです。だから当時の閉鎖的な松江より、自由で匿名性の高い東京のほうが、セツは暮らしやすかったのではないかと思います。

宍道湖から中海へそそぐ大橋川に架かる松江大橋。八雲の作品にも登場する名所
日本は明治時代に古い因習や習俗を捨て、近代化への道をひた走りました。そんな社会のなかで、西洋人である八雲は、日本人が切り捨てようとしていたものを愛し、絶対に捨ててはいけないと言いました。彼はキリスト教より、日本のアニミズム(人間以外の生物を含む、すべての物の中に魂が宿っているという考え方)を評価していました。
日本に来る前には米ニューオーリンズでブードゥー教に惹かれ、ゾンビという言葉を世界に紹介しています。彼は常に「周縁の文化」に目を向け、その中にこそ人間の本質があると感じていたのです。八雲はギリシャ系アイルランド人で、左目を失明しています。学歴もなく、両親の愛情も受けられずに育ちました。彼自身が社会的に周縁の人であり、同じ周縁の人々への共感が、名作を生み出したのだと思います。
私は以前、作家の大江健三郎さんから「私がノーベル文学賞を受賞したことと、あなたのひいおじいさんの再評価は関係が深い」と言われたことがあります。よく意味がわからず「どういうことですか?」と尋ねると、彼は「答えは周縁性です」と言われました。
大江さんの少し前、少し後の受賞者をみると、カリブ海のセントルシアや、北アイルランドの出身者、つまりクレオール文化やケルト文化の発信者です。そして大江さんは日本人です。
八雲は2歳から13歳までの多感な時期をアイルランドで過ごし、アメリカのニューオーリンズやカリブ海のマルティニークで多彩な世界観を包み込む混淆文化(クレオール文化)に魅了され、そのあと日本へやってきました。つまり八雲は、これら三つの周縁的文化をすべて経験したわけです。
大江さんは「これからの時代は歴史の表舞台ではなく、周縁で日の目をみない文化に耳を傾け、学んでいくことが大事です」と言われ、目から鱗が落ちました。八雲の怪談文学も、まさに周縁の文化です。
分断と対立の時代に輝く八雲文学
八雲は物質文明や合理主義が発展すれば人間が幸福になれるとは、まったく思っていませんでした。「理性より感情、記憶力より想像力が大事だ」と言っています。怪談や妖怪はまさに、感情や想像力によって生み出されたものです。
面白いことに今、怪談や妖怪に惹かれる人が世界的に増えています。物質文明や合理主義が行きすぎたことに、生きづらさを感じている人が増えているのかもしれません。松江のお隣の鳥取県境港市で育った水木しげるさんの作品に根強い人気があるのも、そのせいかもしれません。
八雲とセツが生み出した怪談文学への関心も今、国内外で高まっています。松江の地を語り部とともに夜間に巡りながら怪談を楽しむ松江観光協会主催の「闇夜のミステリーツアー」は、今や簡単に予約が取れない人気ぶりです。
2022年にはイタリア・ミラノで日本の幽霊や妖怪をテーマにした没入型展覧会が開催され、9万5000人が来場しました。翌年からはアイルランドと日本のアーティストが八雲の『怪談』をテーマに版画と写真の展覧会を開催し、両国の10都市あまりを巡回しました。24年には八雲が10年間住んだニューオーリンズのマルディグラで開催されたカーニバルで、「雪女」や「耳なし芳一」など八雲の怪談世界をテーマにした26台の山車(だし)が練り歩きました。
八雲とセツがつくりあげた作品は東洋と西洋、人と自然、生者と死者、現実と異界をつなぐ物語です。文明化によって失われていった、すべてが一体となったアニミズム的世界です。今、世界には分断と対立が広がり、悲惨な戦争も続いています。そのような時代だからこそ、すべてを結びつけ、「つながりの感覚」を得ることができる、そんな文学や芸術が求められているのだと思います。
逆境も乗り越えるセツの「ばける力」
このような時代の風潮にジェンダー意識の高まりも加わってか、近年、これまで八雲を支える陰の存在だったセツにも大きな注目が集まっています。2022年には、脚本家の田渕久美子さんが小説『ヘルンとセツ』を発表しました。同じ年、新幹線の車内誌の9月号で24ページにもわたるセツの特集が組まれました。そしていよいよ今年の9月末からは、セツをモデルにした女性が主人公の、NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」の放送も始まりました。
このタイトルは、恐らく妖怪や幽霊の「ばけもの」「ばける」という語感からとったものでしょう。このようなセツの大ブームを見ると、今まさにセツが「大きくばけた」とも思えます。
ドラマ化に合わせて、このたび先述の『八雲の妻 小泉セツの生涯』が文庫化され、潮出版社から刊行されました。この文庫にはセツの回想録「思ひ出の記」やセツの手による「英語覚え書帳」も収録されており、小泉セツを知るための決定版となっています。(巻末に小泉凡氏による「解説」も収録)
私自身は存命中のセツとは会っていません。彼女の孫である父・時(とき)から聞いた話では、彼女は晩年まで、毎朝、鏡の前で身だしなみを整える凛とした女性だったようです。
そんなセツは八雲が亡くなった後、生活に困窮しますが、八雲の友人たちの奔走で、著作権収入を確保することができました。彼女は人徳と粘り強さによって、苦しい中にも安らぎのある晩年を生き抜きました。セツにはどんな逆境も乗り越え、未来へと進む力がありました。それこそが本当の意味での「ばける力」なのかもしれません。
ちなみに八雲の本を読むと、あの時代に現代社会を予言していたところがあります。彼は当時、世論と政治があんなに結びつきやすい国はないとアメリカのポピュリズムを問題視しています。今後、経済戦争の時代が訪れ、中国を中心に世界が回っていく、ロシアは必ずスカンジナビア半島など周辺諸国を侵略する――とも指摘していました。彼に予知能力があったというより、何ごともオープンマインドで偏見なしに見ていたからこそ、ものごとの本質を的確につかめたのだと思います。
八雲とセツは世間体や一般的な価値観に左右されず、主体性をもって生きた新しい感覚の持ち主でした。同時に日本の古いものの魅力を見つけ、大切にしました。そのような両面性をもったうえで、未来志向で前向きに「ばける力」を発揮しました。
そんなセツと八雲に、ようやく時代が追いついてきた、といえるのかもしれません。
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小泉八雲の妻・セツの人生がこの一冊に凝縮!
出雲・松江でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)とめぐり合い、人生の伴侶であっただけでなく、『怪談』などの再話文学創作における最高のアシスタントでもあった小泉セツ。
そんな一人の女性の生涯を、豊富な資料をもとに丁寧に描き出した唯一無二の力作評伝。
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民俗学者・小泉八雲記念館館長
小泉 凡(こいずみ・ぼん)
1961年東京都生まれ。小泉八雲・セツ曾孫。成城大学文芸学部・同大学院文学研究科で民俗学を専攻。87年より島根県松江市で暮らす。現在、小泉八雲記念館館長、焼津小泉八雲記念館名誉館長、島根県立大学短期大学部名誉教授を務める。『セツと八雲』(朝日新書)ほか著書多数。