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ただ一つの尊い道【書籍セレクション】

1981年(昭和56年)5月3日、創価大学のグラウンドで、池田大作は身体に障害のある人たちに語りかけた。
「私と君たちは、きょうだいだよ」
小児麻痺になり、不自由な生活に悩み続けた友は、母に「どうして殺してくれなかったのだ」と叫んだこともあった。
やがて彼は創価学会に入り、「この世界だけが、われわれ身体障害者を差別しなかった」と綴った。
「国際障害者年」のこの年、池田が語ったメッセージをひもとく。
『民衆こそ王者 池田大作とその時代』22巻から一部を抜粋してご紹介します。

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「11月18日」は、創価学会の創立記念日である。1930年(昭和5年)、初代会長の牧口常三郎と、第二代会長の戸田城聖が、『創価教育学体系』第1巻を世に出した。その奥付に、 昭和5年11月18日発行と記されている。

 この日は、治安維持法違反と不敬罪の容疑で捕えられた牧口が、44年(同19年)に獄中で生涯を終えた日でもある。

君たちのためなら いかなる迫害も

 2023年(令和5年)の11月18日は、土曜日だった。世界の各地で、創立記念の大小さまざまなミーティングやイベントが開かれた。

 日本はちょうど「座談会の週」。創価学園の東京キャンパスにほど近い馬場益代の家でも、午後1時半からブロック座談会が行われていた。

 益代が池田大作の訃報を知ったのは、座談会が終わった直後だった。午後3時に正式発表されると、次々と海外のメディアも報じ始めた。

「未だに心の整理はつかないですけど、池田先生は、本当に長きにわたって私たちを守ってくださったんだなということを、日を追うごとに感じています」と益代は語る(2023年11月21日に取材)。

 また「ご長男である博正さんの談話を聞いて、学園生のことを思いました。まさに私たちの支部に、学園があるものですから。子どもたちがどんな思いをしているだろうか、と」とも語った。益代は普段、車椅子を使っている。自宅から創価高校、創価中学校まで10分ほどで着く。

 2023年11月18日の午後3時――創価学会の主任副会長であり、池田の長男である池田博正が談話を発表した。

 父は11月15日に生涯を終えたこと。母の香峯子が、同志への感謝とともに「もともと医師からは、30歳まで生きられるかどうかと言われていた主人が、信心と戸田先生の薫陶のおかげで、ここまで長寿を重ね、使命を全うすることができました」と語ったことなどに触れた後、次のように述べた。

 
 なお、本日まで、このことの公表を控えておりましたが、創立記念日の諸行事、なかんずく学園の行事を予定通り行ってもらいたいとの、家族の意向からです。

 父も、きっと、その通りだと言ってくれていると思います。

 この談話の「なかんずく学園の行事を」という一言が胸に迫った、と語る人は多い。

 池田は2000年(平成12年)に、「大空を見つめて」という長編詩を綴った。副題は「愛する学園のわが子に贈る」。その中に、次のようなくだりがある。

ある日 ある時
ふと 私は妻に漏らした
「嫉妬うず巻く日本を去ろう
世界が待っているから」
 
その時 妻は
微笑んで言った
「あなたには 学園生がいます
学園生は どうするのですか?
きっと 寂しがりますよ」
  
そうだ!
そうだ 学園がある!
未来の生命たる
学園生がいる!
君たちのためなら

私は
いかなる迫害も
いかなる中傷も
いかなる試練も
まったく眼中にない

(2000年2月8日付「聖教新聞」)

「11月18日の座談会が終わった後、先生のご逝去を知った時、最初は、その場にいた皆さんも、信じられない、悲しい、という感じでした。でも、きっと先生は私たちにも、学園生にも、『悲しむよりも、前に進め』とおっしゃっているんだろうなと思います。

 言葉で言い尽くせないんですが、私は先生から人生を生き抜くためのすべてを教えていただきました。大感謝の気持ち、いや、大大感謝の気持ちです」(馬場益代)

 11月22日には創価学会葬が行われた。挨拶に立った会長の原田稔は、不思議な時の符合に触れた。

 改めて『体系』の奥付を見ますと、発行日「11月18日」の横に記されている印刷日は「11月15日」となっています。
(2023年11月24日付「聖教新聞」)

