「民衆こそ王者」〈識者の声〉篇　羽矢辰夫氏

弟子の記憶から生まれた仏教経典 「このように、わたしは聞いた。あるとき、世尊はサーヴァッティー（舎衛城）のジェータ林アナータピンディカ園（祇園精舎）に滞在していた。そのとき、世尊は修行僧たちに語りかけた……」 私は仏教の開祖であるゴータマ・ブッダ（釈尊）の思想の研究をしてきました。研究の第一次資料となるのは、パーリ語で書かれた原始仏教経典です。ほとんどの経典が冒頭のように始まります。じつはこの資料の由来が若干やっかいなのです。というのも、ブッダは自分で書物を著してはいません。もちろん、ビデオやテープにその姿や声が残されているわけでもありません。 彼が折に触れて説いた教えは、それを聞いた弟子たちが記憶し、口頭で次世代へと語りつがれていきました。それがあるとき文字に表され、原始仏教経典の原型ともいうべき原聖典ができあがりました。単純に考えれば、この原聖典には、弟子たちが聞いたブッダの教えがそのまま遺されていたと思われます。 しかし、現在に伝わる原始仏教経典は、明らかに何者かによって整理され、編集されています。どこまでがブッダの直説で、どこからが後世の加筆であるのか、その判別は困難をきわめます。ブッダの直説という観点からは、たいへん疑わしい資料なのです。それでもブッダの直説が遺されているとすれば、この原始仏教経典以外にはありません。 私はブッダの思想について従来の解釈では納得が得られなかったため、ブッダの直説というだけでなく、もっと納得感のある思想としてのブッダの真実を探究してきました。原始仏教経典を尊重しながら慎重に吟味し、実践の意義をふまえた解釈がようやくできるようになったと感じています。詳しくは『ゴータマ・ブッダ その先へ―思想の全容解明』（春秋社）を参照してください。 ちなみに「このように、わたしは聞いた」の「わたし」はアーナンダ（阿難）のことです。ブッダの最も近くにいて、最も多くの説法を聞いていたアーナンダが集会において語り、それをみんなが承認して遺されたという形式になっています。 弟子の思いに込められたブッダ思想の真意 『民衆こそ王者』第20巻を読んで、私はこのようなブッダの教えの伝承と似たものを感じました。私は創価学会員ではありませんが、この本のなかの会員の行動、言葉のなかに、池田大作先生の思想の本質的なものを感じたのです。 この本からは、創価学会員が戸田城聖先生や池田先生のことを尊敬し、敬愛する様子がひしひしと伝わってきます。忘れられない貴重な出会いの場で、戸田先生や池田先生がどのような態度でどのような言葉をかけてくれたのかを鮮明に記憶し、多くの会員が人生の指針としていることがよくわかります。 その場の雰囲気、印象に残った言葉だけでなく、その出会いを自分がどのように感じたのかまで記憶していて、克明に手記に遺していることに驚きます。講義中に眠りこんだことまで書き残しています。当時の会員はみんな貧乏で、悩みを抱え、生きていくのが精一杯でした。働きづめにもかかわらず、熱心に講義を聞きにきていたのです。 この本に触発されて私が思ったことは、ブッダの弟子たちもブッダを尊敬し、敬愛し、その出会いを大切に思っていたであろうということです。ブッダが何をどのように語ったのかに加えて、そのときに自分がどのような感情をいだいたのかまでも伝えようとしたのではないかということでした。 それが編集の段階で、特に後者の部分の多くが削除されてしまったように感じます。現在に伝わる原始仏教経典は、知的な側面に偏っているように感じます。後世の編集者にとってはブッダの教えが最も重要であり、弟子たちがどのように感じたのかまでは配慮がとどかなかったのでしょう。教えを知的に理解することを優先したのだと思います。それは後の時代において、細かな分析や分類が過剰なまでに発達していることからも類推できます。 それでも、いかに編集されているとはいえ、原始仏教経典には弟子たちが大切に思った気持ちも含まれていて、それぞれがブッダの思想の真意を伝えようとしたのだとあらためて思わされました。伝承とは本来そういうものなのでしょう。このようなことが『民衆こそ王者』を読んで私が一番学んだことです。 ここで試みに、本書を原始仏教経典風にアレンジしてみます。「このように、わたしは聞いた。あるとき、戸田先生と池田先生は大阪に滞在していた。そのとき、土砂降りの雨の中、二万人近くの創価学会員が大阪球場に集まっていた。