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「狂気」をなだめた奥多摩の大自然――松田優作と松乃温泉「水香園」(東京都)
タバコと珈琲を横に
松田優作はひとり台本を持ちながら、あるいは夏休みに子どもたちと家族旅行で、と用途を分けて「水香園」にやって来た。
「10回、いやもっといらしていますね。優作さんはいつも『ここの風景が好きなんだ。生まれ育った田舎の景色と似ていてね』とおっしゃっていました」
松田優作は山口県下関市で生まれ育った。韓国人の母ひとりの家庭で、後に非嫡出子であった出自に心を痛めた様子は『越境者 松田優作』に克明に記されている。緑豊かな奥多摩の風景は松田優作にとって、〝憧れの故郷〞に重なるイメージだったのだろうか。
ひとりで来る時は、多摩川の河原が目の前にある八畳二間の客室「河鹿」を利用した。明治初期の建物ゆえに、富士山や街並みを描いた絵ガラスが特徴だ。
「優作さんは『古いものが好き』と、とっても気に入っていました」
滞在中に特に要望はなく、食事も通常の夕食と朝食を出した。
「川魚の塩焼きや鯉のあらいを出しましたが、残さずに綺麗に食べてくださいました。おひとりで来られるのは新春の頃が多くて、山菜の天ぷらも食べられましたよ」
唯一のリクエストといえば、
「ポットのそばにはいつもインスタントの珈琲が入った瓶が欲しいと言われました。優作さんはヘビースモーカーで、すぐに灰皿が吸殻で山盛りになってしまうので、1日に何回も灰皿を取りかえました。仕事中は座椅子を利用され、畳や窓際の廊下にゴロンとしては、台本を見ていました。その横にはいつも珈琲とタバコがありました。タバコは匂いが残るので、お帰りになると半日は窓を開けっ放しにしました」
松田優作と言えば183センチという長身で知られるが、
「一度だけ、美由紀さんと二人でお風呂に行く後ろ姿を見たのですが、浴衣がツンツルテンで(笑)。優作さんからも『もう少し、大きい浴衣ないの』と言われましたが、それ以上大きなサイズはなくて。
お部屋に入っていた仲居にも、優作さんから『布団から足が出る』と言われたこともありまして、優作さんのために敷き布団と掛け布団をそれぞれ2枚使い、優作さん用の寝床を作っていました」
ひとりの時も、家族で訪れる時も付き人が車で送迎した。
「いつも黒系の服装が多く、黒いジャケットとジーパン姿で、足が細くて『なが!』って思っていました。おひとりの時はサングラスをしていましたが、家族といらした時はかけてなかったです」
過去に1度だけ、すでに満室で予約を受けられなかったことがあった。結局、近所の旅館に宿泊したが、玄関先に「歓迎 松田優作さま」とプレートが掲げられ、サインと写真攻めにあい、松田は「すごく嫌だった」としみじみ女将に話した。
じつは、松田優作の部屋担当の仲居も色紙を持ち歩いたことがあったが、最終的にサインも写真も一度もねだらなかった。
「欲しがったら、優作さんがもう来て下さらないような気がしたんですよね」と女将は控えめに語る。
家族旅行の素顔の優作
松田優作と美由紀は3人の子どもを授かった。子どもたちが夏休みに入ると、松田優作は家族を連れてきて、「河鹿」より広い一〇畳二間の「松」の部屋を使った。
「龍平君と翔太君は本当にいたずらっ子。いつも運動会をしていました(笑)。うちの息子が龍平君と同じ歳だったので、『一緒に遊ぼう』と帳場に来ていたこともありました。優作さんは息子さんがまとわりつくのを『忙しいのに、まったく』という風で、2人が河原で遊ぶ姿を時たま見に行く感じでした。あとは息子さんを連れてお風呂に行っていましたね。美由紀さんとは歳が離れているせいか、甘えさせている印象で、ひとりで来る時より、ずっと穏やかな表情をされていました」
松田優作が亡くなってから、一度だけ、2000年代前半に美由紀と龍平、翔太が「水香園」に来ている。
西多摩霊園(東京都あきる野市)に眠る優作の墓参りの帰りに立ち寄っただけで、宿泊はしていない。
美由紀は「ここに来ると涙が止まらなくなるから、もう来れない」と泣き出し、息子2人はしみじみと父との思い出の庭や河原を歩いていたという。
「水香園」は「相棒」をはじめ人気テレビ番組や映画など、多くの撮影に使われている。なかには、「ここは松田優作さんの定宿だったんですよね」と話を振ってくるスタッフも少なくない。
いまも多摩川のほとりに建つ「水香園」はよく手入れされた3000坪の庭園に、離れ形式で全5棟6室があるのみ。
静けさが保たれ、松田が言う「隠れ家」だ。「河鹿」は多摩川に最も近く、涼やかな川音が聞こえてくる。「松」は少し高い位置で敷地を見渡せる。
松乃温泉はアルカリ性単純硫黄泉。硫黄成分の血管拡張作用は身体を温めるため、痛みに苦しんだ松田も少しは楽になったのだろうか。松田が「風呂も大きい」と気に入った大浴場は健在で、大きなガラス窓越しに多摩川が望める。
女将の中村さんにとっての松田優作とは? と尋ねると、
「うちにいらした時は、話をしてもいつも目が笑っていました。映画での拳銃を持った姿はどこにいったの? と思うほどで、私にとっては映画『探偵物語』の優作さんがいちばんしっくりきます」
ふっくらとした丸顔の中村さんは柔らかな印象で、とても控えめだ。生い立ちも、その仕事の様も「狂気」を帯びた松田優作とは対極にいるような人だ。
松田優作にとって、中村さんは慎み深いファンであると同時に、ただただ寛げる場所を提供し、温かく包んでくれる存在だったのだろう。
文=山崎まゆみ(エッセイスト・ノンフィクションライター)
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