 原田が言及した『創價教育學體系』。第1巻の奥付には、二つの日付が並んでいる。

 昭和五年十一月十五日印刷

 昭和五年十一月十八日発行

 その左下に記されているのは、著作者が「牧口常三郎」。発行兼印刷者が「戸田城外(のちの戸田城聖)」。印刷所は「精興社印刷所」。発行所は「創價教育學會」。発売所は「冨山房」。

 牧口、戸田の二人が名前を並べ、"創価の物語"が産声をあげたその日に、池田は今世の旅を終えた。

「絶対に使命がある子です」

 馬場益代は3歳の時、ポリオ(小児麻痺)を患った。後遺症で両足に麻痺が残った。両親が創価学会に入ってしばらくしてからのことだった。

「今と違ってワクチンがなくて、ポリオで死ぬ子どもがとても多かった時代です。学会の皆さんは私の両親を『ポリオにかかって、生き残ったのよ。絶対に使命がある子です。育てきって、益代ちゃんに使命を果たさせてあげて』と懸命に励ましてくれました」(馬場益代)

 日本でポリオが大流行したのは、池田が第三代会長に就いた1960年(昭和35年)、そして翌年のことだった。

「私も克服を真剣に祈った。……1960年には、前年の3倍、全国で5600人以上が感染し、317人が死亡している。バタバタと倒れていく子どもたち。『次はわが子か……』。母親たちは、恐怖におののいた。

 当時、有効とされた『生ワクチン』は、日本では使用が認められていなかった。もっとも研究が進んでいたソ連のワクチンを輸入できない状況であった。それどころか、ソ連からの『生ワクチン寄贈』の申し出も、当時の政府(厚生省)からストップがかかった。『まだ、効くかどうかわからない』と。――しかし、その研究(試験)に、また何年もかかるのである。その間に、子どもたちは、次々と倒れていく。各地でデモや陳情、集会が繰り返された。

 翌1961年。また、流行期の夏が近づいてきた。このままでは、前の年以上の犠牲者が出ることは明らかだった。流行は続く。ついに母親たちが立ち上がった。『子どもたちに生ワクチンを!』。命をかけた叫びは、全国に広がった。

 さまざまな考えや立場、事情は当然あったであろう。ただ一般的に言って、現実に、そこに救いを求めている人々がいる時、かりに、へ理屈や権力、自分たちの威信のために、"薬"を与えない人々がいたとしたら――。そのような権利は、だれ人にもないと私どもは思う。(拍手)

 ソ連では、すでに数百万の子どもに『生ワクチン』を使用。小児マヒを克服していた。100%の効果と言われていた。

 しかし、当時の反ソ的な政治勢力と、法律(薬事法)をタテにした役所のカベ、また、自社の薬が売れなくなることを恐れる一部の製薬会社の反対などもあったようだ。ソ連のワクチンは、日本の母親たちの手に届かなかった。

 広がる国民運動を前に、ついに役所も重い腰を上げた。ソ連の『生ワクチン』を、1000万人分、緊急輸入することを決めたのである。

 7月12日。モスクワから空路20時間かかって、待望のワクチンは到着した。

 その5日前、7月7日現在で小児マヒ患者は、この年、1418人(死亡94人)。7日には、私の故郷であり、当時住んでいた東京の大田区の多くの地域も、『小児マヒ危険地域』(流行の恐れのある地域)に指定された。

 ワクチンの到着後、約1週間で、全国での投与が開始された。その効果はすばらしかった。発病は、文字どおり激減。急カーブを描いて、流行は沈静化していった。

 1カ月後には"一人も患者が発生しない"状態になり、東京都の『小児マヒ対策本部』も解散。まさに、目を見張るような『ワクチン』の効果であった。

 幼児を持つ母親たちは、胸をなでおろした。感謝してもしきれない気持ちであったにちがいない。……また、もっと早く、ワクチンを輸入していたら、助かった子どもがあまりにもいたことも忘れてはならない」(1991年、フランスでのスピーチ。『池田大作全集』第77巻)

"私は届けると約束したのだ!"

