意見の違いを抱えながら、同じ目標に向かって進むには何が必要なのか。リベラル政治の分裂やSNS上の"正しさ比べ"を手がかりに、三浦瑠麗氏が、政治に欠かせない人間臭いリーダーシップについて考える。
(月刊『潮』2026年11月号より転載)
あまりにも早い挫折
中道改革連合の挫折は、あまりにも早いものでした。もともと急ごしらえの印象はありましたが、選挙を一緒に戦った勢力が、ほどなくして分裂する。その分かれ方までが、いわゆる「分党」ではなく「分派」という形になったことで、政党交付金をどう扱うのかという話にまで議論が及びました。
政党が分かれる際、分党であれば一定のルールに基づいて資金を分ける余地がありますが、分派となれば、出ていく側がそのまま持っていけるわけではありません。
離婚にたとえるなら、前者は円満離婚、後者は一方が家を出ていくようなものでしょう。そして、こういうときに離婚の比喩が妙に生々しく響くのは、結局そこにお金の問題が絡むからです。
政党交付金は税金を原資とし、国政選挙での得票数や所属議員数などに応じて配分されます。中道改革連合に交付される金額は決して少なくはありません。今回報じられているように、議員を一人残して清算作業を進め、その後に党そのものをなくすという形を取るのであれば、当然、残された資金をどう扱うかという判断が生じます。それをめぐって批判を浴びるのはもっともなことでしょう。
しかし、今回の失敗について私が深刻だと思うのは、お金の問題ではありません。一度つくった政治的な枠組みを、多少不愉快なことがあっても踏ん張って守ろうとする十分に強いリーダーがいなかったということです。
公明党出身者と立憲民主党出身者では、政治文化も支持基盤も違います。安全保障をめぐる考え方にも隔たりがあるでしょう。けれども、それは政党として別段珍しいことではありません。そもそも同じ考え方の人だけで構成される政党など、ある程度以上の規模になれば存在しえないからです。消費税を下げたい人と財政規律を重んじる人、防衛力を増強したい人と社会保障を優先したい人、社会の変化を歓迎する人と物事の継続性を重視する人。それらの矛盾を抱え込んで、どこかで折り合いをつけるのが政治なのです。
政党の中に異論があることは弱さの表れではなく、民主政治において当然のこと。むしろ異論が存在すると一緒にいられなくなるということこそが、弱さの表明に他なりません。
この点で、最近の本田由紀東京大学教授をめぐる騒動は、少し違う角度から考えさせられる出来事でした。本田氏は今年9月に女性皇族に関する他者の投稿を引用する形で、「遺伝的要因のおそろしさを感じる」などとXに投稿し、血統や遺伝的な外見に基づく差別的な表現ではないかとの批判を受けました。東京大学教育学研究科の中でもその後、本田氏に対してSNS上の発信について注意を行ったと報じられています。注意というのは研究室の掃除や衛生状態、喫煙場所利用のルールなどに向けられる最も軽い取り扱いで、正式な処分の中には入りませんから、ことがこれ以上大きくなりそうな気配はありませんが、SNS上での議論は非常に激しいものでした。
発言そのものを批判することには、何の問題もありません。私もあれは不適切な投稿だったと思います。ただ、それは本人の信用が落ちるだけのことで、社会的には少し謝って投稿を取り消せばよい類の失敗だったと思います。
しかし、そこへ役職処分などの要請が出てきた。理由は、ひとえに本田氏がキャンセルカルチャーを率いてきた張本人だったからです。つまり、ここではリベラル左派の二重基準が問われているわけです。普段は他人の失言に厳しい人が、同じ左派陣営に属する学者の発言には沈黙するのであれば、「二重基準ではないか」と言いたくなるのは当然でしょう。その圧に押されてか、公に「本田批判」を展開している人たちもいます。
ただ、「お前はあのとき批判したのだから今回も批判しろ」という一貫性の点検が、政治空間全体に広がったときに何が起きるのかについては、少し慎重になった方がよいと思います。一貫性は、美学としては美しいものです。しかし、人間はそれほど一貫してはいません。ある問題では非常に進歩的なのに、別の問題では驚くほど保守的な人もいる。私たちは皆、その程度には不完全です。
政治がそういう人間を扱う営みである以上、「正しい原則を常に同じ強度で適用できる人」だけを集めようとすると、最後にはほとんど誰も残らないでしょう。
人間臭い技術こそが政治的リーダーシップ
私は、ここに現在のリベラル政治の一つの弱点があると思っています。理念としてのリベラリズムには、本来寛容の思想があってもおかしくなかった。自分が間違っているかもしれないという認識を持ち、自分が不快だと思う言論についても、その存在する自由を認めるということです。ところが実際の政治言説では、いつの間にかリベラルであることが「正しい側に立つこと」とほとんど同義に理解されるようになった。その結果、社会を説得するよりも先に、誰が正しい側にいて、誰がそこから逸脱したかを点検する文化が育ってしまいました。本田氏が率いていたキャンセルカルチャーそのものです。
保守派にももちろん似た傾向が垣間見えます。今回、本田氏がこれまで他者に向けてきた批判を引き合いに出し、「では今度は彼女をパージしろ」と要求するのであれば、それは二重基準を正すというより、相手側の懲罰原理をこちらも採用するということになってしまいます。
こうして政治は党派化します。異なる思想を持つから分断するのではなく、相手がやったことを同じようにやり返すうちに、同じ行動原理を持った敵同士になっていく。相手側の失言者には辞任を要求し、味方の失言者については同情要因となる文脈を説明する。指摘された側は、次に相手が失敗したときのために証拠を保存しておく。SNSはこういった相互監視にたいへん適した道具です。
しかし政治に必要なのは、毎回全員を同じ尺度で裁く能力だけではありません。ある人の意見には賛同できないけれど、この仕事では一緒にやる。過去にひどいことを言われたが、ここでは協力する。相手の欠点は知っているが、それでも社会のために使える能力があるなら使う。そのような、あまり潔癖ではない判断も必要です。
私は、人がどれほど一貫して正しいことを言ってきたかより、別のことを見たいと思っています。目標の実現のために働いたか。考えが異なる人々を纏めあげたか。政党というのは思想の純度を証明するための場所ではなく、違う考え方を持つ人間が、それでも同じ社会を運営するためにつくる器です。政治家は、自分とものの見方が違う人、個人的に付き合いにくい人とも、同じ船に乗らなければなりません。
そこに必要なのは、論理的能力や演説力だけではありません。相手の顔を立てる。妥協の余地を持っておく。負けた側に逃げ道を残す。決定に不満を持つ人間まで組織の中にとどめておく。これはかなり面倒で、華々しさのない仕事です。しかし、そうした人間臭い技術こそ政治的リーダーシップなのだと思います。