戸田先生は彼らに語りかけた……」「このように、わたしは聞いた」の「わたし」は、民衆一人ひとりです。また「このように、わたしは聞いた」の次に、「このように、わたしは感じた」、「このように、わたしは行った」がつけ加えられるでしょう。そうすることで、時代の躍動感が総体として、そのまま伝わる伝承になっていくと思います。 仏教史上稀有な民衆仏教運動 『民衆こそ王者』を読み、私はあらためて創価学会が、仏教史上稀有な民衆による仏教運動であることを痛感しました。本書を読むと、池田先生がいかに会員を大切にし、会員に尽くしているかがわかります。「病人のためにこそ、貧乏人のためにこそ、いちばん苦しんでいる人のためにこそ、宗教はある。諸君、そうではないだろうか。断じて、大衆を見さげる、いばりくさった人間が大切なのではない。私のこの魂―『大衆に尽くしぬく精神』を、諸君が立派に受け継いでもらいたい」（『民衆こそ王者』第20巻、164ページ） 池田先生は青年部のリーダーに、このように語っています。創価学会の主役は池田先生でも幹部でもなく、一人ひとりの会員なのです。そのことを私は、かつて行った創価学会員へのインタビューでも痛感しました。創価学会の思想の根幹である「人間革命」という言葉をどうとらえているのか。会員に尋ねたところ、一人ひとりが自分の言葉で、自分の生活や活動のなかで実感している「人間革命」について自信をもって語ってくださったのです。 これはすごいことです。池田先生の指導や創価学会の教義を、一人ひとりの会員が自分ごと化しているのです。創価学会の教義を、会員の一人ひとりが生活のなかで活かしているのです。だからこそ会員一人ひとりが、自分の言葉で「人間革命」を表現することができるのです。 創価学会の信仰は出家者や幹部ではなく、庶民である会員一人ひとりの主体的な行動によって広がっていった。ここにこそ創価学会のダイナミックさがあり、創価学会がここまで大きな組織に発展した理由があると考えています。 と同時に、創価学会はどこまでも日蓮の御書や教学を重視しています。教学的、仏教史的な裏付けも決しておろそかにはしていません。出家者ではない一般の会員が御書や教学を真剣に学び、その成果を認定する教学試験制度も整っています。一般の人がここまで教義をきちんと学び、実践している仏教団体は他にないと思います。 さらに創価学会は、励ましの団体です。日蓮は膨大な手紙で悩みや苦悩を抱える門下を励ましました。池田先生も小説や随筆、詩、和歌、写真などさまざまな手段で会員を激励し続けました。そのような励ましにより、自分を卑下していた人間が蘇生していく。そのようなドラマが、『民衆こそ王者』では描かれています。 例えば20歳で失明し、マッサージ業を営む方が創価学会に入会し、自分の使命を自覚するエピソードが紹介されています。その方は「視覚障害者の私を、創価学会だけが一人の人間として存分に生きさせてくれました。いや、そればかりか、人を救い、幸せに導くという人間としての最高の境涯を私に教えてくれました」（同、54～55ページ）と語っています。 さまざまな悩みを抱え、苦悩していた庶民が創価学会に入り、池田先生や会員から励まされ、人間的に成長していく。やがて「励まされる人」から「励ます人」へと変わる。それこそがまさに人間革命だと感じました。 創価学会員は「ボサツ的人間」 大乗仏教は「自利利他」の教えです。自分の利益と他人の利益を、ともに大切にしなさいと教えています。創価学会の会員の多くは、最初は自分が幸せになりたくて入会しているようです。しかし信仰を深めていくなかで、やがて他人の幸福のために行動するようになっていきます。信仰を通して、他人の幸せを自分の幸せと感じる境涯へと成長していくのです。 それを象徴するのが、本書のなかで紹介されている「"他人のことも我が事のように悩める自分にさせてもらった" これが何よりもの私の財産です」（同、22ページ）との婦人の言葉です。このような言葉は、普通の人にはなかなか言えるものではありません。 このようなことを自然に口にできる人は、「ボサツ的人間」と呼んでいいと思います。「ボサツ」と言うと観音菩薩や弥勒菩薩のような、人間とかけ離れた存在をイメージする人もいるかもしれません。本来、「ボサツ」とは悟りを目指し、自利利他の精神で修行をしている人のこと。まさに創価学会員のことです。 