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月刊『潮』が見た60年 1996-2000

薬害エイズ問題―「隠された構造」
池田房雄(ルポライター)

薬害エイズは血液事業の矛盾から起こるべくして起こった、予告された薬害以外のなにものでもない。つまり、薬害エイズは人災なのである。さらに、この薬害の本質には構造があり、その構造は現在も残っている以上、この構造への改革のメスを加えないかぎり同じような事件は繰り返されるだろう。(『潮』1996年6月号より抜粋)

 

沖縄と私たちのあり方をとらえる視点
筑紫哲也(ジャーナリスト・キャスター)

過去も現在も、沖縄を「問題」にしてしまった最大の元凶は本土の「無関心の壁」である。残念ながらこれからもそうだろう。だから関心を持つことは何にもまして大事なことではある。だが、関心を持つに際してのハードルは本土の人たちが思っているよりは少々、いや相当に高くないことには本質が見えてこないと私は言いたいのである。(『潮』1996年10月号より抜粋)

 

香港は中国を変える
五百旗頭真(神戸大学法学部教授) 渡辺利夫(東京工業大学工学部教授)

五百旗頭 経済の面からいうと、香港返還の7月1日というのはなんら新しい事態の創出ではなく、香港と中国の経済的な一体化はすでに進んでいて、いわばその確認のセレモニーであるにすぎない、といえるでしょう。ただ、政治面では微妙で、中国がいっている額面どおりであってほしいと、香港の人は不安をまじえつつ望んでいるようでした。中国も香港という金の卵を生む鶏を絞め殺すことが愚策であることはわかっている。主権を回復した以上、政治的にはコントロールしたい、しかし経済の発展は守りたい、という二つが基本目的でしょうね。
渡辺 ただし、政治的な問題が出てくる可能性はあると思います。反体制派をかくまったり、指導部に罵詈雑言を浴びせるような自由はなくなるでしょうね。香港のジャーナリズムもかなり自主規制を始めています。しかし中国が好んで手荒なことをやるかというと、その可能性は少ないと思います。香港では世界中の有力なプレスが活躍しています。なによりも、下手なことをやれば、香港返還後の最大の政治課題である中台統一に傷がついてしまいますものね。(『潮』1997年7月号より抜粋)

 

生徒と母親が明かす友が丘中学
大谷昭宏(ジャーナリスト)

神戸市須磨区で5月に起きた、淳君殺害事件、そして、これも、少年Aの犯行とわかった彩花ちゃんをはじめとする連続通り魔被害事件は、少年の家裁送致、審判を中断しての精神鑑定に入り、電波、紙面からも遠ざかってしまった感がある。しかし、この4ヵ月、現場を走りまわり、大勢の方を取材し、テレビで朝まで討論していた身からすると、結局、私たちは、またしても、事件から教訓を得ることなく、いつの日か、また凶悪な少年事件が発生した時に、瞬時、この事件が人々の記憶に蘇るだけとなってしまうのか、という忸怩たる思いが残るだけである。(『潮』1997年10月号より抜粋)

 

「がんの時代」を生きる
五木寛之(作家)

がんの問題を考えることは、思想的には日本の社会や世界の問題を考えることに通じ、しかもがんの治療自体、科学の世界から宗教的なところにまで越境していかざるをえないところまできている。そういうことでしょう。そう考えてみますと、医師と患者の間で「私作る人、あなた食べる人」みたいな分業はもうありえない。ともに一つの目標に向かって進んでいくコラボレイションだ。さらにその目標とは何か、という根底がいま問われているような気がするのです。(『潮』1997年12月号より抜粋)
※医師・日本赤十字看護大学教授・竹中文良氏との対談のなかで。

 

「山一」破綻―だが総会屋は生き残る
大下英治(作家)

山一証券が、平成9年11月22日、3000億円近くの簿外債務(帳簿上裏付けのない債務)を出し自主再建の断念に追い込まれた。その引き金となったのが、前日の21日に米国の大手格付け機関ムーディーズ・インベスターズ・サービスが、山一証券が発行する社債の格付けを「投資適格等級」で最低の「Baa3」から「投機的(投資不適格等級)」である「Ba3」に三段階も引き下げ、引き続き格下げの方向で検討すると発表したことにある。格下げの理由の第一として、「総会屋への利益供与事件の影響で、収益力低下の見通しが強まった」とある。いまや、海の向こうでも、あまりにも日本的存在である「ソーカイヤ」に対し、厳しい判定を下している。(『潮』1998年1月号より抜粋)

 

ものいわぬ妻よ!
河野義行(松本サリン事件被害者)

