プレビューモード

久遠元初の法を求めて【書籍セレクション】

難局に臨み、「断じて"われ関せず"の傍観者になってはならない」と叫んだ、堅実なリーダーがいた。
「肉化されていない教学の生兵法(なまびょうほう)は、いざという時には何の役にも立たない」と自らを戒めた経済人がいた。
池田大作が指し示した「久遠元初の法」を求めて、生命の炎を燃やし続けた人々。それぞれの師弟の物語をたどる。
『民衆こそ王者 池田大作とその時代』22巻から一部を抜粋してご紹介します。

******

 池田大作の提案で植樹され、立派に育っていた大石寺・総坊前の桜を、日蓮正宗(以下、宗門)の管長である阿部日顕が、次々と280本余りも切り捨てる蛮行に及んだことがあった(1992年から93年にかけて)。

 日顕は1990年(平成2年)、池田を法華講総講頭から罷免。翌年には創価学会に「破門通告書」を送りつけた。「第二次宗門事件」である。日顕はこうした策謀を自ら「C作戦」と名づけた。「C」は「切る」――「カット」(CUT)の頭文字。「切る」相手がいなくなったら、桜まで切り始めたのである。

 そのことを知り、「いくら嫉妬心からと言っても、桜の木に八つ当たりするなど、常人に出来ることではない」「まったく狂気の沙汰です」と怒りを露わにしたカトリックの重鎮がいた。上智大学教授などを務めた、宗教社会学者の安齋伸である。バチカン聖庁の、アジアでただ一人の信徒評議会評議員(当時)でもあった。

「千波万波と折伏を続ける力」

 彼の論陣は力強かった。池田は後に〈学会を破門した宗門に対する怒りは、"この温厚な方が、これほど怒るのか"というほどの激怒であった〉と綴っている(池田のエッセー、2001年10月14日付「聖教新聞」)。

 安齋が創価学会に着目したきっかけは南の島々だった。1962年(昭和37年)、留学先のウィーン大学から帰国。その翌年、沖縄や奄美の地で「カトリックがどう広まったか、受け入れられたか」を調べ始めた。

 だが、幾つかの島を歩くうちに、これまで見たことのない民衆運動が目の前に現れた。

〈「奄美と沖縄にまいりまして、学会員の千波万波の『広宣流布』の活動に注目せざるをえなかったのです」――。

 なぜだ? なぜだろう? この身勝手で、個人主義で、宗教蔑視の国で、なぜ、ここまで広がっていくのか? これは、ただごとじゃない。

 沖縄には、伝統のユタ信仰もあるし、時代とともに、世の中は無宗教になりつつある。教会よりも、テレビのほうがいいという時代だ。なのに、なぜ?

 安齋先生は、沖縄本島だけでなく、宮古島、池間島、石垣島、そして日本最西端の与那国島にも渡られた。その先々で、学会員とひざづめで語り合われた〉(同)

 池間島では、座談会を開くたびに石を投げつけられた人がいた。漁師が学会員になると、漁船に乗ることすら拒まれた。彼らの不屈の信仰に触れて、安齋はそれまでの"常識"を省みる。

〈指導者の指導もさることながら、学会はこのような庶民の素朴な信仰に支えられていることを感じさせられ、このような信仰を単純に、そして観念的に御利益信仰の一言で批判することは当を得ないということを思わざるを得なかった〉(『南島におけるキリスト教の受容』第一書房)

 学会員との出会いは沖縄・奄美だけではなかった。ロサンゼルスやメキシコシティーでも学会活動の現場を訪ねた。「私の身内にも京都につたさんという実に魅力ある学会員の女性がおり、近所には我が家の分まで、こっそり草むしりしてくれる学会員のおばさんがいる」(1974年3月24日付「聖教新聞」)。

〈……そして、出された結論。「創価学会のリーダーは、みなさん、入信前に前例がないほど人生苦をなめ、『苦労』を重ねておられます。そして、その苦労を信仰によって乗り越えた『体験』がある。だから、学会への批判や攻撃にもめげずに、千波万波と折伏を続ける力を持っておられるのでしょう。そして、『苦しんでいる人を救ってあげたいんだ』という気持ちを強くもっておられました。リーダーのこの『確信と慈悲』こそ、創価学会の拡大の力ではないでしょうか」

 (安齋)先生は、こう書かれた。

「(沖縄の学会のリーダーは)それぞれ人生の辛酸をなめ、信心による功徳の体験から、苦難を克服し、その喜びを人々に伝えるため、その昔、カトリックの宣教師たちが、道なき道や草むらを、ハブの脅威をものともせず、踏み分け、小舟を漕いで村々に渡り宣教したように、いな、それ以上の苦労に耐えて、沖縄の学会員は、南島全域に会員数を増やし、宮古と石垣に正宗の寺院を創設し、また、ユタの俗信で、経済的負担も重かった人々の重荷を取り除き、人々の生活の合理化に尽くしたことは、キリスト教の宣教師も、高く評価したのだった」〉(前掲、池田のエッセー)