 この時、池田はソ連の医師たちの闘いも紹介している。「第二次宗門事件」の渦中だった。日蓮正宗(以下、宗門)は創価学会の「破門」という暴挙に出た。「御本尊の下付」も拒んだ。

 日蓮は「御本尊」を「薬」に譬えた。〈大良薬たる南無妙法蓮華経なり〉と語り(御義口伝、御書755㌻、新1052㌻)、佐渡の千日尼宛の手紙には、次のように綴っている。

 ――この御本尊は、文字は五字、七字であるけれども、三世の諸仏の師であり、一切の女人の成仏の印文です。……御本尊というこの良薬を持つ女性らを、地涌の菩薩が、前後左右に寄り添って立ち、女性が立たれたならば、この大菩薩も立たれます。この女性が道を歩む時は、菩薩もともに道を歩まれます。たとえば、影と身、水と魚、声と響き、月と光のように、この女性の身を守って決して離れることはありません│(妙法曼陀羅供養事、御書1305-6㌻、新1726-8八㌻、趣意)

 また「変毒為薬」――毒を変じて薬と為す――という言葉も、学会員になじみ深い。日蓮は〈毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる。故に妙法と申す〉と教えた(新池殿御消息、御書1437㌻、新2059㌻)。

 池田が紹介した「ポリオとの闘い」の歴史は、人類のための仏法を、自らの保身の道具にし、人々を圧迫する宗門の非人道性を浮き彫りにしていく。

「ひと口に『一千万人分のワクチン』というが、製造は並大抵のことではない。しかも、それまで『寄贈』さえ拒否していた日本が、突然、『すぐに送れ』である。間に合うかどうか。しかし、ぐずぐずしていたら、子どもたちが危ない。不眠不休の仕事が続いた。

『そんな遠い国の人々のために、どうして』と言う人もいた。『自分の研究が忙しい』と言う人も。無理もなかった。そのうえ、それだけの犠牲をはらってワクチンを作っても、経済的にも、学者としての出世の面でも、プラスになるわけではないのである。

『日本の子どものことなんか関係ない』といえば、それまでであった。『助けたいが物理的に無理だ』と言えば、いくらでも言える状況であった。

 しかし、ソ連の研究者たちは言った。『やろう!』と」(前掲全集)

「"われわれには、たくさんの困難がある。また悲惨な状態にあるのが、はるかかなたの国(日本)であることも事実だ。しかし、助けられる可能性があるのだ。その時に、助けようとしないやつは、いないだろう。それでこそ『人間』じゃないか。そこに『人間』の基準があるんじゃないのか" "薬"を必要とする人がいる限り、あらゆる障害を越えて、ともかく"薬"を届けるのが『人間』だ――と。

 こうして、研究所では24時間態勢がとられた。スタッフの不眠そして不休の献身的仕事で、ワクチンは完成した」

 輸送はトラブル続き。日本の厳しい条件もなんとかクリアした。しかし、ソ連の官僚の壁が立ちはだかった。飛行機の離陸が許可されない。

「すべてのカベを破ったのは、"待っている人がいるのだ! 私は届けると約束したのだ!"という責任者の一念だった。

 彼は、規約をタテに、飛行機を飛ばそうとしない役人を、どなりつける。役人は『僕は国家の人間ですから』と、上の言うことを聞いているだけだと告げる。医師は怒る。

『何だと、お前が、国家の"人間"! "人間"だって! お前は"鎖"だよ。君らは皆、ひとつの権力の鎖で結ばれているんだ』

 規約や命令機構のために人間がいるのか、人間のために、それらがあるのか。ただ頑ななだけの役人は、"人間"ではなく、人々をがんじがらめに縛る"権力の鎖"の輪の一つにすぎない。だれかが、鎖を切らなければならない――と。

 ともあれ、ただ『人道』のために、悪戦苦闘を乗り越え、『ワクチン』は届けられた。"わが子を救いたい!"という母親たちの一念と、"日本の子どもを救いたい!"というソ連の医師の一念が、国家のコンクリートのカベを壊こわした」(同)

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※当記事は『民衆こそ王者 池田大作とその時代』22巻から抜粋をしたものです。

続きが気になった方はこちらもご覧ください。

「人間主義」の連帯は、いかに国境を越えたのか。
1979年から1981年へ。反転攻勢の軌跡を辿る。

『民衆こそ王者 池田大作とその時代22 道を開く人篇』「池田大作とその時代」編纂委員会著、定価:1265円、発行年月:2025年10月、判型/頁数:四六並製/272ページ

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【目次】
第1章 ともに苦楽を祈る日日――裏切りの嵐の中で
第2章 彼らは「人間」なのです――世界広布元年①
第3章 私は深く、熱く信じた――世界広布元年②
第4章 信仰の労作業を避けるな――世界広布元年③
第5章 ただ一つの尊い道――世界広布元年④
第6章 一人が立ち上がればよい――世界広布元年⑤
第7章 久遠元初の法を求めて――世界広布元年⑥
第8章 「池田大作はここにいる」――世界広布元年⑦