松本サリン事件で、犯人扱いをうけ、その疑惑が晴れるのに丸一年がかかった。意識不明の妻を抱えながら、自分自身もサリンの後遺症に苦しみ、警察やマスコミ、そしてそこで形づくられた私を犯人視する市民感情とも闘わなければならなかったのだ。その渦中では、いくら潔白を訴えても、その声は届かず、ただ冤罪の歯車に巻き込まれていく自分をどうすることもできなかった。無言電話や嫌がらせの電話が昼夜となくかかり、子どもたちを怯えさせた。匿名の脅迫状も20通を超えた。そんなとき、私や子どもたちを大きく支えてくれたのは、ただベッドに横たわっているだけの妻・澄子だった。彼女の存在が、私たちにとってどれほどの励ましになったかはかりしれない。だからこそ、いま、私は、絶対に治す、きっと治してみせる! と決意しているのだ。そのためにいいと思うことは、なんでも試している。希望を捨てないかぎり、諦めないかぎり、そこに必ず道は開けるはずだ。(『潮』1998年7月号より抜粋)

 

淀川長治さんの映画の手紙
大林宣彦(映画監督)

映画とは想像力のメディアなのだ。実際は目を開けて映像を見ている筈なのだが、真実はその映像から触発され、導き出された夢や願いを、心の闇の中に光として醸成する。そういう意味で、映画とは映像の行間に棲むものなのだ。情報としての映像の連なりの、その映像と映像との間に存在する目には見えない何ものかを一所懸命まさぐろうとする、それがぼくらの時代の、映画であり、映画を見るということであったのだ。だからこそ淀川さんは、映画を見よう、映画さえ見続けていれば、世界をよく知り、世界に対して、賢く、優しくなることができるだろう、と生涯を映画に捧げることを、喜びとも誇りともされたのであるだろう。淀川さんの死は、ひとつの映画の時代の終わりを告げている。(『潮』1999年1月号より抜粋)

 

七大陸最高峰登頂の次は
野口 健(登山家)

一冊の本が人間の生き方を180度変える、すごい力があるんですね。植村さんは地方から上京して田舎者と馬鹿にされ、就職にも失敗して誰にもできなかったことに挑戦してやろうと世界を放浪する。それが単独登頂という命がけの冒険に繋がっていく。比較にはならないけど、私は植村さんの人生に自分を重ね合わせて体が震えるほど感動した。家でも学校でもその本を何十回となく読んだ。普通ならマイナスになるはずの停学が、私に生きる希望を与えてくれたんです。(『潮』1999年9月号より抜粋)

 

地球上から飢えをなくすために
アマルティア・セン(ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学寮長)

貧しさとはいったいどういう状態か。これは普通「収入が少ないこと」と捉えられていた。稼ぐお金が多いとお金持ちで、少ないと貧しいとされていたのです。しかし本当にそうでしょうか。貧しさとは決してお金だけで測れるものではありません。貧富の指標は、財産や富ばかりでなくきちんと教育を受けられるか、バランスのとれた食事をとれるか、病気や事故にあったときに適切な治療が受けられるか、また人生においてさまざまなことに挑戦する機会が十分に与えられるかなど、人間として基本的な要素も含めて考えなくてはなりません。その人の可能性や伸びる素質である〝潜在的な能力〟を存分に発揮できる環境があって初めて豊かだといえるのです。(『潮』2000年2月号より抜粋)

 

オウム以前・オウム以後
鶴見俊輔(評論家・哲学者) 関川夏央(作家)

鶴見 オウムの問題は実は日本人全体の問題で、教祖を死刑にすれば片づくというものではない。二・二六事件(1936年)のときでも、首謀者は死刑になったけれども、今度は陸軍全体が二・二六の若手将校と同じ思想になり、やがて国民全体がその思想になった。それが大東亜戦争につながった。
関川 私たちの戦後教育的史観では軍部が勝手に悪いことをしたことになっているのですが、むしろ、軍部には鶴見さんがおっしゃる意味での「悪人性」が足りなかったんですね。情熱と善意と野心、それからエリート意識、その結晶体が国を滅ぼした。軍部だけでなく、普通の人々がそれを望んだわけです。少なくとも満州事変(1931~37)は景気回復の手段として人々が望んだ戦争で、掌の上で燃やしたつもりの炎が1937年(日中戦争開始)以降手に負えないほど燃え広がった。そこで求められたのが「悪人性」です。またはリアリズムです。そういった冷厳な政治方針がありさえすれば暴走はなかったと思います。だから「善意は国を滅ぼす」という思いが私にはあって、これも微妙な言い方になりますが、オウムに反対する99%の人たちにも、善意のオウムの可能性をふと感じたりするのです。むろん私自身を含めて。(『潮』2000年4月号より抜粋)

 

 

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