 安齋は創価学会の実像を、自分の目と、耳と、足で確かめた。そして宗門との違いについて、次のように語った。

「沖縄ひとつを考えてみても、かの地で道を踏み分けて、広布にあたった宗門の僧侶が、どれほどあったであろうか。私は、南島で、このような僧侶に会ったことはまったくなく、南島の正宗寺院を建てたのも会員、大石寺の大伽藍を寄進したのも、学会と会員の熱心な信心によるものではなかったか」(同)

―中略―

宗教者自身が語りに語る時

「政治が宗教を支配する」という"素地"は、「戦後」も変わっていない。安齋は、ある宗教団体の行事に参加した。

安斎 政治家が来賓席の上座を占め、宗教界関係者は下座に配席されていました。まさに、「国家が上で、宗教は下」という考え方を象徴する光景でした。

 それを主催者である宗教団体が自ら容認してしまっているとしたら情けないことです。(同)

「政教分離」の誤りについても、舌鋒鋭い。

安斎 宗教者が社会のあらゆる問題に対して発言あるいは行動するのは当たり前ですし、政治に参加するのも当然の権利です。信仰を持っていると、候補者を支援したり、選挙活動したりすることができないとすれば、それは明らかに「信教の自由」の否定となってしまいます。

 確かに、フランスなどの場合の「政教分離」の理念には、宗教の政治への不介入という考え方も含まれています。しかし、それはフランス革命当時、堕落した聖職者が政治のみならず社会全体を支配し、絶対的な権力を握っていたという歴史的背景にもとづいているのです。

――日本の場合は、どうでしょうか。

安斎 フランスのような史実はありません。現代社会においても、特定の宗教が絶対的な政治権力を握って権勢をふるうというようなことはありえないですし、また、戦前の国家神道にしても、軍部権力のもとに屈従していた。したがって、日本において「政教分離」を論じる場合には、むしろ政治が宗教を統制しようとする古来からの体質を変えていくことのほうにこそ、力点を置かなければならないのです。

――政治を含めて社会的な様々な問題に宗教がかかわっていくことに対し、「特定の教義によって人々を支配する危険がある」などという的外れな批判もありますが……。

安斎 それこそ見当違いもはなはだしい。宗教者が社会の様々な問題に関心を持ち、取り組んでいく時、信仰が活動の動機となり、源泉となることは当然でしょう。宗教的信念や信仰によって得た精神的エネルギーは健全な社会の発展を願い、その実現へ努力していく上での大きな支えともなるはずです。その場合に、ものを言うのは各宗派の教義や信仰形態などではありません。たとえ、そこから出てくるものであったにせよ、大切なのは宗教者がもっている人類に共通する普遍的な価値観です。

 ちょうど池田のエッセー集『私の世界交友録』(読売新聞社)が発刊されたばかりだった。東西の「冷戦」を終わらせたソ連大統領のゴルバチョフ。アメリカのバスボイコット運動で名高いローザ・パークス。南アフリカのアパルトヘイトと戦ったマンデラ。タンゴの帝王プグリエーセ……「週刊読売」に連載された、50人を超える人々と重ねた対話の記録である。

 安齋は訴えた。

「真の信仰」の人間にとっての意味も、宗教の社会的意義も分からない政治家が宗教を論じようということ自体、傲慢にもほどがある。しかも、それが政治的な陰謀であることは明らかです。そういう"政治屋"には、まず、謙虚に『私の世界交友録』を読め、と言いたい。

 しかし、未来への何の方途も見いだせずに、国民に示すこともできない政治家にいまさら目覚めよといっても無駄かもしれません。彼らの頭の中は次の選挙対策でいっぱいでしょう。

 また、経済人に目覚めよといっても、長期不況の後遺症の立て直しにきゅうきゅうとするばかりで、やはり期待できません。結局、宗教界が今こそ目覚めて、混迷の社会をリードしていく以外にないのです。真の宗教とは何か、を宗教者自身が語りに語っていく時だと思います。(同)

******

※当記事は『民衆こそ王者 池田大作とその時代』22巻から抜粋をしたものです。

続きが気になった方はこちらもご覧ください。

「人間主義」の連帯は、いかに国境を越えたのか。
1979年から1981年へ。反転攻勢の軌跡を辿る。

『民衆こそ王者 池田大作とその時代22 道を開く人篇』「池田大作とその時代」編纂委員会著、定価:1265円、発行年月:2025年10月、判型/頁数:四六並製/272ページ

購入はコチラ

【目次】
第1章 ともに苦楽を祈る日日――裏切りの嵐の中で
第2章 彼らは「人間」なのです――世界広布元年①
第3章 私は深く、熱く信じた――世界広布元年②
第4章 信仰の労作業を避けるな――世界広布元年③
第5章 ただ一つの尊い道――世界広布元年④
第6章 一人が立ち上がればよい――世界広布元年⑤
第7章 久遠元初の法を求めて――世界広布元年⑥
第8章 「池田大作はここにいる」――世界広布元年⑦