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「政治と宗教」をめぐる一問一答(上)

社会における宗教の役割、信教の自由、信仰継承とは――。月刊『潮』編集部からの問いに、一人の信仰者として答える。「政治と宗教」をめぐる一問一答。(『潮』2022年11月号より転載、全2回の1回目)

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ーー安倍元首相の襲撃事件をきっかけに、旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と関わりがあった政治家への批判が高まっています。今回の事件をめぐって議論されるべきは、「政治と宗教」の問題なのでしょうか?

 旧統一教会問題をめぐって、政界やマスメディアでは、「政治と宗教」の関係が論じられていますが、この切り口自体に信教の自由を侵害しかねない深刻な問題があると私は考えています。

 旧統一教会をめぐる問題を「政治と宗教」という切り口からとらえると、事柄の本質がわからなくなると思います。宗教団体だけでなく、企業、政党、労働組合、学校、NPO法人などでも、違法行為や、違法ではないとしても社会通念から著しく逸脱した行為をした場合、それは非難されるべきで、その行為に応じて法的、社会的責任を取らなくてはなりません。

 旧統一教会に関しては、その信仰ではなく、社会通念に照らして受け入れがたい霊感商法による物品販売、高額献金による信者の破産、家庭崩壊などの具体的行為を問題とすべきです。

 違法行為や社会通念から著しく逸脱した行為が頻発している団体との支持協力関係について、宗教団体であるか否かにかかわらず、公人である政治家は慎重であるべきです。これは、「政治と宗教」の問題ではなく、政治倫理の問題です。


ーー事件後、法律によって「カルト規制」を行うべきという論調も目立ちますが、そもそも「カルト」とは何なのでしょうか? また「宗教」と「カルト」とは、どのような関係があるのでしょうか?

 まず特定の宗教団体、特に新宗教に対して「カルト」というレッテルを貼るアプローチが適切であるとは思いません。カルトとは、英語のcult(カルト)の日本語訳です。意味は、〈(1)祭礼儀式。/(2)ある人、物事に対する熱狂的崇拝。また、そのような人々の集団。特に、少数で組織される狂信的宗教団体。転じて、邪教の意でも用いられる〉(『日本国語大辞典』小学館、ジャパンナレッジ版)ということですが、マスメディアでは(2)の意味で用いられる場合がほとんどです。

 フランスには「反カルト法」があるという報道もときどき目にしますが、正確には「反カルト法」ではなく、「反セクト法」(正式名称は、「人権及び基本的自由の侵害をもたらすセクト的運動の防止及び取締りを強化するための2001年6月12日法律2001ー504号」)です。

 セクトに関して、キリスト教神学においては基本的了解があります。これはドイツの神学者で歴史哲学者のエルンスト・トレルチ(1865〜1923)が提唱したキリスト教信仰共同体(集団)の区分です。

 トレルチはキリスト教徒の集団を教会とセクト(分派)と神秘主義集団の三つに分けました。教会とはカトリック教会、正教会、ルター派教会、改革派(カルバン派)教会などの伝説を持つ大教団です。神秘主義集団は、祈りや瞑想によって神と直接一体化できると考える人々のコミュニティーです。セクトとは、教義、信仰などの理由によって教会から分離したグループです。

 たとえば、受動的抵抗権も認めない絶対平和主義の立場を取るメノナイトや、日曜日ではなく土曜日に礼拝を行うセブンスデー・アドベンチストなどがかつてはセクトと呼ばれていました。

 しかし、現在では教会とセクトを区別する発想はほとんどありません。プロテスタント教会もカトリック教会から見ればセクトでした。しかし、時代を経るうちに複数の教会が並存するという見方がキリスト教においては主流になりました。

 ちなみにフランスの「反セクト法」で規定されたセクトとは、人の精神や身体を服従させるような活動をする集団を指すもので宗教団体に限られません。その意味でキリスト教の世界でいうセクトとは異なる概念です。

 仏教、キリスト教、イスラム教などの「伝統宗教」も最初は「新宗教」でした。これら三宗教はいずれも世界宗教として発展する過程で「新宗教」ではなく「伝統宗教」と受け止められるようになったのです。

――旧統一教会をめぐっては、常識的な範囲を超える多額の献金が問題視されていますが、これに関連して、宗教団体への「寄付」については法律で上限規制を設けるべきとする議論もあるようです。このような議論の是非について、どうお考えですか?

 日本国憲法第89条では、〈公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない〉と定められています。

 宗教団体の活動は、団体が自らの責任で行わなくてはなりません。財政的に自立していなければ、信教の自由も実質的に担保されません。私自身は日本基督教団(日本におけるプロテスタントの最大教派)に属するキリスト教徒です。私自身の例に即して献金について説明します。

 教会では日曜日の礼拝で献金をします。また教会員は毎月一定額の献金をしなくてはなりません。さらにクリスマス、イースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨祭)にも特別の献金をします。自分の誕生日にも、神によって生命を与えられたことに感謝して献金をします。また手術が成功したときも神に感謝して献金します。教会が献金額を定めることはありませんし、献金を強要されることもありません。

 私は献金を義務と感じたことは一度もなく、自分が所属する教会と日本基督教団の活動を保障するための権利と考えています。私の周囲の教会員も同じ考えです。誰がいくら献金しているかは牧師と会計係くらいしか知りません。献金額によって教会内での地位が異なるようなこともありません。

 教会を改築したり、新たに教会堂を建立する際には、高額の献金を行ったり、土地を寄贈したりする教会員もいます。献金や寄付に上限を設けるような制度が導入されると、宗教活動に深刻な支障が生じます。この点はキリスト教会だけでなく、他の宗教団体も共通して抱いている懸念だと思います。

 
「政治と宗教」をめぐる一問一答(下)はコチラから

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作家・元外務省主任分析官
佐藤優(さとう・まさる)
1960年東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、専門職員として外務省に入省。在イギリス大使館勤務、在ロシア大使館勤務を経て、外務省国際情報局で主任分析官として活躍。『自壊する帝国』『国家の罠』『池田大作研究』など著書多数。第68回菊池寛賞受賞。