仏教は凡夫が仏になるための教えです。凡夫は自他分離的な認識をもっているため、自分の欲望や執着にとらわれ、悩み苦しみます。これは洋の東西を問わず、人類が古（いにしえ）から抱えている実存的な苦しみです。それを自他融合的な認識に変えることが悟りであり、そのような悟りを得た人が仏です。「ボサツ」は凡夫から仏へと成長する途中段階の人、仏になるための修行をしている人です。このような観点からも、創価学会員を「ボサツ的人間」と呼んでいいと思います。既成の仏教団体において、現実世界で「ボサツ」という人間のモデルを、これだけ大規模に体現している団体は創価学会しかありません。 ちなみに凡夫が「ボサツ的人間」に変わることは容易なことではありません。ブッダの時代にそれができたのは出家者だけです。在家の庶民である創価学会の会員が、なぜ「ボサツ的人間」に変われるのか。池田先生の指導に基づき、折伏と唱題を実践するなかで、自他分離的な認識が自他融合的な認識へと変化していくのではないか。仮説の段階ですが、私はそのように考えています。 女性の活躍による創価学会の発展 もう一つ、戦後の創価学会の発展で注目すべきなのが女性の活躍です。『民衆こそ王者』のなかで、ある壮年が地区講義に参加した時のことを次のように記しています。「一婦人が二十数人の老若男女に堂々と講義しているのには驚かされた。その婦人は見たところ、けっして大学を出た、いわゆるインテリというのではなく、どこにでも見られる一婦人で、それも参加者一人一人を歓喜のうずに、琴をかなでるかのように、また、あるときは厳きびしく、自由自在に行なっているのである」（同、106ページ） 戦後の創価学会の発展は、このような女性の活躍によってなされたといっても過言ではないでしょう。当時の女性は、現代からは考えられないほど虐げられていました。家で夫に暴力を振るわれていた女性もたくさんいました。そのような女性が創価学会に入会し、蘇生し、幸せになり、同じように不幸な女性を救っていく。小説『人間革命』にもそのような人間ドラマが描かれています。 創価学会・SGIの人類史的な意義 創価学会の目標は言うまでもなく、世界平和の実現です。SGIはすでに世界192カ国・地域に広がっています。戸田先生は創価学会文化部が参議院選挙に初めて挑戦した時、次のように語っています。「創価学会を大きくしたいとか、……小さな精神は私にはありません。なぜかならば、私は（日蓮）大聖人様の弟子であります。……民衆救済こそ、日蓮大聖人の弟子たる者の覚悟でなくてはならないと信ずるものであります―」（同、169ページ）。ここで語られている「民衆」とは、地球上の全人類のことだと思います。私は創価学会、SGIの運動には、人類史的な意義があると考えています。今、世界各地で戦争や紛争が繰り広げられ、気候変動問題は人類の存続を危ぶむほどの危機的状況です。自国ファーストの風潮も世界に広がっています。これらの現象は、まさに凡夫の論理による結末だと思います。このような利己主義、エゴ中心の心を、自利利他の精神に変えていかなくてはなりません。 自分だけの幸福を追求する「凡夫的人間」に、平和を実現することはできません。二十一世紀になってもいまだ平和が実現できていないのは、世界中が「凡夫的人間」であふれているからです。しかも、世界は今でも、「凡夫的人間」をのり超える新しい人間のモデルを見いだせていません。進むべき方向がわからないのです。 創価学会は今こそ、自他共の幸福を追求する「ボサツ的人間」という新しい人間のモデルを世界に積極的に提示すべきです。世界中が「ボサツ的人間」であふれれば、平和は実現できる。そのような希望のメッセージを世界に発信してほしい。自利利他の精神を時代精神、世界精神にしていくことこそが、創価学会の使命だと私は考えています。 自分たちは「ボサツ的人間」なんだと堂々と主張してほしいと思います。世界中を「ボサツ的人間」でいっぱいにする。創価学会のみなさんにはそんな「新ボサツ運動」とでも呼ぶべき新しい価値創造への挑戦をしていただきたいと願っています。＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 仏教学者、元青森公立大学教授、創価大学名誉教授羽矢辰夫（はや・たつお）

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